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7、崩壊に向かう世界
無花果
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ナキア月神殿の夏至大祭に出席して、アルベラは王城に向かう小舟に揺られていた。
ナキアの月神殿は湖の中の島にあって、船でしか行き来ができない。父ウルバヌスと〈禁苑〉が、アルベラの即位を巡って対立中のこの二年ほど、月神殿の空気はアルベラには冷たい。それでも、ナキアにいる唯一の女王家の姫として、女王の名代として夏至大祭を見守る大役を今年も果たした。
はあ、とアルベラがついつい溜息をつく。
すぐにでもナキアに攻め寄せるかと思われた、カンダハルを占領した帝国軍は、動きを見せない。何か企んでいるのかと、ナキアの貴族たちも戦々恐々として過ごしている。アルベラとてその一人だ。船の上から王城を眺める。夕闇迫る湖の畔に聳える白い王城は、夕陽に映えてとても美しかった。
だが、どこか城内がざわついているとアルベラは思う。
(何かしら――城を出る前と様子が違う)
アルベラは後ろに控えていたシリルを手に持った象牙の扇で手招きした。
「何か様子がおかしい気がするの。王城についたらそれとなく探ってくれる?」
扇で口元を隠すようにして、シリルの耳元で囁くと、シリルが表情も変えずにこくりと頷く。
不安にざわめく心を押し隠して、アルベラは何事もない風を装って、執事長や女官長の出迎えにこやかに応え、長衣の裾を華麗に捌いて自室に引き上げた。さりげなく、シリルが女官長に話しかけるのを目の端でとらえながら――。
父は多忙だとかで、その夜も夕食は一人きりだった。今日は夏至大祭のお斎で昼に正餐を済ませているから、夜は軽いものでと指定し、チーズや生ハム、腸詰と平焼きのパン、あとは蒸し野菜の簡単な食事を済ませる。
本当はアルベラは魚介、それも海の魚が好きだ。王城の下に広がる湖でも魚は捕れるけれど、淡水魚はどうしても臭みがある。ナキア市民にとって、カンダハルの港で採れた新鮮な魚介はちょっとした贅沢で、王城でも魔石を使った魔導保冷庫に入れて買い入れて、時には刺身でも食べた。ぷりぷりした生魚にハーブや香辛料、柑橘をふんだんに効かせた特製のソースを散らした料理は、アルベラの大好物だ。だが、カンダハルが東との交戦状態に入って以来、ナキアとの物流が途絶え、新鮮な生魚など手に入らなくなった。
昼に月神殿のお斎で出た魚料理は、湖の淡水魚のさらに塩漬けの煮込みで、申し訳ないが、お世辞にも美味しいとは言えなかった。
戦争前の緊迫した情勢の中にあって、刺身が食べたいなんてとても口にはできないが、アルベラはじわじわと忍び寄る生活への影響を感じずにはいられなかった。
ちょうど侍女がデザートの無花果のコンポートを運んできて、皿を下げて行った。甘口の白葡萄酒とともにコンポートを口に運んでいると、紅茶のセットを盆に載せて、シリルが入ってきた。
シリルはテーブルに茶杯を置き、アルベラのすぐ横に立って、茶杯にお茶を注ぎながら、素早く周囲を見回し、侍女のいないことを確認してから、耳元に口を近づけて言った。
「イフリート公爵が貴族たちに招集をかけたよ。カンダハル奪還の兵を挙げるって」
思わず、ガチャンと音を立てて銀の匙を置いてしまい、はっとして周りを確認する。――幸い、その場はシリルとアルベラの二人きりだった。
「――まさか。海戦ですら勝てなかったのに、陸上で……カンダハルの砦なんて奪還できるの?」
「それがさ、今にも攻め込んできそうだった帝国軍は、カンダハルに籠城を決め込んだ風なんだよね。濠をめぐらしたり、木の柵を打ち込んだり……どうやら、総督らの主力が東に帰っているっぽいんだ」
アルベラは目を瞠る。こんな時期に、どうして――。
軍事に疎いアルベラですら、あのまま一気にナキアを攻略する方がいいとわかる。いったい何を考えて――。
「何か、本国の方に異常事態が発生したんじゃないかって、今、テセウスが探っているけれど――」
アルベラははっとした。
父ウルバヌスはそれを知っているのだ。だから、この機に乗じてカンダハルの奪還に乗り出す。
ふいに、新年会の父の言葉がアルベラの脳裏に甦る。
帝国に仕込んだ毒――父は敵の本国に工作をして、それが功を奏した。だから、総督は本国に――?
アルベラは唇を噛む。
ナキアが攻撃されなかったことは嬉しい。だが、もしアルベラの想像した通りだとしたら、あまりにも卑怯だ。それに、もとより両国は相互不干渉のはずなのに、いったい、父は何を望んでいるのか。
もしかして、女王国の王位の先に、さらなる野望が――?
アルベラは足元がぐらつくような恐怖を感じる。ただの、傀儡だと気づいてそれもショックだった。しかしそれでもなお、女王国に公正な政治を布いてきた父を信頼する部分があった。
たとえ女王家を滅ぼしても、この国を父は守るはずだと。
でも――父の野望がそれを遥かに超えているとしたら。
アルベラは蒼白な顔で目の前の無花果を見つめる。
自分は、傀儡どころじゃないのかもしれない。父ウルバヌスが世界を相手に行う壮大なゲームの、どうでもいい駒の一つに過ぎないのじゃないか。
いやそれならばまだ、ましだ。
もし、この世界を決定的に悪い方に変える、切り札の一つだとしたら――。
無花果のように、花開くことなく父に果実をもたらす憐れな生き物なのだとしたら――。
アルベラは身体の奥底から沸き上がる震えを、必死に止めようと固く両手を握りしめた。
ナキアの月神殿は湖の中の島にあって、船でしか行き来ができない。父ウルバヌスと〈禁苑〉が、アルベラの即位を巡って対立中のこの二年ほど、月神殿の空気はアルベラには冷たい。それでも、ナキアにいる唯一の女王家の姫として、女王の名代として夏至大祭を見守る大役を今年も果たした。
はあ、とアルベラがついつい溜息をつく。
すぐにでもナキアに攻め寄せるかと思われた、カンダハルを占領した帝国軍は、動きを見せない。何か企んでいるのかと、ナキアの貴族たちも戦々恐々として過ごしている。アルベラとてその一人だ。船の上から王城を眺める。夕闇迫る湖の畔に聳える白い王城は、夕陽に映えてとても美しかった。
だが、どこか城内がざわついているとアルベラは思う。
(何かしら――城を出る前と様子が違う)
アルベラは後ろに控えていたシリルを手に持った象牙の扇で手招きした。
「何か様子がおかしい気がするの。王城についたらそれとなく探ってくれる?」
扇で口元を隠すようにして、シリルの耳元で囁くと、シリルが表情も変えずにこくりと頷く。
不安にざわめく心を押し隠して、アルベラは何事もない風を装って、執事長や女官長の出迎えにこやかに応え、長衣の裾を華麗に捌いて自室に引き上げた。さりげなく、シリルが女官長に話しかけるのを目の端でとらえながら――。
父は多忙だとかで、その夜も夕食は一人きりだった。今日は夏至大祭のお斎で昼に正餐を済ませているから、夜は軽いものでと指定し、チーズや生ハム、腸詰と平焼きのパン、あとは蒸し野菜の簡単な食事を済ませる。
本当はアルベラは魚介、それも海の魚が好きだ。王城の下に広がる湖でも魚は捕れるけれど、淡水魚はどうしても臭みがある。ナキア市民にとって、カンダハルの港で採れた新鮮な魚介はちょっとした贅沢で、王城でも魔石を使った魔導保冷庫に入れて買い入れて、時には刺身でも食べた。ぷりぷりした生魚にハーブや香辛料、柑橘をふんだんに効かせた特製のソースを散らした料理は、アルベラの大好物だ。だが、カンダハルが東との交戦状態に入って以来、ナキアとの物流が途絶え、新鮮な生魚など手に入らなくなった。
昼に月神殿のお斎で出た魚料理は、湖の淡水魚のさらに塩漬けの煮込みで、申し訳ないが、お世辞にも美味しいとは言えなかった。
戦争前の緊迫した情勢の中にあって、刺身が食べたいなんてとても口にはできないが、アルベラはじわじわと忍び寄る生活への影響を感じずにはいられなかった。
ちょうど侍女がデザートの無花果のコンポートを運んできて、皿を下げて行った。甘口の白葡萄酒とともにコンポートを口に運んでいると、紅茶のセットを盆に載せて、シリルが入ってきた。
シリルはテーブルに茶杯を置き、アルベラのすぐ横に立って、茶杯にお茶を注ぎながら、素早く周囲を見回し、侍女のいないことを確認してから、耳元に口を近づけて言った。
「イフリート公爵が貴族たちに招集をかけたよ。カンダハル奪還の兵を挙げるって」
思わず、ガチャンと音を立てて銀の匙を置いてしまい、はっとして周りを確認する。――幸い、その場はシリルとアルベラの二人きりだった。
「――まさか。海戦ですら勝てなかったのに、陸上で……カンダハルの砦なんて奪還できるの?」
「それがさ、今にも攻め込んできそうだった帝国軍は、カンダハルに籠城を決め込んだ風なんだよね。濠をめぐらしたり、木の柵を打ち込んだり……どうやら、総督らの主力が東に帰っているっぽいんだ」
アルベラは目を瞠る。こんな時期に、どうして――。
軍事に疎いアルベラですら、あのまま一気にナキアを攻略する方がいいとわかる。いったい何を考えて――。
「何か、本国の方に異常事態が発生したんじゃないかって、今、テセウスが探っているけれど――」
アルベラははっとした。
父ウルバヌスはそれを知っているのだ。だから、この機に乗じてカンダハルの奪還に乗り出す。
ふいに、新年会の父の言葉がアルベラの脳裏に甦る。
帝国に仕込んだ毒――父は敵の本国に工作をして、それが功を奏した。だから、総督は本国に――?
アルベラは唇を噛む。
ナキアが攻撃されなかったことは嬉しい。だが、もしアルベラの想像した通りだとしたら、あまりにも卑怯だ。それに、もとより両国は相互不干渉のはずなのに、いったい、父は何を望んでいるのか。
もしかして、女王国の王位の先に、さらなる野望が――?
アルベラは足元がぐらつくような恐怖を感じる。ただの、傀儡だと気づいてそれもショックだった。しかしそれでもなお、女王国に公正な政治を布いてきた父を信頼する部分があった。
たとえ女王家を滅ぼしても、この国を父は守るはずだと。
でも――父の野望がそれを遥かに超えているとしたら。
アルベラは蒼白な顔で目の前の無花果を見つめる。
自分は、傀儡どころじゃないのかもしれない。父ウルバヌスが世界を相手に行う壮大なゲームの、どうでもいい駒の一つに過ぎないのじゃないか。
いやそれならばまだ、ましだ。
もし、この世界を決定的に悪い方に変える、切り札の一つだとしたら――。
無花果のように、花開くことなく父に果実をもたらす憐れな生き物なのだとしたら――。
アルベラは身体の奥底から沸き上がる震えを、必死に止めようと固く両手を握りしめた。
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