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11、再生の繭
神殿の跡
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アデライードの膝に頭を預けて眠る、恭親王の寝顔は穏やかなままで、あどけない気さえした。
記憶を封印したことで、彼はアデライードの治癒魔法を受け入れ、僅かながら魔力の循環が再開する。やはりいくつか〈瑕〉ができていて、そこから魔力が奪われていた。それの意味するところを、アデライードは深く考えないようにして、ただ、マニ僧都が構築した〈瑕〉を塞ぐ魔法陣を展開し、治療を施す。〈瑕〉自体はすぐに塞がり、あとは流出した魔力を溜めていけばよい。肉体へのダメージが少ない分、〈瑕〉さえ塞がれば回復は存外早いかもしれない。
治療が一段落ついたところで、アデライードは繭の外に出て、廃墟に広がる空の下で、大きく伸びをした。
魔力欠乏の治療は根気と時間が必要だ。焦ってもアデライードの魔力が無駄に失われ、下手すれば共倒れしてしまう。
高台にある廃墟から見下ろす谷間では、夕暮れの太陽が西の山の向こうに沈もうとしていた。
(ここはいったい、どこなのかしら……)
魔法陣に二人乗りして、見知らぬ場所に着いてしまった。マニ僧都に言ったら、ものすごく叱られるに違いない。アデライードは溜息をつく。
(困ったわ……食べ物も何もないのよね……さすがにお腹が空いたわ……)
恭親王はしばらくは何も食べられないだろうが、アデライードは食事を取らなければ倒れてしまう。アデライードが倒れれば、治療されない恭親王も死ぬしかない。
(一度、ソリスティアまで一人で転移して……食べ物を持って戻って来るしかないわ)
でも、アデライードとしてはこんな場所に恭親王を一人置いていくのは躊躇われた。
(もう一晩、何も食べずに我慢できるかしら……)
単純に空腹なら辛抱できる。修道院で年に一度やった断食修行だと思えばいい。でも、食事を取らずに魔力がもつかどうかが問題だった。
アデライードは折れた柱の間に立って、周囲の風景を見渡す。その廃墟は高台というよりも、切り立った崖の上にあって、石造りの崩れかけた階段がつづら折りに続いていた。階段を下りたところには四角い池があり、池の向こうは小さな森になっていた。アデライードが長衣の裾を片手でたくし上げるようにして、階段をゆっくりと降りていくと、池の周囲の石組みの上で、エールライヒが何かを啄んでいた。
四角い池はかなりの広さで、四辺の一つに半円形の泉がくっついていて、清新な水が湧き出していた。天然の泉から湧き出す水が池を満たし、その後、小さな流れとなって森へと続いている。アデライードは泉に手を触れて、冷たい水を両手ですくって飲んだ。
水がある。
それだけのことで、ものすごくホッとする。アデライードは周囲を見回し、その建物の造りが月神殿に似ていると感じた。
(大昔の――神殿の跡、かしら)
エールライヒは捕食していた野ネズミか何かを食べ終わると、バサバサと飛び立っていって、しばらくして、何かを咥えて帰ってきた。ポトリ、とアデライードの前に落とされたそれを見て、アデライードはびっくりする。それは、無花果であった。
「エールライヒ、これ……どこで見つけてきたの?」
アデライードが目を丸くして尋ねると、エールライヒは「ピギッ」と一声啼いて、また飛び立っていく。エールライヒは泉の向こうの森の中に分け入っていき、しばらくして、もう一つ咥えて戻ってきた。
「ありがとう。わたしがお腹空いているってわかったのね。えらいわ」
アデライードはエールライヒに礼を言うと、無花果をさっと泉の水で洗い、皮を剥いて食べた。野性のものであるから、普段アデライードが食べるものよりも小さかったが、十分に甘かった。
「これで、あと一晩は大丈夫よ。明日の朝になったら、ソリスティアに転移して食べるものをもらってくるわ」
殿下の服もいるし、魔法水薬ももらってこなくては……アデライードは指を折って考える。
夕暮れの空を、鳥たちが塒へと急ぐ。アデライードはそれを見て、自分も殿下の側についていなければと思い、ふと気づいて長衣の隠しからレースで縁取りした手巾を出し、そこに泉の水を汲んだ。ぼたぼたと水は浸みてしまうけれど、それでも恭親王が一口啜るくらいは残るだろうと、それを持って階段を急いで上っていく。繭の中に戻った時には、水はほんのわずかしか残っていなかったけれど、アデライードは水を口移しに飲ませる。恭親王がもっと、と言うように口を開けたので、結局二度、アデライードは泉との間を往復し、彼に水を飲ませた。
それから、アデライードは絞った手巾で彼の顔を拭い、長く伸びた髪を梳く。
(髭剃り道具、もいるわね。お髭のある殿方も別に嫌いではないけれど、殿下はお髭の無い方が好きだわ)
〈王気〉はまだ戻ってきてはいない。でもわずかではあるが、魔力の流れが回復して、淀んだ感じはなかった。アデライードは彼の髪を愛し気に梳いて、顔中にキスの雨を降らす。
(愛してるわ……だから、早く目を覚まして……)
アデライードは右耳の翡翠にもう一度魔力を込めると、恭親王の横に自らも身体を横たえ、彼に抱き着くようにして目を閉じた。
翌朝、恭親王に一通りの治癒魔法を施し、アデライードは恭親王がよく眠っていることを確認して、ソリスティアに転移することにした。
(さあでも、このわけのわからない場所から、ソリスティアに転移して、またここに戻って来れるのかしら)
アデライードは少し考える。神器の指輪とあの翡翠の耳飾りを目印にすれば、殿下の側には戻って来られるだろう。だがソリスティアは――。
(あの寝室を思い浮かべたけど、それがイマイチだったのかもしれないわ。――もっと、こう、絶対忘れられないくらいの衝撃度があって、殿下の書斎のあたりの、何か目印になるもの――)
アデライードが翡翠の瞳を見開く。
――あれ、あれよ。あれなら絶対に見失わないわ。絶対に殿下の書斎の辺りにあるし。
アデライードはその目印を脳裏に思い描き、転移の魔法陣を呼び出した。
記憶を封印したことで、彼はアデライードの治癒魔法を受け入れ、僅かながら魔力の循環が再開する。やはりいくつか〈瑕〉ができていて、そこから魔力が奪われていた。それの意味するところを、アデライードは深く考えないようにして、ただ、マニ僧都が構築した〈瑕〉を塞ぐ魔法陣を展開し、治療を施す。〈瑕〉自体はすぐに塞がり、あとは流出した魔力を溜めていけばよい。肉体へのダメージが少ない分、〈瑕〉さえ塞がれば回復は存外早いかもしれない。
治療が一段落ついたところで、アデライードは繭の外に出て、廃墟に広がる空の下で、大きく伸びをした。
魔力欠乏の治療は根気と時間が必要だ。焦ってもアデライードの魔力が無駄に失われ、下手すれば共倒れしてしまう。
高台にある廃墟から見下ろす谷間では、夕暮れの太陽が西の山の向こうに沈もうとしていた。
(ここはいったい、どこなのかしら……)
魔法陣に二人乗りして、見知らぬ場所に着いてしまった。マニ僧都に言ったら、ものすごく叱られるに違いない。アデライードは溜息をつく。
(困ったわ……食べ物も何もないのよね……さすがにお腹が空いたわ……)
恭親王はしばらくは何も食べられないだろうが、アデライードは食事を取らなければ倒れてしまう。アデライードが倒れれば、治療されない恭親王も死ぬしかない。
(一度、ソリスティアまで一人で転移して……食べ物を持って戻って来るしかないわ)
でも、アデライードとしてはこんな場所に恭親王を一人置いていくのは躊躇われた。
(もう一晩、何も食べずに我慢できるかしら……)
単純に空腹なら辛抱できる。修道院で年に一度やった断食修行だと思えばいい。でも、食事を取らずに魔力がもつかどうかが問題だった。
アデライードは折れた柱の間に立って、周囲の風景を見渡す。その廃墟は高台というよりも、切り立った崖の上にあって、石造りの崩れかけた階段がつづら折りに続いていた。階段を下りたところには四角い池があり、池の向こうは小さな森になっていた。アデライードが長衣の裾を片手でたくし上げるようにして、階段をゆっくりと降りていくと、池の周囲の石組みの上で、エールライヒが何かを啄んでいた。
四角い池はかなりの広さで、四辺の一つに半円形の泉がくっついていて、清新な水が湧き出していた。天然の泉から湧き出す水が池を満たし、その後、小さな流れとなって森へと続いている。アデライードは泉に手を触れて、冷たい水を両手ですくって飲んだ。
水がある。
それだけのことで、ものすごくホッとする。アデライードは周囲を見回し、その建物の造りが月神殿に似ていると感じた。
(大昔の――神殿の跡、かしら)
エールライヒは捕食していた野ネズミか何かを食べ終わると、バサバサと飛び立っていって、しばらくして、何かを咥えて帰ってきた。ポトリ、とアデライードの前に落とされたそれを見て、アデライードはびっくりする。それは、無花果であった。
「エールライヒ、これ……どこで見つけてきたの?」
アデライードが目を丸くして尋ねると、エールライヒは「ピギッ」と一声啼いて、また飛び立っていく。エールライヒは泉の向こうの森の中に分け入っていき、しばらくして、もう一つ咥えて戻ってきた。
「ありがとう。わたしがお腹空いているってわかったのね。えらいわ」
アデライードはエールライヒに礼を言うと、無花果をさっと泉の水で洗い、皮を剥いて食べた。野性のものであるから、普段アデライードが食べるものよりも小さかったが、十分に甘かった。
「これで、あと一晩は大丈夫よ。明日の朝になったら、ソリスティアに転移して食べるものをもらってくるわ」
殿下の服もいるし、魔法水薬ももらってこなくては……アデライードは指を折って考える。
夕暮れの空を、鳥たちが塒へと急ぐ。アデライードはそれを見て、自分も殿下の側についていなければと思い、ふと気づいて長衣の隠しからレースで縁取りした手巾を出し、そこに泉の水を汲んだ。ぼたぼたと水は浸みてしまうけれど、それでも恭親王が一口啜るくらいは残るだろうと、それを持って階段を急いで上っていく。繭の中に戻った時には、水はほんのわずかしか残っていなかったけれど、アデライードは水を口移しに飲ませる。恭親王がもっと、と言うように口を開けたので、結局二度、アデライードは泉との間を往復し、彼に水を飲ませた。
それから、アデライードは絞った手巾で彼の顔を拭い、長く伸びた髪を梳く。
(髭剃り道具、もいるわね。お髭のある殿方も別に嫌いではないけれど、殿下はお髭の無い方が好きだわ)
〈王気〉はまだ戻ってきてはいない。でもわずかではあるが、魔力の流れが回復して、淀んだ感じはなかった。アデライードは彼の髪を愛し気に梳いて、顔中にキスの雨を降らす。
(愛してるわ……だから、早く目を覚まして……)
アデライードは右耳の翡翠にもう一度魔力を込めると、恭親王の横に自らも身体を横たえ、彼に抱き着くようにして目を閉じた。
翌朝、恭親王に一通りの治癒魔法を施し、アデライードは恭親王がよく眠っていることを確認して、ソリスティアに転移することにした。
(さあでも、このわけのわからない場所から、ソリスティアに転移して、またここに戻って来れるのかしら)
アデライードは少し考える。神器の指輪とあの翡翠の耳飾りを目印にすれば、殿下の側には戻って来られるだろう。だがソリスティアは――。
(あの寝室を思い浮かべたけど、それがイマイチだったのかもしれないわ。――もっと、こう、絶対忘れられないくらいの衝撃度があって、殿下の書斎のあたりの、何か目印になるもの――)
アデライードが翡翠の瞳を見開く。
――あれ、あれよ。あれなら絶対に見失わないわ。絶対に殿下の書斎の辺りにあるし。
アデライードはその目印を脳裏に思い描き、転移の魔法陣を呼び出した。
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