17 / 170
3、過去の瑕
愛情の不均衡
婚約式の日以来、十年ぶりに声を取り戻したアデライードだが、しかし相変わらず無口で、感情を表に出すことも少ない。ゾラなどはいまだに「頭が弱い」と思っているし、実際、恭親王もアデライードが何を考えているのかわからない。もしかしたら何も考えていないのではないかとすら、思うことがある。恭親王自身、もし十年前の、声を失う前の彼女を知らなければ、アデライードを見かけばかり美しいが中身のない、人形のような女だと決めつけていたかもしれない。
この半年でアンジェリカやリリアらと話したり、アリナに剣術の指南を受けるようになり、空虚な玻璃のようだった彼女の表情は、見違えるように豊かになった。だがまだ、かつて見習い僧侶の〈シウリン〉に見せたような、天真爛漫な姿を取り戻すことはできていない。
余剰魔力が澱み、思考が混濁していた影響もあって、ゾラやトルフィンが言うようにアデライードは年齢の割に情緒の発達が遅れている。自分の殻に閉じこもって過ごした時間が長すぎて、積極的に周囲の者と交流しようという気が、そもそもないらしい。周囲の思惑を気にせず、我が道を行くマイペースぶりは、それはそれでよいのだが、周囲を気遣い、周りに合わせていこうという気がないのだ。
結婚以来、恭親王は二人きりになれば(二人きりでなくとも)必ずアデライード抱き寄せ、耳元で濃厚に愛を囁いているのに、アデライードは恥ずかし気に頬を染めて俯いてしまうだけ。ごくまれに、ベッドの上で小さな声で「すき」と囁いてくれることもあったのだが、それだけで天にも昇る心地になって、その後散々に滾る思いをぶつけてしまったのがいけなかったのか、最近はそれすらも言ってくれなくなった。焦るまいとは思うが、一方通行の愛に、恭親王は実のところ、かなり傷ついていた。
例えばどうしても仕事が押してしまい、夕食の時間までに恭親王が食堂まで行けない時でも、アデライードは時間になれば彼を待つことなく食べ始めてしまう。その後遅れてきた恭親王がまだ食事中だというのに、アデライードは自身が食べ終わると当然のように席を立とうとした。「食べ終わるまで待っていて欲しい」と恭親王に言われて、初めてそれに気づくくらい、何の躊躇いもなく一人で先に引き上げるつもりであったらしい。夕食後も仕事が残っていて、「先に寝んでいてくれ」と言われれば、少し不思議そうな顔で頷いていたのだが、あれは言われるまでもなく、先に寝るつもりだったからだろう。
かつて、帝都で邸に置いていた側室は、夕食を約束すればどんなに恭親王が遅くなっても食べずに待っていたし、今夜行くと伝えておけば、明け方まで起きて彼を待ち続けていた。そういうのが重たく、また少しばかり鬱陶しくて、わざと連絡を入れずにすっぽかしてみたこともある。
アデライードと暮らすようになり、どんなに遅くなっても女は彼を待つものだと無意識に思い込んでいた自分に気づき、恭親王は茫然とする。アデライードとの関係は、これまでの女たちとは根本的に違うのだ。
聖地の僧院を出て以来、彼は十七の歳まで帝都の後宮で育つ。後宮には秀女と呼ばれる皇子の側室候補たちがひしめき合い、皇子の寵愛を競いあっていた。
龍種である皇子たちは、強い魔力に満ちた精を持っていて、魔力耐性のない平民の女にはその精は猛毒である。甘やかされて育った皇子たちを野放しにすれば、欲望のままに平民の侍女を襲い、花街にしけこんで娼婦を犯しまくるのは火を見るより明らかで、被害に遭う女が続出するに違いない。それを防ぐために、帝国全土から魔力耐性のある下級貴族の令嬢たちを秀女として集め、皇子の性欲処理のために各皇子の宮に宛がっているのである。皇子専用の娼婦とまで揶揄されるそんな女たちに囲まれて、彼ら皇子たちの女性観が歪まないはずはない。女というものは、彼らに対して品を作り、媚びを売り、誘いをかけ、自ら脚を開く者たちばかりであった。
圧倒的な身分差の上で成り立つ身体だけの関係と、身分を隠して興じる一夜の恋愛遊戯。
無駄な経験値だけはやたら稼いでいるが、真に愛する女と真正面から向き合ったことなど、恭親王にはないのだ。
今、ようやく真実愛する妻を手に入れて初めて、恭親王は自らの経験不足に愕然とする。
これまで、どんな女も身体だけの関係だと割り切っていた恭親王は、アデライードの心をどうやって手に入れたらいいのか、ただただ戸惑い、困惑し、焦燥のあまりその華奢な身体を貪って、耳元で馬鹿の一つ覚えのように「愛している」と繰り返すばかりである。
(焦るな……嫌われているわけじゃない。たいがいしつこいと思われていそうだけど)
アデライードが心の底で愛しているのは〈シウリン〉だと知っているし、彼はその位置を奪うつもりはなかった。存在すらも消されてしまった〈シウリン〉を、アデライードだけはいまだに愛し続けてくれている、そのことが彼の心を充たしている。だが、〈シウリン〉だけでなく、目の前にいる自分も愛してほしい。彼女の身体はもう、彼のものだが、その奥にある心も、やはり欲しいと思ってしまうのだ。
(難しいものだな。――かつての側室も、正室も、私を愛していたらしいが、私にはその愛は不要なものだった)
側室の愛は真っ直ぐに、正室の愛は歪んだ形で、恭親王はどちらの感情にも気づいてはいたが、もとよりそれに応えるつもりもなかった。彼が愛しているのは今も昔もただ一人であるから。だが、今、その一人に対峙して、自己の気持ちを野放図にぶつけているだけの状態では、ただ鬱陶しいと思われているに違いない。かつて、彼が女たちに感じていたのと同様に――。
この半年でアンジェリカやリリアらと話したり、アリナに剣術の指南を受けるようになり、空虚な玻璃のようだった彼女の表情は、見違えるように豊かになった。だがまだ、かつて見習い僧侶の〈シウリン〉に見せたような、天真爛漫な姿を取り戻すことはできていない。
余剰魔力が澱み、思考が混濁していた影響もあって、ゾラやトルフィンが言うようにアデライードは年齢の割に情緒の発達が遅れている。自分の殻に閉じこもって過ごした時間が長すぎて、積極的に周囲の者と交流しようという気が、そもそもないらしい。周囲の思惑を気にせず、我が道を行くマイペースぶりは、それはそれでよいのだが、周囲を気遣い、周りに合わせていこうという気がないのだ。
結婚以来、恭親王は二人きりになれば(二人きりでなくとも)必ずアデライード抱き寄せ、耳元で濃厚に愛を囁いているのに、アデライードは恥ずかし気に頬を染めて俯いてしまうだけ。ごくまれに、ベッドの上で小さな声で「すき」と囁いてくれることもあったのだが、それだけで天にも昇る心地になって、その後散々に滾る思いをぶつけてしまったのがいけなかったのか、最近はそれすらも言ってくれなくなった。焦るまいとは思うが、一方通行の愛に、恭親王は実のところ、かなり傷ついていた。
例えばどうしても仕事が押してしまい、夕食の時間までに恭親王が食堂まで行けない時でも、アデライードは時間になれば彼を待つことなく食べ始めてしまう。その後遅れてきた恭親王がまだ食事中だというのに、アデライードは自身が食べ終わると当然のように席を立とうとした。「食べ終わるまで待っていて欲しい」と恭親王に言われて、初めてそれに気づくくらい、何の躊躇いもなく一人で先に引き上げるつもりであったらしい。夕食後も仕事が残っていて、「先に寝んでいてくれ」と言われれば、少し不思議そうな顔で頷いていたのだが、あれは言われるまでもなく、先に寝るつもりだったからだろう。
かつて、帝都で邸に置いていた側室は、夕食を約束すればどんなに恭親王が遅くなっても食べずに待っていたし、今夜行くと伝えておけば、明け方まで起きて彼を待ち続けていた。そういうのが重たく、また少しばかり鬱陶しくて、わざと連絡を入れずにすっぽかしてみたこともある。
アデライードと暮らすようになり、どんなに遅くなっても女は彼を待つものだと無意識に思い込んでいた自分に気づき、恭親王は茫然とする。アデライードとの関係は、これまでの女たちとは根本的に違うのだ。
聖地の僧院を出て以来、彼は十七の歳まで帝都の後宮で育つ。後宮には秀女と呼ばれる皇子の側室候補たちがひしめき合い、皇子の寵愛を競いあっていた。
龍種である皇子たちは、強い魔力に満ちた精を持っていて、魔力耐性のない平民の女にはその精は猛毒である。甘やかされて育った皇子たちを野放しにすれば、欲望のままに平民の侍女を襲い、花街にしけこんで娼婦を犯しまくるのは火を見るより明らかで、被害に遭う女が続出するに違いない。それを防ぐために、帝国全土から魔力耐性のある下級貴族の令嬢たちを秀女として集め、皇子の性欲処理のために各皇子の宮に宛がっているのである。皇子専用の娼婦とまで揶揄されるそんな女たちに囲まれて、彼ら皇子たちの女性観が歪まないはずはない。女というものは、彼らに対して品を作り、媚びを売り、誘いをかけ、自ら脚を開く者たちばかりであった。
圧倒的な身分差の上で成り立つ身体だけの関係と、身分を隠して興じる一夜の恋愛遊戯。
無駄な経験値だけはやたら稼いでいるが、真に愛する女と真正面から向き合ったことなど、恭親王にはないのだ。
今、ようやく真実愛する妻を手に入れて初めて、恭親王は自らの経験不足に愕然とする。
これまで、どんな女も身体だけの関係だと割り切っていた恭親王は、アデライードの心をどうやって手に入れたらいいのか、ただただ戸惑い、困惑し、焦燥のあまりその華奢な身体を貪って、耳元で馬鹿の一つ覚えのように「愛している」と繰り返すばかりである。
(焦るな……嫌われているわけじゃない。たいがいしつこいと思われていそうだけど)
アデライードが心の底で愛しているのは〈シウリン〉だと知っているし、彼はその位置を奪うつもりはなかった。存在すらも消されてしまった〈シウリン〉を、アデライードだけはいまだに愛し続けてくれている、そのことが彼の心を充たしている。だが、〈シウリン〉だけでなく、目の前にいる自分も愛してほしい。彼女の身体はもう、彼のものだが、その奥にある心も、やはり欲しいと思ってしまうのだ。
(難しいものだな。――かつての側室も、正室も、私を愛していたらしいが、私にはその愛は不要なものだった)
側室の愛は真っ直ぐに、正室の愛は歪んだ形で、恭親王はどちらの感情にも気づいてはいたが、もとよりそれに応えるつもりもなかった。彼が愛しているのは今も昔もただ一人であるから。だが、今、その一人に対峙して、自己の気持ちを野放図にぶつけているだけの状態では、ただ鬱陶しいと思われているに違いない。かつて、彼が女たちに感じていたのと同様に――。
あなたにおすすめの小説
最愛の番に殺された獣王妃
望月 或
恋愛
目の前には、最愛の人の憎しみと怒りに満ちた黄金色の瞳。
彼のすぐ後ろには、私の姿をした聖女が怯えた表情で口元に両手を当てこちらを見ている。
手で隠しているけれど、その唇が堪え切れず嘲笑っている事を私は知っている。
聖女の姿となった私の左胸を貫いた彼の愛剣が、ゆっくりと引き抜かれる。
哀しみと失意と諦めの中、私の身体は床に崩れ落ちて――
突然彼から放たれた、狂気と絶望が入り混じった慟哭を聞きながら、私の思考は止まり、意識は閉ざされ永遠の眠りについた――はずだったのだけれど……?
「憐れなアンタに“選択”を与える。このままあの世に逝くか、別の“誰か”になって新たな人生を歩むか」
謎の人物の言葉に、私が選択したのは――
ボロ雑巾な伯爵夫人、やっと『家族』を手に入れました。~旦那様から棄てられて、ギブ&テイクでハートフルな共同生活を始めます2~
野菜ばたけ@既刊5冊📚好評発売中!
ファンタジー
第二夫人に最愛の旦那様も息子も奪われ、挙句の果てに家から追い出された伯爵夫人・フィーリアは、なけなしの餞別だけを持って大雨の中を歩き続けていたところ、とある男の子たちに出会う。
言葉汚く直情的で、だけど決してフィーリアを無視したりはしない、ディーダ。
喋り方こそ柔らかいが、その実どこか冷めた毒舌家である、ノイン。
12、3歳ほどに見える彼らとひょんな事から共同生活を始めた彼女は、人々の優しさに触れて少しずつ自身の居場所を確立していく。
====
●本作は「ボロ雑巾な伯爵夫人、旦那様から棄てられて、ギブ&テイクでハートフルな共同生活を始めます。」からの続き作品です。
前作では、二人との出会い~同居を描いています。
順番に読んでくださる方は、目次下にリンクを張っておりますので、そちらからお入りください。
※アプリで閲覧くださっている方は、タイトルで検索いただけますと表示されます。
【完結】赤ちゃんが生まれたら殺されるようです
白崎りか
恋愛
もうすぐ赤ちゃんが生まれる。
ドレスの上から、ふくらんだお腹をなでる。
「はやく出ておいで。私の赤ちゃん」
ある日、アリシアは見てしまう。
夫が、ベッドの上で、メイドと口づけをしているのを!
「どうして、メイドのお腹にも、赤ちゃんがいるの?!」
「赤ちゃんが生まれたら、私は殺されるの?」
夫とメイドは、アリシアの殺害を計画していた。
自分たちの子供を跡継ぎにして、辺境伯家を乗っ取ろうとしているのだ。
ドラゴンの力で、前世の記憶を取り戻したアリシアは、自由を手に入れるために裁判で戦う。
※1話と2話は短編版と内容は同じですが、設定を少し変えています。
私から何でも奪い取る妹は、夫でさえも奪い取る ―妹の身代わり嫁の私、離縁させて頂きます―
望月 或
恋愛
「イヤよっ! あたし、大好きな人がいるんだもの。その人と結婚するの。お父様の言う何たらって人と絶対に結婚なんてしないわっ!」
また始まった、妹のワガママ。彼女に届いた縁談なのに。男爵家という貴族の立場なのに。
両親はいつも、昔から可愛がっていた妹の味方だった。
「フィンリー。お前がプリヴィの代わりにルバロ子爵家に嫁ぐんだ。分かったな?」
私には決定権なんてない。家族の中で私だけがずっとそうだった。
「お前みたいな地味で陰気臭い年増なんて全く呼んでないんだよ! ボクの邪魔だけはするなよ? ワガママも口答えも許さない。ボクに従順で大人しくしてろよ」
“初夜”に告げられた、夫となったルバロ子爵の自分勝手な言葉。それにめげず、私は子爵夫人の仕事と子爵代理を務めていった。
すると夫の態度が軟化していき、この場所で上手くやっていけると思った、ある日の夕方。
夫と妹が腕を組んでキスをし、主に密会に使われる宿屋がある路地裏に入っていくのを目撃してしまう。
その日から連日帰りが遅くなる夫。
そしてある衝撃的な場面を目撃してしまい、私は――
※独自の世界観です。ツッコミはそっと心の中でお願い致します。
※お読みになって不快に思われた方は、舌打ちしつつそっと引き返しをお願い致します。
※Rシーンは「*」を、ヒロイン以外のRシーンは「#」をタイトルの後ろに付けています。
【完結】転生7年!ぼっち脱出して王宮ライフ満喫してたら王国の動乱に巻き込まれた少女戦記 〜愛でたいアイカは救国の姫になる
三矢さくら
ファンタジー
【完結しました】異世界からの召喚に応じて6歳児に転生したアイカは、護ってくれる結界に逆に閉じ込められた結果、山奥でサバイバル生活を始める。
こんなはずじゃなかった!
異世界の山奥で過ごすこと7年。ようやく結界が解けて、山を下りたアイカは王都ヴィアナで【天衣無縫の無頼姫】の異名をとる第3王女リティアと出会う。
珍しい物好きの王女に気に入られたアイカは、なんと侍女に取り立てられて王宮に!
やっと始まった異世界生活は、美男美女ぞろいの王宮生活!
右を見ても左を見ても「愛でたい」美人に美少女! 美男子に美少年ばかり!
アイカとリティア、まだまだ幼い侍女と王女が数奇な運命をたどる異世界王宮ファンタジー戦記。
王女の中身は元自衛官だったので、継母に追放されたけど思い通りになりません
きぬがやあきら
恋愛
「妻はお妃様一人とお約束されたそうですが、今でもまだ同じことが言えますか?」
「正直なところ、不安を感じている」
久方ぶりに招かれた故郷、セレンティア城の月光満ちる庭園で、アシュレイは信じ難い光景を目撃するーー
激闘の末、王座に就いたアルダシールと結ばれた、元セレンティア王国の王女アシュレイ。
アラウァリア国では、新政権を勝ち取ったアシュレイを国母と崇めてくれる国民も多い。だが、結婚から2年、未だ後継ぎに恵まれないアルダシールに側室を推す声も上がり始める。そんな頃、弟シュナイゼルから結婚式の招待が舞い込んだ。
第2幕、連載開始しました!
お気に入り登録してくださった皆様、ありがとうございます! 心より御礼申し上げます。
以下、1章のあらすじです。
アシュレイは前世の記憶を持つ、セレンティア王国の皇女だった。後ろ盾もなく、継母である王妃に体よく追い出されてしまう。
表向きは外交の駒として、アラウァリア王国へ嫁ぐ形だが、国王は御年50歳で既に18人もの妃を持っている。
常に不遇の扱いを受けて、我慢の限界だったアシュレイは、大胆な計画を企てた。
それは輿入れの道中を、自ら雇った盗賊に襲撃させるもの。
サバイバルの知識もあるし、宝飾品を処分して生き抜けば、残りの人生を自由に謳歌できると踏んでいた。
しかし、輿入れ当日アシュレイを攫い出したのは、アラウァリアの第一王子・アルダシール。
盗賊団と共謀し、晴れて自由の身を望んでいたのに、アルダシールはアシュレイを手放してはくれず……。
アシュレイは自由と幸福を手に入れられるのか?