武当女侠情剣志

春秋梅菊

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二十六 流血

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 翠繍は話し続けた。
「私の修行を完成させて欲しいの。この数年で、蜈蚣天毒経の半分近くは学んだけど、まだ習得出来ていない奥義が幾つかある。でも、一人では駄目。だから、あなたが手伝ってちょうだい」
 楊楓は相手をにらみ返した。
「そんな頼みを、俺が承知すると思うのか」
「思うわ」
 即座に切り返した翠繍の表情には、余裕があった。
「あなたは姉さんを大事にしてくれているもの。あの人の命がかかってくるとしたら、何でもしてくれるわ。承知してくれたら、姉さんに食事を届けるようにするから」
 楊楓は顔を背けながらも、この提案を考えた。姉弟子の毒はもう解けている。食事をとり、体力が回復すれば牢を抜け出す準備が出来る。それに、この裏切り者のそばにいれば、牢の鍵を手に入れる機会だってあるかもしれない。いったん面従腹背して、ひそかにことを運べばうまくいくかもしれない。
「あんたは、どうして毒功を極めようとしているんだ?」
 取引に承諾する腹を決めながらも、楊楓はわざと話を引き延ばした。この裏切り者と話せるうちに、その真意をもう少し探っておく必要がある。
「備えは必要だもの。万が一にも武当派の長老が現れたら、彼らとも渡り合えるようにしないと」
「ふん。毒功を完全にしたって、師匠や師伯達にかなうものか」
「倒せなくても、あの人達から逃げおおせるだけの実力がつけばじゅうぶんよ」
「逃げるだって? 無理だな。お前の行いは、武当派や江南柯家だけでなく、他の名門も大勢怒らせた。武林全ての目から逃げ隠れ出来やしない。この洞窟だって、いずれ安全な場所じゃなくなる」
 翠繍はせせら笑った。
「この場で私を怒らせるのは賢くないんじゃない? 別に、あなたが手を貸してくれないなら殺したって構わないんだから。それとも、姉さんの食事に毒でも混ぜて欲しい?」
 楊楓は怒りに身を震わせた。が、怒鳴りそうになるのはかろうじて堪えた。翠繍が満足げに頷く。
「それでいいのよ。いちいち刃向かうようじゃ、私も面倒だものね」彼女は壁の本棚から、一冊の古書を抜き出し、ぱらぱらとめくりながら言った。「それで? 承知でいいんでしょう? いいなら、話を進めたいわ」
 渋々、楊楓は頷いた。
「結構ね。あなたにはいくつか薬剤を探してきて欲しいの。それと、毎晩内功の修行を手伝って。これは二人でやらなければいけないの。具体的な方法は、その時にまた教えるわ」
「わかった」
「それじゃ、まず姉さんに食事を届けるとしましょうか」
 翠繍は本をしまうと、卓上の料理を盆にのせていった。それから、何故か壁にかけてある剣を腰帯に挿し、それから盆を手にして楊楓を振り向いた。
「さあ、行きましょう」
 楊楓は後に従いながらも訝った。何のための剣だ? 護身なら、毒の技だけでもじゅうぶんだろうに。
 牢屋まで戻ると、姉弟子は相変わらず寝床の上で端座し、瞳を閉じている。隣の牢獄にいる柯士慧は、格子にもたれて腕を組み、天井を睨みつけていた。翠繍達が現れても知らぬ顔だ。
 楊楓は翠繍の剣と、姉弟子の姿を見てぴんと閃いた。翠繍が牢を開いたら、自分がこの裏切り者を背後から襲い、姉弟子のために隙を作るのだ。彼女の技量なら、翠繍の腰から剣を奪うことが出来る。得物さえあれば毒技があっても渡り合える可能性がある。
 あれこれ思案していた矢先、ふと翠繍が足を止め、こちらを振り向いた。
「楊師弟、食事の前に、一つやってもらいたいことがあるの」
「何だって?」
 いきなりのことに、彼は面食らった。
「誠意を見せて欲しいの。ちゃんと私との取引をこなすつもりなら、言うことを聞いてくれるんだって、私に示してくれないとね」翠繍は盆を片手に持つと、あいた方の手で腰の剣を引き抜き、柄の方を前にして楊楓に差し出した。
「これで、そこにいる男の右腕を根元から切り落としなさい」
 楊楓は剣と、その男を交互に見た。他でもない、柯士慧のことだった。
 さすがの柯士慧も、これには鋭く反応した。格子から身を離し、身構えた。
「妖女、貴様……今なんと言った?」
 翠繍が無視して、楊楓の胸元に柄を押しつける。
「やるのよ、楊師弟。同じ窮地にあって呉越同舟も出来ない男に、情けは無用だわ。何より、姉さんのことだってはなから愛してなんかない。欲しかったのは最初から武当派と結ばれる名誉と、それで得られる奥義だけ。名門を名乗るに値しない男なの。それに、死ぬのは怖くないみたいだから、ちゃんと痛い目に遭ってもらうなら、大事な利き腕を無くしてもらうより他ないでしょうしね」
 楊楓はおぞけをふるった。翠繍は、楊楓が簡単に裏切れないように手を汚させるつもりなのだ。確かに、柯士慧のことはもはや微塵も尊敬していないが、しかし、腕を切り落とせというのは……。
 紅鴛が口を開いた。
「翠繍、やめて。無力な柯六侠へ、これ以上の手出しをするというの?」それから、楊楓にも叫んだ。「楊師弟、言うことをきいては駄目」
「やりなさい。さぁ、早く」翠繍は口元を楊楓の耳へ寄せた。「やめるというなら、姉さんの命と引き換えよ」
 楊楓は鋭く翠繍を見返した。体が震えていた。迷っている暇はない。師姐を犯したあの時から、もう自分は命を捨てたのだ。この身はもう、ただ師姐を救うためだけにある。
 彼は胸元の柄へ視線を下ろし……右手で握った。
 翠繍がにんまりして自分の手を離す。そして、柯士慧の牢獄へ近づき、鍵を開けた。
「柯の体は毒で内功が使えないわ。楊師弟、存分にやりなさい」
 楊楓は静かに歩を進め、牢の中へ入った。
「や……やめろ! やめてくれ!」
 柯士慧は後ずさって、殆どすぐ格子へぶつかった。逃げ場など無かった。顔には汗の粒が浮かび、口をぱくぱくと動かしている。なんと情けない。これが名門に生まれた剣士の姿とは……。
 楊楓は冷たく相手を見下ろした。
「柯六侠。自分のこれまでの行いを恨むんだな。本当なら、俺がこんなことをするまでもなく、あんたは右腕を師姐のためになくすべきだったんだ。心から師姐を愛していたのなら……」
「や、やめろ。やめーー」
 楊楓は容赦なく、左足で相手の右胸を踏みつけ、動けないようにした。柯士慧は激しくもがいたが、内功が失われているのか、殆ど力が出ていなかった。
 紅鴛が格子にしがみついて、こちらへ必死に呼びかけている。楊楓は聞こえない振りに徹した。ここに至っては、もう姉弟子に恨まれてもよかった。彼女の命が助かるのならば。
 ざくりと、右肩に剣を振り下ろす。骨と骨の隙間の肉に、刃が深々と突き刺さった。楊楓は、柄を前後に振った。ぶちぶちと音を立て、血をしぶかせ、柯士慧の腕が肩を離れた。

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