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7、崩壊に向かう世界

転移術

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 恭親王ら一行が東の帝都へと発ってから、アデライードはただ空を見上げ、鬱々とした心を抱えて過ごす。当たり前だが彼はエールライヒも連れて行ってしまったので、いつものあの、黒い鷹が碧空を舞う姿を見ることもない。

 皇帝の危篤が伝えられてから、アデライードの心は不安にさざめいている。
 西の女王国と異なり、東の帝国には跡を継ぐべき皇子が、両手両足の指の数を超えるほどいるのだという。老齢の皇帝が世を捨て給うたとて、帝国は磐石ばんじゃくで、微塵みじんも揺れることはない。そのはずだった。

 なぜこれほど胸が締め付けられるのか。灼けるような焦燥と、不安が彼女を苛むのはなぜなのか。

 アデライードはそっと、自らの白金色の髪に触れる。
 いつも彼が撫で、指に絡めとり、唇に触れる髪。時に彼が髪に顔を埋めるようにして、彼女の髪の香りを嗅いでいるのを、アデライードは恥ずかしく思っていたけれど、その度を越した執着が、彼女を安堵させていたのは確かだ。冬至の夜に結ばれて以来、彼は出来る限りアデライードの側にいてくれた。アデライードを愛している、あなただけだと、繰り返し愛の言葉を囁いて抱きしめてくれた。

 今、その腕がないことがたまらなく寂しい。

 修道院で、孤独には慣れていたはずなのに。――一度守られる歓びを知ってしまったら、もはや孤独には耐えられない。
 
 アデライードは、何度目かわからない、淡い溜息をついた。

「マニ僧都様がお見えです」

 リリアに呼びかけられ、アデライードは慌てて出窓の席から立ち上がる。

「今、参ります」

 アデライードはそう言うと、寝台の脇の小卓に伏せておいてある硝子の手鏡を取り上げ、少しだけ髪を直すと、居間へと続く扉を開けた。

「殿下がいないからって、ふさぎ込むのはよくないよ、アデライード。時間のある時に、魔術の訓練や、記憶の整理をしておこう」

 寄木造りの円卓に向かい合って座り、アデライードは素直に頷く。部屋の隅には護衛としてアリナがいつもの女騎士の姿で控え、アンジェリカがお茶を運んでくると、すぐにさがった。

「はい。伯父様。――いくつか、始祖女王の記憶した魔法陣も呼び出すことができました。いろいろと強力そうなので、試したものはないですが」
 
 つがいの魔法陣が発動してからは、アデライードの魔力も安定して、さまざまの魔術を試すことができるようになった。始祖女王以来の魔法陣も、アデライードの魔力量ならば発動することができそうだ。

「例えば、どんなものがあるの」
「――そうですね。まず、転移魔法陣と、高次治癒……などは習得できると便利かなと思っています」
「この前も言ったけれど、転移先の状況がわからないと危険だよ。よくわかっている場所以外では、使うべきじゃない」
「……そうですね。あとは効果のよくわからない魔法陣もあって。〈繭〉とか、名前だけ見てもどんな魔法かわからないんです。あとは〈雷電〉とか――」
「それ、絶対発動しないでよ?」 

 アデライードの話を聞いていたマニ僧都は、近距離の転移魔法を見せてもらうことにした。
  
 アデライードは椅子から立ち上がって部屋の絨毯の上に立つ。両手を腹の前で印を結ぶように組んで、目を閉じる。次の瞬間、彼女の足元に白い、光の魔法陣が現出する。

「ちょっと待って、真言マントラを読ませてくれ!」

 発動しようとするアデライードを制止して、マニ僧都が魔法陣に書かれた真言を読み取る。

「……わかった、いいよ、発動して」

 魔法陣から白い光の粒子が沸き起こり、アデライードの姿を隠してしまう。次の瞬間、アデライードの姿が忽然と消えた。アリナが思わず椅子から立ち上がり、茫然と絨毯を見つめる。

「姫様……! どこに……?」

 時間にして一分もしないで、再び白い魔法陣が絨毯の上に浮かび上がり、眩い光の中からアデライードが現れる。――手には、彼女が庭で折り取った、白い百合の花があった。

 マニ僧都が立ち上がって手を叩く。

「お見事!……庭まで転移して、また戻ってきた。さすがだね」

 褒められて、アデライードがはにかんだ笑顔を見せる。アリナは安堵すると同時に、目の前の出来事が信じられない気持ちでいっぱいだった。

 アリナとて魔力はあるし、魔術に触れる機会もあった。ソリスティアに来る時にも、転移門ゲートも利用した。
 だが、普通の転移魔法は、神世より伝えられた巨大な魔法陣に対し、数人の術者が協力して魔力を込め、発動させる。しかし今、アデライードは何もないところに魔法陣を呼び出し、発動させたのである。その目で見ても信じられなかった。

「とくに問題はなかったかい?」
「庭の、広い場所でしたので……警備する衛兵の方がびっくりして尻もちをついてしまって……。申し訳ないことをしました」

 何もない場所に突如アデライードが出現して、腰を抜かしてしまったらしい。

「どんな場所にも行けるの?」
「……強く思い描くか、あるいは目印があれば。始祖女王と龍騎士は、東西に別れてからも、時々転移で会っていたみたいです」
「……ナキアと暁京の間でも行けるのか。すごいね」
「危険はないのでしょうか」

 アリナが、まだ興奮冷めやらぬという表情で尋ねる。

「そりゃ、例えば戦場の真っただ中に転移してしまったりしたら、危険だよね。あとは、途中の魔力切れも怖いし……ああ、あとその魔法陣は一人用だからね。特に魔力の強い相手と乗ると、相手の魔力に引きずられて照準が狂ってしまうよ。いい、絶対に、殿下と二人で乗ろうとか、考えちゃいけないよ?」

 マニ僧都の注意に、アデライードは神妙に頷く。転移魔法陣を記憶庫から呼び出しては見たものの、もともと引き籠り傾向の強いアデライードとしては、特に使うあてがあったわけではない。
 
 ――殿下と出かけるなら、馬車に乗るか、船に乗ればいい。
 そもそも二人で出掛けるのは、その過程が楽しいからだ。転移魔法陣で一瞬で着いてしまうなんて、旅の面白さが半減だわ――。
 
 アデライードはそんな風に考えていた。
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