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7、崩壊に向かう世界

大いなる不在

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 ゲルフィンの言い回しが小難しく厭味ったらしかったせいなのか、最初の動揺をやり過ごすと、アデライードは自分でも驚くほど冷静に報告を聞いていた。あの場で騒いで取り乱せば、嫌味な変な眼鏡の男ゲルフィンに馬鹿にされて叱られるだけだと、アデライードは瞬間的に判断し、感情を殺した。修道院でエイダに纏わりつかれていた時のように、耳から入る情報と心を遮断する。最近やっていなかったけれど、十年間の鍛錬は無駄ではなく、すぐにカンを取り戻した。

 それからは、まるで遠い国のお伽話でも聞くような気分で、淡々と報告に耳を傾ける。

 あの時もそうだった――。母が、亡くなったと聞かされたときも。

 背後に立つエイダの冷ややかな視線を感じながら、アデライードは母の訃報を無表情で聞いた。エラ修道院長はナキアに帰るかと聞いてくれたが、アデライードは首を振った。
 
 命が惜しいわけではないが、自ら殺されに行く気はしなかった。

 いつも、運命はアデライードから大切なものを奪う。初めに故郷と、大好きな家族を。次いで優しかった父を。そして憐れな母を。その事実を見つめたら、アデライードは運命と自らの生まれを恨んでしまう。この身が纏う〈王気〉を憎んでしまう。

 そして今、イフリート公爵はあろうことか、最愛の夫まで奪おうとしている。しかも遠い帝都に手を伸ばし、隣国に大いなる災いをなしてまで。

 アデライードは手元の白い受け皿に目を落とす。茶色い、お茶の雫が受け皿の中で揺れる。

 今、圧し掛かるのは殿下の不在。生きているか、死んでいるかすらわからない。
 そもそも、叛乱軍はなぜ彼を攫ったのか。皇太子の近辺にいたという、怪しい西の魔術師も気がかりだ。

 アデライードはそっと、精神の奥底に埋め込まれたつがいの魔法陣を意識する。
 不自然な感じは、しない。強いて言うならば、あの白虹を目にした時以来の、耐え難い不安はそのままだが、彼に命の危険が迫れば、何か魔方陣が反応するのではないかとアデライードは思う。

 皇帝は彼を皇太子に立てようとして、廃嫡する予定の皇太子から先手を打たれ、弑殺されたという。皇太子にとって、彼が邪魔者で殺したのだとすれば、公に告知されるはずだ。

(まだ、生きてはいらっしゃる……)

 不自由な目に遭っているかもしれないが、命だけはと思う。それはもう、縋るような気分であった。

『〈聖婚〉の皇子にして、亡き陛下が後継者にと望んだ殿下は、叛乱軍の正当性を否定する生きた証だ。政治的な意味でも絶対に取り戻さなければならない。殿下を楯にされると、我々も動きがとりにくい』

 書斎でゼクトはそう、指摘した。人質としても有用であるということは、まだ殺されてはいないということだ。命を奪われるようなことはないか、とのアデライードの問いかけに、ゼクトは言った。

『殺すのであれば、わざわざ攫ったりはせずに、その場で殺したと思われます。――現に、先帝陛下はその場で弑し奉ったとか。攫ったのは何か理由があるのだと思いますが……』

 少なくとも生きてはいるのだ。――そう、信じなければすべてが崩壊してしまう。
 蒼白な表情でゼクトを見つめるアデライードに、ゼクトが勇気づけるように言ったのだ。

『大丈夫ですよ。殿下はお強い。――かつて、ベルンの北岸に囚われたときも、けして諦めることなく自力で脱出された。姫君の許には必ず帰って来られる』

 必ず、あなたのもとに帰る――。

 どんなに儚い約束であっても、今、アデライードを支えるのはその言葉だけだ。
 その言葉を噛みしめて、無言で茶器を見下ろすアデライードを、アリナも侍女たちも固唾を飲んで見つめている。こういう時、上に立つ自分が取り乱せば、侍女たちはもっと混乱するとアデライードも教えられていた。だからと言って、侍女たちを自身で慰め励まそうというほどの気配りは、アデライードにはない。

 ただじっと、白い磁器の受け皿ソーサーに残った紅茶の雫の行方を見つめながら、アデライードは考える。自分は、どう動くべきか。――あるいは、山のように動かざるべきか。

 邪教絡みの叛乱の背後で、イフリート家が糸を引いているとすれば、かの家が帝都に網を張ったのはここ数か月の話ではないはずだ。皇太子の近辺にまで入り込んでいた〈黒影〉。帝都の貴族の侍女に扮して、アデライードの命を狙ったエイダ。
 
 ――いったいいつから、帝都で工作を進めてきたのだろうか。

(十年前――? お母様が、わたしに神器を託して聖地に行かせてから?)

 いや、違う。きっと、もっと前から――。

 アデライードははっとして目を上げた。

(アルベラ? アルベラが、生まれてから?――〈王気〉のない王女が生まれて、イフリート家に禅譲する道筋ができたから?)

「二十年――」

 アデライードが無意識に呟く。

「姫様?」

 アリナが不安そうにアデライードに呼びかけるが、アデライードは思考の海から浮上しようとはしなかった。
 もしこの叛乱が、イフリート家の二十年に渉る工作の結果だというならば、何故、今なのだろうか。

(わたしが、〈聖婚〉したから? それとも何か別の理由が? イフリート家の目的は何だったかしら。そう、たしか――〈混沌〉の再現。女王の力を削いで、結界を――)

 瞬間、首筋にいつかのような強烈な警告が走り、アデライードは手にもっていた受け皿を取り落とす。わずかに残っていた紅茶が白いテーブルクロスに零れて染みをつくる。アデライードの翡翠色の瞳が恐怖に見開かれ、この世ならぬものを見つめるように虚空に向けられた。

「姫様、どうなさったのです?」
  
 アリナに再度問いかけられて、アデライードは虚空を見つめたまま、尋ねた。

「今日は、何日だったかしら」
「――今日ですか? 今日は、夏至です。一年で一番昼が長く、陽気の強い――」

 アデライードは両手で細い首を抑え、ぎゅっと肩をすくめて目を閉じる。

 二年に及ぶ、女王の空位と、叛乱による皇帝の弑殺。
 現在、この地上には天と陰陽の代理人たる、龍種の君主はどちらも不在なのだ。折しも、陽のもっとも盛んなる夏至の日を前にして、陽の巨星は命を絶たれた。

 絶望に襲われながら、アデライードは目を閉じて、心の奥の魔法陣に呼びかける。

(殿下――生きていて、お願い! 生きているだけで、いいの。どんな姿でも、生きて、もう一度――信じさせて、お願い。世界の重荷にわたしが耐えきれず、壊れてしまう前に――)

 天と陰陽よ、その調和もて我が愛しき人と、この美しき世を守り給え。
 
 祈ってからアデライードは再び目を開けると、アリナに言った。

「イスマニヨーラ伯父様を呼んで。それから――わたし、高いところに行きたいの」

 アデライードの発言に、アリナもアンジェリカもリリアも虚を突かれる。

「姫様……?」
「高くて、見晴らしのいい場所なら、何かかも知れない。どうしても、確かめたいことがあるの」


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