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【番外編】叢林の盧墓
図書館
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女神官の降りた駅を発車してからも、茫然として膝の上の風呂敷包みを見下ろしているフエルを見て、隣に座っていた太陽宮の僧侶が堪えきれないといった風に笑い始めた。
「いや、随分と気に入られちゃったね。あははははは。でも、あのおばちゃんの言う通り、太陽宮は食事は質はともかく、量が少ないのは確かだよ。だから、そのクラッカーはありがたくもらっておきな」
見れば、向かいに座る神官二人も全くだと言わんばかりに頷いている。
「君は月神殿の学院生だそうだけれど、太陽神殿に行くの?」
シラーと名乗った若い僧侶がフエルに尋ねる。彼は太陽神殿の学院の図書館の司書で、目録作成のために太陰宮の図書館に出張していたのだと言う。
「別の版本があると聞いてね。二つを比べて、校正をするんだよ」
手書きの写本が主であった書籍は、どうしても文字の誤りや抜けが出て来てしまう。異なる系統の写本を比較して、よりよい版本を求め、またより元の形に近づくよう、テキスト・クリティークを行う。シラーはその作業のために一月を太陰宮で費やしたのだと言う。
「本当はもっといたいくらいだよ。ナキアで出版されたもので、太陽宮にはない版本もいくつかあったし。……そう言えば、ソリスティアの数代前の総督が、かなりの書籍を収集したらしいね。それも一度見てみたいんだがなあ」
シラーはうっとりと、榛色の目を細める。
「総督府にも大きな書庫がありますよ。僕も数回、入ったことがあります。今は、太陽宮のマニ僧都様が総督の顧問に就任して、もっぱら一日、書庫に籠っておられますよ」
「マニ僧都が? どうりで、最近、図書館に来ないと思ったら!」
その後は博学なシラーや神官二人を交えて、本や『聖典』についての話が弾んで、フエルは目的地まで全く退屈することなく、丸一日の旅を終えた。
「休暇中も図書館が開いているから、また遊びにおいで」
朝陽が上るころに太陽神殿に着いて、シラーや神官二人と別れの挨拶をし、御者二人にも丁寧に礼を言ってから、フエルはジュルチの精舎へと向かった。
ジュルチは機嫌よくフエルを迎えてくれたが、夏至大祭を間近に控えて非常に多忙であった。〈清脩〉僧院へ行くつもりだと言うと、ジュルチは大祭が終わったら自分が連れて行こうと請け合ってくれた。そこまでしてもらうのも申し訳ないけれど、〈清脩〉僧院はジュルチの古巣であると言われ、親切に甘えることにする。それで、大祭が終わるまでの空いた時間、フエルは休暇中も開放されている太陽神殿の学院の図書館で、先に課題を片づけてしまうことにした。
太陽神殿の図書館は西方風の堅牢な石造りで、屋根や窓の装飾の意匠が東方風の折衷式の建物だ。これは聖地にはよくある形式で、最初奇妙だと思ったそれにも見慣れてきた。受付の僧に太陰宮の学院の学生証を示せば、一瞥した後で、入館許可証を兼ねたピンをくれる。それを襟に着けておけば、書庫にも入れると教えられる。
「ただし、太陽宮の学院生ではないので、貸し出しはできません。館内の閲覧だけです。あちらが書見台になっています。メモを取られる場合は、書籍を汚さないように注意してください」
読み終わった書籍は自分で棚に返さずに、横の返却台に返すこと、館内の飲食は所定の場所以外は禁止であることなど細かい注意を受けている横を、美術書らしい大型本を抱えた若い僧侶がカウンタ―にやってきた。
「これ、返したいんだけど」
ぶっきらぼうに声をかける、だがその風貌は驚くほど整っていて、フエルは一瞬、見惚れてしまう。金に近い茶色の眉に、蒼とも翠ともつかない深い色彩の瞳、長い睫毛はくるんと上を向いて、白皙の頬は透き通って白磁の人形のようだった。僧侶だから当たり前に剃髪しているのだが、もし伸ばしていればおそらくは金髪に近い巻き毛に違いないと思われた。――そうだとしたら、『聖典』の挿絵にある天使そのものだ。
その僧侶もフエルの方をチラリと見て、意味ありげにウインクしてきたので、フエルはドギマギする。不躾に見つめ過ぎたかと、フエルは慌ててカウンターの僧侶に礼を言って書庫へと歩き出した。
ソアレス家は皇太子の教育を掌る家だけあって、太学の長官を輩出する八侯爵家のラング家と並んで、膨大な蔵書を持つことで有名で、皇家の所蔵する秘書(宮中の蔵書)にも匹敵すると言われる。ソリスティア総督の蔵書もなかなかであるが、しかし、二千年の知識を溜め込んだ太陽神殿の学院の蔵書は、それらを遥かに凌駕していた。
圧倒的な知の集積の前に、人は声を失う。フエルは高い天井までびっしりと積み上げられた書籍にしばし見惚れてから、おもむろに課題に取り掛かった。
学院は休暇中ということもあり、書庫の中は人もまばらであった。
いくつか興味ある書籍を抱えて書見台を陣取り、あれこれとメモを取る。課題は陰陽理論と東西皇王家の歴史について、レポートをまとめよというものであった。
「あー、この本、読んでみたい」
参考文献としてあげられている、五百年前の帝国内乱に関わる書物をフエルは探しに行くことにした。カウンター脇に並ぶ、カード目録を繰ってみると、しかしその書籍の所蔵場所が「貴重書庫」となっていた。
「すいません、貴重書庫の本を拝見することはできますか?」
フエルがカウンタ―の僧侶に尋ねると、後ろで糸綴じ本の修理をしていた若い僧侶が振り返る。
「やっぱり、フエルじゃないか。声でわかったよ」
僧侶はシラーであった。シラーはカウンターの僧侶に自分の知り合いだと告げて、対応を代わってくれた。
「貴重書庫の本が見たいの? 普段は鍵がかかっているけど、手続きを踏めば見られるよ。でも今、主任がいないなあ――」
言いさしたシラーに、カウンターの僧侶が言った。
「ああ、私が合鍵を預かっていますから、大丈夫ですよ。……ここに、名前を書いてください」
僧侶の差し出す「貴重書庫入庫人名簿」に記名すると、カウンターの僧侶は抽斗から鍵を取り出してシラーに手渡す。
「主任を見つけたら、休憩時間がとっくに終わってる、って釘を刺しておいてよ。ここんとこ、いっつもで、私の休憩時間が減るんだから」
ブツブツ言うカウンターの僧侶に手を上げて、シラーがフエルを先導して貴重書庫に向かう。
「私が一月留守にしたもんだから、彼は仕事が溜まってご機嫌斜めなんだよ。何だか主任がサボリがちらしくてね? どうしちゃったんだろうね」
シラーの出張中に、それまで生真面目だった主任が、急に怠けるようになったのだという。
そんな話をしながら、高い天井までびっしりと書籍で埋もれた書棚の間を通り抜け、書庫の奥へと歩いていく。
「あれ?……おかしいな。鍵が……」
シラーが戸惑ったように、扉と鍵を見比べている。フエルもその視線を追うと、奥の重厚な木の扉がわずかに開き、薄暗い書棚の並びに魔力灯らしき明かりが漏れていた。
「誰かが閉め忘れたのかな。魔力灯もつけっぱなしで……」
シラーがブツブツと言いながら速足で近づき、扉を開けた。
何やら奇妙な音が、貴重書庫の奥から聞こえてくる。くぐもったうめき声のような、声を殺して悲鳴を押さえているような――。
「いや、随分と気に入られちゃったね。あははははは。でも、あのおばちゃんの言う通り、太陽宮は食事は質はともかく、量が少ないのは確かだよ。だから、そのクラッカーはありがたくもらっておきな」
見れば、向かいに座る神官二人も全くだと言わんばかりに頷いている。
「君は月神殿の学院生だそうだけれど、太陽神殿に行くの?」
シラーと名乗った若い僧侶がフエルに尋ねる。彼は太陽神殿の学院の図書館の司書で、目録作成のために太陰宮の図書館に出張していたのだと言う。
「別の版本があると聞いてね。二つを比べて、校正をするんだよ」
手書きの写本が主であった書籍は、どうしても文字の誤りや抜けが出て来てしまう。異なる系統の写本を比較して、よりよい版本を求め、またより元の形に近づくよう、テキスト・クリティークを行う。シラーはその作業のために一月を太陰宮で費やしたのだと言う。
「本当はもっといたいくらいだよ。ナキアで出版されたもので、太陽宮にはない版本もいくつかあったし。……そう言えば、ソリスティアの数代前の総督が、かなりの書籍を収集したらしいね。それも一度見てみたいんだがなあ」
シラーはうっとりと、榛色の目を細める。
「総督府にも大きな書庫がありますよ。僕も数回、入ったことがあります。今は、太陽宮のマニ僧都様が総督の顧問に就任して、もっぱら一日、書庫に籠っておられますよ」
「マニ僧都が? どうりで、最近、図書館に来ないと思ったら!」
その後は博学なシラーや神官二人を交えて、本や『聖典』についての話が弾んで、フエルは目的地まで全く退屈することなく、丸一日の旅を終えた。
「休暇中も図書館が開いているから、また遊びにおいで」
朝陽が上るころに太陽神殿に着いて、シラーや神官二人と別れの挨拶をし、御者二人にも丁寧に礼を言ってから、フエルはジュルチの精舎へと向かった。
ジュルチは機嫌よくフエルを迎えてくれたが、夏至大祭を間近に控えて非常に多忙であった。〈清脩〉僧院へ行くつもりだと言うと、ジュルチは大祭が終わったら自分が連れて行こうと請け合ってくれた。そこまでしてもらうのも申し訳ないけれど、〈清脩〉僧院はジュルチの古巣であると言われ、親切に甘えることにする。それで、大祭が終わるまでの空いた時間、フエルは休暇中も開放されている太陽神殿の学院の図書館で、先に課題を片づけてしまうことにした。
太陽神殿の図書館は西方風の堅牢な石造りで、屋根や窓の装飾の意匠が東方風の折衷式の建物だ。これは聖地にはよくある形式で、最初奇妙だと思ったそれにも見慣れてきた。受付の僧に太陰宮の学院の学生証を示せば、一瞥した後で、入館許可証を兼ねたピンをくれる。それを襟に着けておけば、書庫にも入れると教えられる。
「ただし、太陽宮の学院生ではないので、貸し出しはできません。館内の閲覧だけです。あちらが書見台になっています。メモを取られる場合は、書籍を汚さないように注意してください」
読み終わった書籍は自分で棚に返さずに、横の返却台に返すこと、館内の飲食は所定の場所以外は禁止であることなど細かい注意を受けている横を、美術書らしい大型本を抱えた若い僧侶がカウンタ―にやってきた。
「これ、返したいんだけど」
ぶっきらぼうに声をかける、だがその風貌は驚くほど整っていて、フエルは一瞬、見惚れてしまう。金に近い茶色の眉に、蒼とも翠ともつかない深い色彩の瞳、長い睫毛はくるんと上を向いて、白皙の頬は透き通って白磁の人形のようだった。僧侶だから当たり前に剃髪しているのだが、もし伸ばしていればおそらくは金髪に近い巻き毛に違いないと思われた。――そうだとしたら、『聖典』の挿絵にある天使そのものだ。
その僧侶もフエルの方をチラリと見て、意味ありげにウインクしてきたので、フエルはドギマギする。不躾に見つめ過ぎたかと、フエルは慌ててカウンターの僧侶に礼を言って書庫へと歩き出した。
ソアレス家は皇太子の教育を掌る家だけあって、太学の長官を輩出する八侯爵家のラング家と並んで、膨大な蔵書を持つことで有名で、皇家の所蔵する秘書(宮中の蔵書)にも匹敵すると言われる。ソリスティア総督の蔵書もなかなかであるが、しかし、二千年の知識を溜め込んだ太陽神殿の学院の蔵書は、それらを遥かに凌駕していた。
圧倒的な知の集積の前に、人は声を失う。フエルは高い天井までびっしりと積み上げられた書籍にしばし見惚れてから、おもむろに課題に取り掛かった。
学院は休暇中ということもあり、書庫の中は人もまばらであった。
いくつか興味ある書籍を抱えて書見台を陣取り、あれこれとメモを取る。課題は陰陽理論と東西皇王家の歴史について、レポートをまとめよというものであった。
「あー、この本、読んでみたい」
参考文献としてあげられている、五百年前の帝国内乱に関わる書物をフエルは探しに行くことにした。カウンター脇に並ぶ、カード目録を繰ってみると、しかしその書籍の所蔵場所が「貴重書庫」となっていた。
「すいません、貴重書庫の本を拝見することはできますか?」
フエルがカウンタ―の僧侶に尋ねると、後ろで糸綴じ本の修理をしていた若い僧侶が振り返る。
「やっぱり、フエルじゃないか。声でわかったよ」
僧侶はシラーであった。シラーはカウンターの僧侶に自分の知り合いだと告げて、対応を代わってくれた。
「貴重書庫の本が見たいの? 普段は鍵がかかっているけど、手続きを踏めば見られるよ。でも今、主任がいないなあ――」
言いさしたシラーに、カウンターの僧侶が言った。
「ああ、私が合鍵を預かっていますから、大丈夫ですよ。……ここに、名前を書いてください」
僧侶の差し出す「貴重書庫入庫人名簿」に記名すると、カウンターの僧侶は抽斗から鍵を取り出してシラーに手渡す。
「主任を見つけたら、休憩時間がとっくに終わってる、って釘を刺しておいてよ。ここんとこ、いっつもで、私の休憩時間が減るんだから」
ブツブツ言うカウンターの僧侶に手を上げて、シラーがフエルを先導して貴重書庫に向かう。
「私が一月留守にしたもんだから、彼は仕事が溜まってご機嫌斜めなんだよ。何だか主任がサボリがちらしくてね? どうしちゃったんだろうね」
シラーの出張中に、それまで生真面目だった主任が、急に怠けるようになったのだという。
そんな話をしながら、高い天井までびっしりと書籍で埋もれた書棚の間を通り抜け、書庫の奥へと歩いていく。
「あれ?……おかしいな。鍵が……」
シラーが戸惑ったように、扉と鍵を見比べている。フエルもその視線を追うと、奥の重厚な木の扉がわずかに開き、薄暗い書棚の並びに魔力灯らしき明かりが漏れていた。
「誰かが閉め忘れたのかな。魔力灯もつけっぱなしで……」
シラーがブツブツと言いながら速足で近づき、扉を開けた。
何やら奇妙な音が、貴重書庫の奥から聞こえてくる。くぐもったうめき声のような、声を殺して悲鳴を押さえているような――。
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