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11、再生の繭
乞食騎士
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カンダハル奪回に向かうナキアの諸侯軍を見送ってから、アルベラは毎日のように視察と慰問に精を出した。
視察と言っても、アルベラが視て何かできるわけでもなく、もっぱら留守家庭の慰問や予備部隊の激励程度である。それでも、王女自らが足を運び、親しく言葉を交わすことで、市民の不安は軽減されるならと、アルベラは要請があればどこにでも顔を出した。普段の遠乗りと異なるのは、護衛官のテセウスと小姓のシリルの他に、二十騎の女騎士がピッタリと張り付いてくることだった。
女王国において女王を護る親衛隊の一部は女騎士と決まっている。まだ正式に即位していないアルベラだが、父ウルバヌスの命令で、カンダハル陥落以後、アルベラの護衛として配属された。それは護衛というよりは、女王としての権威付けと、要は監視であった。外出先でもテセウスたちと自由に会話できなくなり、アルベラの鬱屈は溜まってゆく。
不便なのは帰りにどこかに立ち寄って、なんてことができなくなったこと。今日も、慰問の帰りに市場の様子を見て行きたいと思ったが、女騎士たちがそれを許すはずもなかった。
「市場の様子が見たかったのに」
「市場は相変わらず、閑散としてるよ。カンダハルの港はずっと封鎖されたままで、街道の物流は止まってる。物は全部南から入ってくるものだけだよ」
さぞかし市民は難儀しているだろうな、とアルベラは思うが、どうにもならない。ウルバヌスや諸侯軍はすぐにでもカンダハルを奪回できるようなことを言っているが、アルベラは到底、そんなに楽観的にはなれなかった。
市場の視察は諦めて、アルベラはそれでも、せめて湖の周囲を少しだけ遠回りして帰りたい、と我儘を言った。
「だって最近、遠乗りもできないし。遠回りすらダメだって言うのなら今度城を抜け出してやるから!」
女騎士の隊長にそう脅しをかけると、二十代半ば程の隊長は、溜息をついて言った。
「仕方ありませんね。少しだけですよ」
一行が湖の周囲を巡る道を進んで行くと、月神殿へ渡る津の辺りが何やらざわついていた。
「どうしたの?」
「巡礼者が騒いでいるようだが……」
テセウスが目を凝らすところへ、シリルが気軽に先行して様子を見に行く。そして、すぐに戻ってきて言った。
「道を変えた方がいいよ。なんだか、ちょっと頭のおかしい奴らみたいなんだ」
「何それ。でもあそこを通らないと、元来た道を戻る他はないわ。それは嫌よ。あと少しなのに」
アルベラはシリルの忠告を無視して、まっすぐ馬を進ませる。多少の狂人が出たところで、怯むなんて意気地のないことはできないと思っていた。だが近づいてみると、どうも単なる狂人たちというのとも違うようであった。
津のところには、これまで見たことのないほど、身なりの悪い巡礼者の一行が固まって、船に乗せろと言い張っていた。砂まみれの襤褸切れのような衣服に、真っ黒に汚れた肌。杖に縋るようにして、渡し船の船頭たちに対し、何やら盛んに喚いている。
「いったいどうしたと言うの。あんなに汚れて……」
アルベラがさすがに目を瞠る。と、渡し船の船頭の一人が、近づいてきた身分ありげな一行に気づき、声を上げる。
「騎士様だ! 騎士様、何とか言ってやってくだせえ!」
アルベラが頷くと、テセウスが前に出て、船頭に問いかけた。
「いったい何の騒ぎだ」
「その汚ねぇ奴等が、船に乗せろって騒いでるんでさあ! しかも一文無しで渡し賃もねぇって言いやがる。こちとら商売で船頭やってるんだ。渡し賃は銅貨一枚って、大昔から神殿で決まってんだよ!」
「我々は神殿に行くのだ、船に乗れぬなら泳いでも渡る」
「だから泳いで行くのは禁止だって! 渡し賃がお布施なの!昔からの、き、ま、り!」
「そのような無意味な取り決めで足止めを食っている場合ではない。我々は神殿に行かねばならぬ。天と陰陽のために、一刻の猶予もないのだ」
テセウスはその要求よりも何よりも、乞食のような身なりの男の口調が、いっぱしの騎士然としていることに不審を抱いた。
「その方は何やら委細がありげに見える。どうもそこらの乞食とは違うようだ。詳しく事情を話してもらうわけには?」
テセウスが馬上から問いかければ、先頭に立って船頭たちと交渉していたぼろ雑巾のような男が、ボサボサの髪と髭の間から、ぎろりとテセウスを睨みつける。
「そなたは王城の騎士とお見受けする。わしらの仲間はすでに王城の騎士にも委細の報告を行うために出向いたが、相手にもされずに追い返された。今更、王城を信用などできぬ。それ故、月神殿に参ろうと思っておるのだ」
「……あなたは、騎士か?」
テセウスが問うと、乞食のような巡礼が頷き、アルベラはそのやり取りを見て息を飲む。
「ここまで来る中で、脱落した者も多い。幼い者、弱い者はホーヘルミアの月神殿に駆けこむので精一杯だった。我々数人の騎士が、それでもとナキアに救けを求めて北上したが、途中で馬も死に、路銀も尽きたのだ。先に伝令に走った騎士たちは、ナキアでの扱いに絶望し、死を覚悟で故郷に帰っているが、わしは女王国全体に危機を報せるために、ナキアの月神殿に参じたのだ」
傲然と顔を上げて堂々と語る乞食のような巡礼に、テセウスは改めて尋ねる。
「何が起きたか、ここで聞かせてもらうことはできまいか。月神殿への渡し賃は、俺が立て替えてもいい」
「――我々は西南辺境ガルシア辺境伯領の聖騎士だ。……もっとも、今は馬を失っている故、精確には騎士ではないが。女王の結界が弾け、魔物が領内に雪崩れ込んだ。これ以上の説明を幾度もしてきたが、常に無視された。今は時間が惜しい。月神殿への渡し賃を貸してくれるというなら、よろこんで申し出を受けよう」
「女王の……結界?」
横で聞いていたアルベラの呟きを、乞食の騎士が拾い、アルベラをまじまじと見つめる。
「ナキアの者たちは、女王の結界の存在すら知らぬという。イフリート家の者たちに誑かされ、魔物も迷信だと斬り捨てておるとか。王城の騎士がそうであるならば、もはや女王国には救いはない。我々は神殿を通し、〈禁苑〉に救いを求めるつもりだ」
そう言って、テセウスから銅貨一枚を受け取ると男は船頭にそれを投げつけ、渡し船に向かって歩き出す。耐えきれず、アルベラが男を呼び止めた。
「ちょ、ちょっと待って! 女王の結界って……弾けたって、どういうこと?!」
アルベラの声に男は足を止め、振り向く。
「イフリート公爵が〈王気〉を持たぬ女王の即位に執着するあまり、ここ二年女王の結界は認証されないまま放置されている。弱っていた結界が、この夏至の日についに弾けたのだ。――噂によれば、夏至の日に東の皇帝が崩御したらしい。陰陽の調和が崩れ、始祖女王の結界が維持できなくなったのだ」
「魔物が、雪崩れ込むって……?」
「始祖女王の結界は、女王国を魔物から守るためのものだ。新たな女王が即位するたびに、ナキアの月神殿で結界に新女王の〈王気〉を注ぎ、認証する。そうやって女王の陰の〈王気〉と結界の魔力を同期させて、結界を維持していたのだ。――イフリート公爵はそれを知らぬわけでもないのに、〈王気〉を持たぬ女王の即位に拘った。〈禁苑〉と東の帝国が立ち上がったが、遅きに失したということだ」
男はそれだけ言うと、振り返りもせずに船に向かい、漕ぎ出して行く。その後ろ姿を、アルベラはただ茫然として見送るしかなかった。
視察と言っても、アルベラが視て何かできるわけでもなく、もっぱら留守家庭の慰問や予備部隊の激励程度である。それでも、王女自らが足を運び、親しく言葉を交わすことで、市民の不安は軽減されるならと、アルベラは要請があればどこにでも顔を出した。普段の遠乗りと異なるのは、護衛官のテセウスと小姓のシリルの他に、二十騎の女騎士がピッタリと張り付いてくることだった。
女王国において女王を護る親衛隊の一部は女騎士と決まっている。まだ正式に即位していないアルベラだが、父ウルバヌスの命令で、カンダハル陥落以後、アルベラの護衛として配属された。それは護衛というよりは、女王としての権威付けと、要は監視であった。外出先でもテセウスたちと自由に会話できなくなり、アルベラの鬱屈は溜まってゆく。
不便なのは帰りにどこかに立ち寄って、なんてことができなくなったこと。今日も、慰問の帰りに市場の様子を見て行きたいと思ったが、女騎士たちがそれを許すはずもなかった。
「市場の様子が見たかったのに」
「市場は相変わらず、閑散としてるよ。カンダハルの港はずっと封鎖されたままで、街道の物流は止まってる。物は全部南から入ってくるものだけだよ」
さぞかし市民は難儀しているだろうな、とアルベラは思うが、どうにもならない。ウルバヌスや諸侯軍はすぐにでもカンダハルを奪回できるようなことを言っているが、アルベラは到底、そんなに楽観的にはなれなかった。
市場の視察は諦めて、アルベラはそれでも、せめて湖の周囲を少しだけ遠回りして帰りたい、と我儘を言った。
「だって最近、遠乗りもできないし。遠回りすらダメだって言うのなら今度城を抜け出してやるから!」
女騎士の隊長にそう脅しをかけると、二十代半ば程の隊長は、溜息をついて言った。
「仕方ありませんね。少しだけですよ」
一行が湖の周囲を巡る道を進んで行くと、月神殿へ渡る津の辺りが何やらざわついていた。
「どうしたの?」
「巡礼者が騒いでいるようだが……」
テセウスが目を凝らすところへ、シリルが気軽に先行して様子を見に行く。そして、すぐに戻ってきて言った。
「道を変えた方がいいよ。なんだか、ちょっと頭のおかしい奴らみたいなんだ」
「何それ。でもあそこを通らないと、元来た道を戻る他はないわ。それは嫌よ。あと少しなのに」
アルベラはシリルの忠告を無視して、まっすぐ馬を進ませる。多少の狂人が出たところで、怯むなんて意気地のないことはできないと思っていた。だが近づいてみると、どうも単なる狂人たちというのとも違うようであった。
津のところには、これまで見たことのないほど、身なりの悪い巡礼者の一行が固まって、船に乗せろと言い張っていた。砂まみれの襤褸切れのような衣服に、真っ黒に汚れた肌。杖に縋るようにして、渡し船の船頭たちに対し、何やら盛んに喚いている。
「いったいどうしたと言うの。あんなに汚れて……」
アルベラがさすがに目を瞠る。と、渡し船の船頭の一人が、近づいてきた身分ありげな一行に気づき、声を上げる。
「騎士様だ! 騎士様、何とか言ってやってくだせえ!」
アルベラが頷くと、テセウスが前に出て、船頭に問いかけた。
「いったい何の騒ぎだ」
「その汚ねぇ奴等が、船に乗せろって騒いでるんでさあ! しかも一文無しで渡し賃もねぇって言いやがる。こちとら商売で船頭やってるんだ。渡し賃は銅貨一枚って、大昔から神殿で決まってんだよ!」
「我々は神殿に行くのだ、船に乗れぬなら泳いでも渡る」
「だから泳いで行くのは禁止だって! 渡し賃がお布施なの!昔からの、き、ま、り!」
「そのような無意味な取り決めで足止めを食っている場合ではない。我々は神殿に行かねばならぬ。天と陰陽のために、一刻の猶予もないのだ」
テセウスはその要求よりも何よりも、乞食のような身なりの男の口調が、いっぱしの騎士然としていることに不審を抱いた。
「その方は何やら委細がありげに見える。どうもそこらの乞食とは違うようだ。詳しく事情を話してもらうわけには?」
テセウスが馬上から問いかければ、先頭に立って船頭たちと交渉していたぼろ雑巾のような男が、ボサボサの髪と髭の間から、ぎろりとテセウスを睨みつける。
「そなたは王城の騎士とお見受けする。わしらの仲間はすでに王城の騎士にも委細の報告を行うために出向いたが、相手にもされずに追い返された。今更、王城を信用などできぬ。それ故、月神殿に参ろうと思っておるのだ」
「……あなたは、騎士か?」
テセウスが問うと、乞食のような巡礼が頷き、アルベラはそのやり取りを見て息を飲む。
「ここまで来る中で、脱落した者も多い。幼い者、弱い者はホーヘルミアの月神殿に駆けこむので精一杯だった。我々数人の騎士が、それでもとナキアに救けを求めて北上したが、途中で馬も死に、路銀も尽きたのだ。先に伝令に走った騎士たちは、ナキアでの扱いに絶望し、死を覚悟で故郷に帰っているが、わしは女王国全体に危機を報せるために、ナキアの月神殿に参じたのだ」
傲然と顔を上げて堂々と語る乞食のような巡礼に、テセウスは改めて尋ねる。
「何が起きたか、ここで聞かせてもらうことはできまいか。月神殿への渡し賃は、俺が立て替えてもいい」
「――我々は西南辺境ガルシア辺境伯領の聖騎士だ。……もっとも、今は馬を失っている故、精確には騎士ではないが。女王の結界が弾け、魔物が領内に雪崩れ込んだ。これ以上の説明を幾度もしてきたが、常に無視された。今は時間が惜しい。月神殿への渡し賃を貸してくれるというなら、よろこんで申し出を受けよう」
「女王の……結界?」
横で聞いていたアルベラの呟きを、乞食の騎士が拾い、アルベラをまじまじと見つめる。
「ナキアの者たちは、女王の結界の存在すら知らぬという。イフリート家の者たちに誑かされ、魔物も迷信だと斬り捨てておるとか。王城の騎士がそうであるならば、もはや女王国には救いはない。我々は神殿を通し、〈禁苑〉に救いを求めるつもりだ」
そう言って、テセウスから銅貨一枚を受け取ると男は船頭にそれを投げつけ、渡し船に向かって歩き出す。耐えきれず、アルベラが男を呼び止めた。
「ちょ、ちょっと待って! 女王の結界って……弾けたって、どういうこと?!」
アルベラの声に男は足を止め、振り向く。
「イフリート公爵が〈王気〉を持たぬ女王の即位に執着するあまり、ここ二年女王の結界は認証されないまま放置されている。弱っていた結界が、この夏至の日についに弾けたのだ。――噂によれば、夏至の日に東の皇帝が崩御したらしい。陰陽の調和が崩れ、始祖女王の結界が維持できなくなったのだ」
「魔物が、雪崩れ込むって……?」
「始祖女王の結界は、女王国を魔物から守るためのものだ。新たな女王が即位するたびに、ナキアの月神殿で結界に新女王の〈王気〉を注ぎ、認証する。そうやって女王の陰の〈王気〉と結界の魔力を同期させて、結界を維持していたのだ。――イフリート公爵はそれを知らぬわけでもないのに、〈王気〉を持たぬ女王の即位に拘った。〈禁苑〉と東の帝国が立ち上がったが、遅きに失したということだ」
男はそれだけ言うと、振り返りもせずに船に向かい、漕ぎ出して行く。その後ろ姿を、アルベラはただ茫然として見送るしかなかった。
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