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五 天耳老丐
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朝方。楊楓は寝床を起き上がるなり、顔をしかめた。昨晩、掃把星に踏みつけられた胸がまだ痛む。
彼は歯を食いしばった。この程度、姉弟子の心の傷に比べたら大したことはない。余計な心配をかけて、旅の邪魔をしないようにしなければ。
両手で頬をぴしゃりと叩き、自分に活を入れ、支度を済ませる。
この旅に出た時から、自分のすべてをかけて薛紅鴛へ尽くすと誓ったのだ。楊楓にとって、彼女は女神にも等しい存在だった。
楊楓は武当派の剣客・楊清の息子だった。
父は六年前に死んだ。殺されたわけでも、病にかかったのでもなかった。
自ら剣で首をはね、命を絶ったのだ。
理由は母親にあった。彼女は、武当派と敵対している黄風寨の山賊・周牧の娘だったのだ。父は、ある時武林での果たし合いで重症を負い、山へ逃げ延びたところを母に助けられた。周牧は父が武当の弟子だと知り、その場で殺そうとしたが、母はすべてを捨てる覚悟で父を連れて逃げた。その情の深さに感じ入り、父も母を愛したのだった。武当山へ戻ると、母の正体を伏せつつ、師の許しを得て夫婦となった。一年後、二人の間には楊楓が生まれた。
十年が何事も無く過ぎた。しかしある時、黄風寨と武当派で戦いが起こり、母が周牧の娘だったことがばれた。その頃、既に母は病で亡くなっていたのだが、父は長老達に糾弾された。周牧は長年に渡り武当派と争い、幾人もの弟子を殺した。そんな男の娘を妻に迎え、あまつさえ出自を黙っていたことは、一門への裏切りに等しい。結局、父は自らの命でこの罪をあがなった。
忌まわしき生まれが明らかになると、残された楊楓は孤立した。それまで仲良かった兄弟弟子が、そばを離れていった。もとより、武芸の才能があるわけでもなく、長老達にも目をかけてもらえない。
そんな中、唯一優しく接してくれたのが薛紅鴛だった。
「生まれがどうだっていうの。私だって孤児だもの。ご両親が悪人だったとしても、それが何なの。あなたが武当の弟子として修行に励んで、立派な行いを心がければ、誰も悪口なんて言えなくなるよ」
正確にいえば、彼女は楊楓にだけ特別優しいのではなく、誰に対しても隔てをしなかっただけだ。けれども、楊楓には姉弟子の励ましが何よりの支えとなった。
紅鴛は常に堂々として、公明正大で、誰よりも武芸に秀でていた。彼女は楊楓の憧れだった。少しでもその強さに近づきたい。認めてもらいたい。楊楓は彼女を目標として、修行に邁進した。
紅鴛が武当の次期掌門に選ばれた時は、まるで自分のことのように嬉しかった。
その矢先に……今回の事件が起きたのだ。白翠繍と柯士慧。二人の裏切り者が、紅鴛の名を地に落とした。
仇敵が彼女を陥れようとしたのなら、まだいい。最初から敵だとわかっていれば、いくらか心構えが出来る。けれども二人は違う。片や義妹、片や婚約者、どちらも紅鴛にとってかけがえのない存在だ。その二人に裏切られ、彼女は心にどれほど深い傷を負ったことだろう。
しかしそれでも、紅鴛は武当の次期掌門として、表向きは平静を保っていた。江湖でひどい噂が流れても、人前ではおくびにも出さない。楊楓は深く感服し、一方で翠繍達への恨みを募らせた。翠繍と士慧が本当に駆け落ちをしたのかは、この際どうでもいい。彼らは紅鴛の名声を、取り返しがつかないほどに汚した。その罪は償わせねばならない。重要なのはそれだ。
掌門が紅鴛に二人の討伐を命じた時、楊楓は誰よりも先に同行させて欲しいと嘆願した。もし、紅鴛が裏切り者達を前にしてためらうようなら、自分が代わりに剣を抜き、彼らを殺す。全ては姉弟子の名誉を守るため。そのためなら、どんな犠牲も厭いはしない。
支度を済ませて部屋を出ると、階下では金華鏢局の用心棒達がそれぞれの卓で朝食の真っ最中だった。掃把星という疫病神がいなくなったためだろう、彼らの表情は明るい。
そこから少し離れた卓に、紅鴛がぽつんと座り、麺と作りおきの肉を食べていた。楊楓は足早に階段をおり、姉弟子に挨拶した。
「遅くなってすみません」
「怪我はもういいの?」
「大丈夫です」
彼は伏せ目がちに答えた。自分が未熟なために負った怪我で、姉弟子にここまで心配をかけるとは情けない。向かいに座ると、宿の小僧に肉と麺を注文し、急いでかきこんだ。
食事を済ませると、紅鴛が立ち上がって、頭目に声をかけた。
「私達は、一足先に出立します。もし掃把星がまた来るようなら、こちらを見せてください」懐から一枚の手紙を出して、頭目に渡す。「中身は私直筆の書面です。これがあれば、我が派の長老が解決に動いてくれます。いくら掃把星でも、武当の達人全員を相手にはしたがらないでしょう」
頭目が深々と頭を下げた。
「お気遣い、痛み入る。お返しになるかわからぬが、何か我々で助けになれることはありませんかな?」
「人を探しているのですが、ご存じでしょうか。このあたりにいるはずなのです。渾名を天耳老丐といいます」
「おぉ、あの有名な老乞食ですな。半年ほど前に会ったことがありますぞ。運が良ければ、冬場はこの先の赤松廟に落ち着いておるはずです」
「有難うございます。皆様の道中のご無事をお祈りします。では、これにて」
抱拳の礼をとり、きびすを返す。
楊楓も剣を手に、姉弟子の後に続いた。
彼は歯を食いしばった。この程度、姉弟子の心の傷に比べたら大したことはない。余計な心配をかけて、旅の邪魔をしないようにしなければ。
両手で頬をぴしゃりと叩き、自分に活を入れ、支度を済ませる。
この旅に出た時から、自分のすべてをかけて薛紅鴛へ尽くすと誓ったのだ。楊楓にとって、彼女は女神にも等しい存在だった。
楊楓は武当派の剣客・楊清の息子だった。
父は六年前に死んだ。殺されたわけでも、病にかかったのでもなかった。
自ら剣で首をはね、命を絶ったのだ。
理由は母親にあった。彼女は、武当派と敵対している黄風寨の山賊・周牧の娘だったのだ。父は、ある時武林での果たし合いで重症を負い、山へ逃げ延びたところを母に助けられた。周牧は父が武当の弟子だと知り、その場で殺そうとしたが、母はすべてを捨てる覚悟で父を連れて逃げた。その情の深さに感じ入り、父も母を愛したのだった。武当山へ戻ると、母の正体を伏せつつ、師の許しを得て夫婦となった。一年後、二人の間には楊楓が生まれた。
十年が何事も無く過ぎた。しかしある時、黄風寨と武当派で戦いが起こり、母が周牧の娘だったことがばれた。その頃、既に母は病で亡くなっていたのだが、父は長老達に糾弾された。周牧は長年に渡り武当派と争い、幾人もの弟子を殺した。そんな男の娘を妻に迎え、あまつさえ出自を黙っていたことは、一門への裏切りに等しい。結局、父は自らの命でこの罪をあがなった。
忌まわしき生まれが明らかになると、残された楊楓は孤立した。それまで仲良かった兄弟弟子が、そばを離れていった。もとより、武芸の才能があるわけでもなく、長老達にも目をかけてもらえない。
そんな中、唯一優しく接してくれたのが薛紅鴛だった。
「生まれがどうだっていうの。私だって孤児だもの。ご両親が悪人だったとしても、それが何なの。あなたが武当の弟子として修行に励んで、立派な行いを心がければ、誰も悪口なんて言えなくなるよ」
正確にいえば、彼女は楊楓にだけ特別優しいのではなく、誰に対しても隔てをしなかっただけだ。けれども、楊楓には姉弟子の励ましが何よりの支えとなった。
紅鴛は常に堂々として、公明正大で、誰よりも武芸に秀でていた。彼女は楊楓の憧れだった。少しでもその強さに近づきたい。認めてもらいたい。楊楓は彼女を目標として、修行に邁進した。
紅鴛が武当の次期掌門に選ばれた時は、まるで自分のことのように嬉しかった。
その矢先に……今回の事件が起きたのだ。白翠繍と柯士慧。二人の裏切り者が、紅鴛の名を地に落とした。
仇敵が彼女を陥れようとしたのなら、まだいい。最初から敵だとわかっていれば、いくらか心構えが出来る。けれども二人は違う。片や義妹、片や婚約者、どちらも紅鴛にとってかけがえのない存在だ。その二人に裏切られ、彼女は心にどれほど深い傷を負ったことだろう。
しかしそれでも、紅鴛は武当の次期掌門として、表向きは平静を保っていた。江湖でひどい噂が流れても、人前ではおくびにも出さない。楊楓は深く感服し、一方で翠繍達への恨みを募らせた。翠繍と士慧が本当に駆け落ちをしたのかは、この際どうでもいい。彼らは紅鴛の名声を、取り返しがつかないほどに汚した。その罪は償わせねばならない。重要なのはそれだ。
掌門が紅鴛に二人の討伐を命じた時、楊楓は誰よりも先に同行させて欲しいと嘆願した。もし、紅鴛が裏切り者達を前にしてためらうようなら、自分が代わりに剣を抜き、彼らを殺す。全ては姉弟子の名誉を守るため。そのためなら、どんな犠牲も厭いはしない。
支度を済ませて部屋を出ると、階下では金華鏢局の用心棒達がそれぞれの卓で朝食の真っ最中だった。掃把星という疫病神がいなくなったためだろう、彼らの表情は明るい。
そこから少し離れた卓に、紅鴛がぽつんと座り、麺と作りおきの肉を食べていた。楊楓は足早に階段をおり、姉弟子に挨拶した。
「遅くなってすみません」
「怪我はもういいの?」
「大丈夫です」
彼は伏せ目がちに答えた。自分が未熟なために負った怪我で、姉弟子にここまで心配をかけるとは情けない。向かいに座ると、宿の小僧に肉と麺を注文し、急いでかきこんだ。
食事を済ませると、紅鴛が立ち上がって、頭目に声をかけた。
「私達は、一足先に出立します。もし掃把星がまた来るようなら、こちらを見せてください」懐から一枚の手紙を出して、頭目に渡す。「中身は私直筆の書面です。これがあれば、我が派の長老が解決に動いてくれます。いくら掃把星でも、武当の達人全員を相手にはしたがらないでしょう」
頭目が深々と頭を下げた。
「お気遣い、痛み入る。お返しになるかわからぬが、何か我々で助けになれることはありませんかな?」
「人を探しているのですが、ご存じでしょうか。このあたりにいるはずなのです。渾名を天耳老丐といいます」
「おぉ、あの有名な老乞食ですな。半年ほど前に会ったことがありますぞ。運が良ければ、冬場はこの先の赤松廟に落ち着いておるはずです」
「有難うございます。皆様の道中のご無事をお祈りします。では、これにて」
抱拳の礼をとり、きびすを返す。
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