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【番外編】叢林の盧墓
孤児院の悲劇
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「……つまり、シウリンは生きているってことなの?」
夕暮れの森の小道を歩きながら、ルチアがフエルに尋ねる。
あの後、フエルとルチア、そしてロドの三人はゴルの打った蕎麦を食べさせてもらい、シウリンの話を聞いた。ルチアはずっと、はっきりとしたことを、ゴルに聞けないままだったのだ。
「――生きては、いる。でも、それはもう、シウリンではない。だから、ゴルは墓を作った」
帝国の皇子ではなく、シウリンの墓を。
フエルの答えに、ずっと無言であったロドが言う。
「シシルが見たシウリンを連れ去った俗人の男というのは、帝国の使者か?」
フエルは正面を向いたまま、頷いた。
「そうだと思います。……シシル準導師の話が本当だとすれば、シウリンは尼僧院から僧院に一度戻ってきて、それから帝国に連れ去られた。――つまり、院長や副院長も知っている。だから、箝口令が敷かれ、シウリンの記録ごと消された。そうだとすれば、辻褄が合います」
ロドが溜息をつく。
「……シシルは、目の前で愛しいシウリンを連れ去られて、狂ってしまったのか」
フエルが少し眉を顰める。
「その……男同士ってのが、よくわからないんですけど。だいたい、皆さん、僧侶ですよね?」
同性愛は陰陽の禁忌に触れるし、聖職者の姦淫も禁止のはずだ。だがロドも諦めたように言った。
「人の欲というのは、そう簡単に抑え込めるものではない。僧侶であろうが、男同士だろうがな」
「一応、そういう煩悩から解脱を目指して出家するんですよねぇ?」
フエルの言葉に、ルチアが鼻で笑う。
「坊主なんて煩悩の塊だよ。男しかいねぇもん。恋でもセックスでも、男とするっきゃねーじゃん」
「……そういう言葉、軽々しく口にしてほしくないな。品がないよ」
「ちぇ、カマトト野郎が」
ぺっとルチアが木立の脇に唾を吐く。
「――シウリンは本当に、ゴルやシシルとも何もなかったのか?」
ロドの質問に、ルチアがあははと笑い出す。
「シウリンが? あれは天使っていうかさ、ソッチ方面は晩生だったんだよ。シシルやゴルだけじゃなくて、水車小屋のルカも、羊飼いのヘイルも、厨長のケルシュも、みんなシウリンに恋してた。すごかったよ、いろんな奴が、みんなしてシウリンに貢物みたいに食べ物を持ってくる。でもシウリンにはその気はまるでなくて、みんな親切にありがとうってニッコリ笑ってさ、後で孤児院のみんなに分けてくれるの。たぶん、そういう欲がまだ、なかったんだろうね。――あの頃は幸せだった。腹が減っても、いじめられても、いつもシウリンが助けてくれた」
木立の間から、夕焼け色が迫っていた。影が、長く伸びる。自分たちの影を見下ろして歩きながら、ルチアが言った。
「シウリンがいなくなって、何もかもおかしくなった。――まず、監督官だったシシルが狂って、交代させられた。シシルは厳しかったけど、悪いことはしなかった。シウリンのことが好きだったのに、手も出さず、誰も手出しできないよう、孤児院を護ってた。ちょっとウザいくらいに厳格に。でも、次のヤツはそうじゃなかった。孤児院の監督官の立場を悪用して、俺たちを食い物にしたんだ」
「食い、物?――」
「文字通り、食ったんだよ。――もちろん、性的な意味でだけどね」
フエルの足が止まりそうになる。ロドが、心配そうにフエルの背中を押して、歩くように促す。それに構わずに、ルチアは話し続ける。
「あいつは、俺たちを脅したんだ。シウリンは、言うことを聞かなかったから、売られたって。奴隷に売られたくなかったら、言う通りにしろ。院長も副院長も、みんな知ってることだって。――だから、シウリンの失踪を、院長も副院長も何も言わないんだってね。信じたくなかったけど、誰に助けを求めていいのかもわからないまま、俺たちは餌食にされるしかなかった」
フエルが、黒い瞳を見開いて、ルチアを見つめる。
「――君も?」
「俺、見かけだけはオンナノコみたいだって、言われんだよ。俺はオンナノコなんて、見たこともねぇんだけどさ。あいつは自分で試した後、他の奴にも俺を売ったよ。何人もね。おかげで、こんなアバズレになっちまった」
「どうしてそんな――」
絶句するフエルに、ロドが溜息まじりに言う。
「あの頃、この僧院には何か大きな圧力が上層部――おそらく、太陽宮のさらに上から――かかって、太陽宮からやってきた監査官が僧院を牛耳った。そいつが孤児院の監督官になったそのクソ野郎とツルんで好き放題するために、ジュルチ僧都は太陽神殿に召集され、マニ僧都はそれを拒否して塔に籠るしかなかった。一番の被害者が、子供たちだったんだ」
ロドが、足元に伸びる自分の影を見下ろして言う。
「五年前、太陽神殿で地歩を固めたジュルチ僧正が、ようやく僧院に戻ってクソ野郎どもから孤児院の子供たちを助け出すことができた。――俺は、その時に綱紀粛正のために、ジュルチ僧正に請われてこの僧院に来た」
フエルは驚いてロドを見る。――そういう、ことだったとは。
「俺はクソ野郎どもを野放しにした、院長も副院長も罷免すべきだとジュルチ僧正に言ったけれど、太陽宮からの指令は最低限の処罰にとどめて他は現状維持、だった。この僧院で大きな不祥事があったことを、どういうわけか、太陽宮は無かったことにしたがった。ジュルチ僧正はそれを飲んだけれど、俺は納得がいかなくて、ずっと調べていた。――どうやら、十年前の〈シウリン〉という見習い僧侶の失踪を、隠蔽するためらしいと、気づいたのは最近だ」
ジュルチはおそらく最初から、シウリンの一件に関わっていて、だからこそ、ルチアに対し責任を感じているのだ。
フエルは、鉛を飲み込んだような気分になる。
頭の中でガンガンと、昨日のシシル準導師の声がこだまする。
『お前、お前がシウリンを連れて行った――』
『シウリンがいなくなって、何もかもがおかしくなった――』
シウリンの失踪を切っ掛けに、シシルによって偏執的に守られていた孤児院の安全は崩壊した。
シウリンの存在を隠すために、僧院の秩序もまた、崩れ去ったのだ。
そして、十年前の十二月、シウリンを連れ去ったのは、おそらく――。
夕暮れの森の小道を歩きながら、ルチアがフエルに尋ねる。
あの後、フエルとルチア、そしてロドの三人はゴルの打った蕎麦を食べさせてもらい、シウリンの話を聞いた。ルチアはずっと、はっきりとしたことを、ゴルに聞けないままだったのだ。
「――生きては、いる。でも、それはもう、シウリンではない。だから、ゴルは墓を作った」
帝国の皇子ではなく、シウリンの墓を。
フエルの答えに、ずっと無言であったロドが言う。
「シシルが見たシウリンを連れ去った俗人の男というのは、帝国の使者か?」
フエルは正面を向いたまま、頷いた。
「そうだと思います。……シシル準導師の話が本当だとすれば、シウリンは尼僧院から僧院に一度戻ってきて、それから帝国に連れ去られた。――つまり、院長や副院長も知っている。だから、箝口令が敷かれ、シウリンの記録ごと消された。そうだとすれば、辻褄が合います」
ロドが溜息をつく。
「……シシルは、目の前で愛しいシウリンを連れ去られて、狂ってしまったのか」
フエルが少し眉を顰める。
「その……男同士ってのが、よくわからないんですけど。だいたい、皆さん、僧侶ですよね?」
同性愛は陰陽の禁忌に触れるし、聖職者の姦淫も禁止のはずだ。だがロドも諦めたように言った。
「人の欲というのは、そう簡単に抑え込めるものではない。僧侶であろうが、男同士だろうがな」
「一応、そういう煩悩から解脱を目指して出家するんですよねぇ?」
フエルの言葉に、ルチアが鼻で笑う。
「坊主なんて煩悩の塊だよ。男しかいねぇもん。恋でもセックスでも、男とするっきゃねーじゃん」
「……そういう言葉、軽々しく口にしてほしくないな。品がないよ」
「ちぇ、カマトト野郎が」
ぺっとルチアが木立の脇に唾を吐く。
「――シウリンは本当に、ゴルやシシルとも何もなかったのか?」
ロドの質問に、ルチアがあははと笑い出す。
「シウリンが? あれは天使っていうかさ、ソッチ方面は晩生だったんだよ。シシルやゴルだけじゃなくて、水車小屋のルカも、羊飼いのヘイルも、厨長のケルシュも、みんなシウリンに恋してた。すごかったよ、いろんな奴が、みんなしてシウリンに貢物みたいに食べ物を持ってくる。でもシウリンにはその気はまるでなくて、みんな親切にありがとうってニッコリ笑ってさ、後で孤児院のみんなに分けてくれるの。たぶん、そういう欲がまだ、なかったんだろうね。――あの頃は幸せだった。腹が減っても、いじめられても、いつもシウリンが助けてくれた」
木立の間から、夕焼け色が迫っていた。影が、長く伸びる。自分たちの影を見下ろして歩きながら、ルチアが言った。
「シウリンがいなくなって、何もかもおかしくなった。――まず、監督官だったシシルが狂って、交代させられた。シシルは厳しかったけど、悪いことはしなかった。シウリンのことが好きだったのに、手も出さず、誰も手出しできないよう、孤児院を護ってた。ちょっとウザいくらいに厳格に。でも、次のヤツはそうじゃなかった。孤児院の監督官の立場を悪用して、俺たちを食い物にしたんだ」
「食い、物?――」
「文字通り、食ったんだよ。――もちろん、性的な意味でだけどね」
フエルの足が止まりそうになる。ロドが、心配そうにフエルの背中を押して、歩くように促す。それに構わずに、ルチアは話し続ける。
「あいつは、俺たちを脅したんだ。シウリンは、言うことを聞かなかったから、売られたって。奴隷に売られたくなかったら、言う通りにしろ。院長も副院長も、みんな知ってることだって。――だから、シウリンの失踪を、院長も副院長も何も言わないんだってね。信じたくなかったけど、誰に助けを求めていいのかもわからないまま、俺たちは餌食にされるしかなかった」
フエルが、黒い瞳を見開いて、ルチアを見つめる。
「――君も?」
「俺、見かけだけはオンナノコみたいだって、言われんだよ。俺はオンナノコなんて、見たこともねぇんだけどさ。あいつは自分で試した後、他の奴にも俺を売ったよ。何人もね。おかげで、こんなアバズレになっちまった」
「どうしてそんな――」
絶句するフエルに、ロドが溜息まじりに言う。
「あの頃、この僧院には何か大きな圧力が上層部――おそらく、太陽宮のさらに上から――かかって、太陽宮からやってきた監査官が僧院を牛耳った。そいつが孤児院の監督官になったそのクソ野郎とツルんで好き放題するために、ジュルチ僧都は太陽神殿に召集され、マニ僧都はそれを拒否して塔に籠るしかなかった。一番の被害者が、子供たちだったんだ」
ロドが、足元に伸びる自分の影を見下ろして言う。
「五年前、太陽神殿で地歩を固めたジュルチ僧正が、ようやく僧院に戻ってクソ野郎どもから孤児院の子供たちを助け出すことができた。――俺は、その時に綱紀粛正のために、ジュルチ僧正に請われてこの僧院に来た」
フエルは驚いてロドを見る。――そういう、ことだったとは。
「俺はクソ野郎どもを野放しにした、院長も副院長も罷免すべきだとジュルチ僧正に言ったけれど、太陽宮からの指令は最低限の処罰にとどめて他は現状維持、だった。この僧院で大きな不祥事があったことを、どういうわけか、太陽宮は無かったことにしたがった。ジュルチ僧正はそれを飲んだけれど、俺は納得がいかなくて、ずっと調べていた。――どうやら、十年前の〈シウリン〉という見習い僧侶の失踪を、隠蔽するためらしいと、気づいたのは最近だ」
ジュルチはおそらく最初から、シウリンの一件に関わっていて、だからこそ、ルチアに対し責任を感じているのだ。
フエルは、鉛を飲み込んだような気分になる。
頭の中でガンガンと、昨日のシシル準導師の声がこだまする。
『お前、お前がシウリンを連れて行った――』
『シウリンがいなくなって、何もかもがおかしくなった――』
シウリンの失踪を切っ掛けに、シシルによって偏執的に守られていた孤児院の安全は崩壊した。
シウリンの存在を隠すために、僧院の秩序もまた、崩れ去ったのだ。
そして、十年前の十二月、シウリンを連れ去ったのは、おそらく――。
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