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六日目 金曜日 その1
しおりを挟む朝一番で拉致されてしまった。
家を出てカギを閉めようとしたところで僕の記憶は途切れている。
気がついた時には床に転がされていた。
しかもうまく動けない。
ぼんやりとした頭のまま起き上がろうとしたのだけれど、無意識に手をつこうとしてバランスを崩して転がってしまった。
手が動かせなかった。正確には手をつこうとしたのだけれど、後ろ手で手錠がかけられていたので自由に動かすことができなかった。
「なんだこりゃ?」
声がうまく出てこない。自分の声じゃないと思えるくらいかすれていて、喉の奥に絡みつくような感じだった。
うめき声が聞こえてきた。でもそれは僕自身が発していた。
身体もだるい。
身体全体がしびれているような感覚で、頭もうまく働いていないようだ。
視界もぼやけていて焦点もうまく合わなくて気持ちが悪い。
それにここがどこだか見当もつかなかったし、自分の置かれている状況がまったくもって理解ができなかった。
本当にどうなっているんだこれは?
意識をはっきりさせようと頭を振ってみたけれど、じんわりとした痛みが広がっただけだった。
「あーわけわかんない」
首だけ動かして周りの様子を見てみると、どうやらここは使われていない空き教室らしかった。といっても学校の教室と比べるとだいぶ狭く感じるし、小奇麗な作りだった。移動できるホワイトボードがあって、部屋の端には折りたためる机やイスが重ねて置いてあった。
長いこと使われていないのか、全体的に埃っぽかった。
寝転がされているタイル張りの床にもうっすらと埃が積もっている。
ブラインドが下ろされている窓からは日の光が差し込んでいて、床に縞模様を作っていた。昼間なのは間違いないようだけれど、今日が今日のままなのかは定かじゃなかった。
意識を失ってどのくらいここに転がされていたのかまったく見当がつかなかった。
この部屋には僕以外は誰もいないようだ。
右のわき腹あたりに鈍痛のような痛みがあって、疲れが抜けきっていない時のように身体が重たくて気だるい倦怠感がある。
その上後ろ手で手錠でつながれている。直接縛られているわけじゃないから鎖の分、多少でも動かせるのが救いだった。
身体の柔らかい人なら前の方に手を回してこれたりするのだろうけど、僕には頭の方からも足の方からも腕を抜くことはできなかった。
「まったく」
思わずぼやきながら身体を動かす。ようやく声も普通に出るようになってきた。
横向きに寝転がされていたので、下になっていた左肩が痛い。
後ろ手に拘束されていると、思っていた以上に動きが制限されてしまっていた。
とりあえず足は縛られていなかったのでうつ伏せになってみた。
埃っぽい床だけど、意外と冷たくて気持ち良かったりした。
おかげで少し頭がすっきりしてきた。
片足ずつ膝立ちになって、四つん這いのような格好になる。手が使えないから顔で体を支える形になった。首に体重がかかって痛いけど、我慢してなんとか身体を起こそうとした。
起き上がれそうで起き上がれない。
何度かチャレンジしたけれど、膝と首が痛くなって疲れただけだった。
黒い制服も埃で白っぽくなってしまった。
今度は仰向けに寝転がってみる。お尻の下に両手をいれて、足で何度か反動をつけて一気に起き上がる。
うまくいった。
「……ふう」
胡坐をかいて大きく一つ息を吐き出す。ここからがまた一仕事だ。
手が使えないだけでこんなにも苦労するのだと実感した。
改めて部屋を見回すと、薄い仕切りと壁とドアがある。どうやらここは塾か何かの建物のようだ。
電気はついていない。
こうして少し落ち着いて冷静に状況を確認してみると、どうやら僕は拉致されて誘拐されて監禁されてしまっているわけだ。
「やっぱり姫関係なんだろうな」
だけど今回の相手は姫乃関係でも鬼姫に敵対している連中なんだろう。じゃなきゃいくらなんでもこんな乱暴に扱われるわけがない。
姫乃と友達になるということは覚悟がいることはわかっていた。僕が狙われるかもしれない立場にいるということも教えてもらった。そしてそのことが、僕自身が姫乃の弱点になってしまう可能性についても話を聞いていた。
狙われる危険性について実はあまりピンと来ていなかった。でも忍に忠告されたばかりだから気をつけるつもりだったし、油断しているつもりもなかった。
でもまさかこんなに早いとは思いもしなかった。
さっそく掴まってどうするんだよ。
なんとか逃げ出さなければならない。
できれば姫乃に知られる前に自力で脱出したいところだ。
学校に姿を見せない僕のことを姫乃はきっと不審に思うはずだ。でも僕が一日以上気を失っていたわけじゃないのなら、もしかしたら体調が悪いだけだと思ってくれるかもしれない。
ここを抜け出して財布の中にある名刺を使って洋子さんに連絡さえ取れれば、姫乃に気が疲れないように処理してくれるはずだ。
立ち上がってドアへと向かう。
異様に身体が重く感じる。まるで自分の身体じゃないみたいだ。足もふらつくけれど、どうにかドアまではたどり着くことができた。
ラッキーなことに、カギはかかっていないようだった。
後ろを向いてドアノブを掴んで回そうとした時だ。
「なんだぁ?」
という驚きの声と共にドアが勢いよく開かれた。
ドアは内側に開くタイプだった。つまり僕は背中を思いっきり押された形になる。
たたらを踏んで転ぶのはこらえた。
何が起こったのか確認しようと振り向く前に、もう一度背中に衝撃がきた。
「うわっととぉおお」
今度はこらえきれずに転んでしまった。ちゃんとした受け身はとれなかったけれど、転がるように転んだからダメージは軽減できたと思う。
「大人しくしてくれなきゃ困るんだよね」
男の声が聞こえたと思ったら、右の腿に激痛が走った。
「……ッ!」
もう一度痛みが来る。足を抱えて転がりたいところだけれど、残念なことに手は自由に動かすことができない。
男がつま先で蹴りをいれる。
動きが不自由なせいで裂けることも逃げることもできなかった。
できるだけ身体を丸めて痛みを耐える。
痛すぎて声も出ない。
骨を折ったり打撃で相手を倒そうという蹴り方じゃない。ただ単に相手に痛みと苦痛を与えるための蹴り方だった。
ふくらはぎを踏みつけられる。
「こんなに早く気がついちまうなんて、スタンガンも案外たいした事ねえなあ」
と言ってまた一蹴りする。
なるほど僕はスタンガンの一撃をくらって気を失っていたようだ。
「やっぱ最大出力ってのでやりゃよかったんだよ。死んじまったってこっちは関係ねえんだからよ」
物騒なことを簡単に言ってくれる。けれど今の僕にはそれに言い返すだけの気力はなかった。ひたすら痛みに耐えるだけだ。
「まあ生きている方がこっちも都合がいいんだけどな」
男は足の裏で僕の肩を押す。
抵抗する力もなく僕は仰向けに転がった。
涙で視界がぼやけていた。瞬きをすると涙が目の端から流れてしまった。
泣いていると思われたくないけれど、涙を拭うこともできない。
男の姿が見えた。見覚えのない男だった。
にやけた表情を浮かべて僕を見下ろしている。
一言で説明するとすれば、ちゃらい男だった。よくテレビとかに出てくるガラと頭の悪いホストのような男だ。長めの茶色い髪の毛を後ろに流すようにセットして、耳にはいくつものピアスが並んでいた。光沢のあるスーツに黒いワイシャツで派手なネクタイを締めている。年齢は意外と若そうだ。指にごつい指輪をいくつもはめていた。
あの手で殴られたら痛そうだ。
ピカピカに磨かれた革靴は先がとがっていた。
なるほどあの靴で蹴られていたのか。通りで痛いはずだ。
怒りが込みあげてきて僕は男を睨みつけた。
「あぁん? なにその目つき。むかつくんですけど」
「グフッ!」
僕の態度がよっぽど気に入らなかったらしい。
脇腹に男の革靴が突き刺さった。
激烈な痛み、呼吸が止まる。息を吸い込むことも吐き出すこともできない。ただただつらくて鈍い痛みが内臓を伝わって腹部全体に広がっていく。
いい場所に一撃が入ってしまったようだ。悶えることしかできなかった。
再び涙があふれてくる。
苦しむ僕を男は笑いながら見ていた。
「おい! 早くビデオカメラ持ってこいよ!」
何を思ったのか男は部屋の外に向かって呼びかけた。
すると僕とあまり年が変わらなそうな少年がビデオカメラを片手に部屋に入ってきた。いかにも不良といった雰囲気の少年で、ニット帽と黒の革ジャンというスタイルだった。
男も不良の少年も迫力という点では、龍虎さんやシンさん、カツマ君たちと比べると数段劣る。格が違うのが見ていてわかる。まともにやりあったら絶対に相手にならない奴らだ。
もちろん姫乃の相手になるような連中ではない。
そんな奴らに拉致されて痛めつけられている自分が情けなかった。これでは姫乃をはじめとしていろんな人に迷惑をかけるばっかりだ。
不良少年もビデオカメラで僕を撮りながらニヤニヤと笑っている。
「さてと」
男は僕の顔を逆さに覗き込むようにしゃがみ込んだ。そして髪の毛を乱暴に掴まれたかと思ったら無理矢理顔を持ち上げられた。
くそう、禿げたらどうするんだ。
「は~い、鬼姫の彼氏ゲットしました!」
まるで記念写真を撮るような軽さだった。実際に記念写真なのかもしれない。わざわざ顔を並べるように近づけてきて、ビデオカメラに一緒に写っている。
ピースサインでもしそうな勢いだ。
「……僕は彼氏じゃないぞ」
首を折り曲げるきつい体勢のせいでうまく声が出ない。苦しげな声になってしまったけれどなんとかそれだけは言った。
「はあ? 嘘言ってんなよ」
まったく信じてない口調だ。やっぱり忍のいう通りらしい。
「こっちは調べがついてるわけよ。お前が鬼姫の男だって情報はしっかりつかんでるわけ。だから嘘ついたって無駄なわけよ。わかる? さてさて自分の男を痛めつけられて、鬼姫さんはどう思うかな? 怒り狂うか? それともよわっちい男に愛想を尽かすか?」
自分の所為だと泣くんじゃないかな。なんとなくだけどそう思った。
「どっちにしろあの鬼姫の奴に、この俺が、あの鬼姫にだぜ。ひと泡吹かせてやろうってんだから愉快でたまんないよな!」
馬鹿みたいに笑いながら男は掴んでいた髪を乱暴に離した。
急に支えがなくなって頭が床に激突する。
痛かった。痛かったけどそれ以上にムカついていた。
何か言い返してやろうと口を開きかけた時だった。
不良少年が間抜けに口を開けて唖然としている事に気がついた。構えていたビデオカメラが中途半端な高さで漂っている。
「おい、ちゃんと撮れよ。鬼姫に送ってやるんだからよ」
「……金田さん……こいつ、鬼姫の男なんですか?」
不良少年の顔にニヤニヤ笑いはもう浮かんでいなかった。声には怯えが混じっていた。
「言ってなかったっけ?」
「聞いてないっスよ!」
悲鳴だった。
今の今まで不良少年は僕が誰なのかわかっていなかったようだ。今も正確には把握しているとは言えないけれど。
鬼姫の男という表現は間違っているのだけど、訂正しても無駄かな。
それにしても拉致して監禁している相手のことも知らないのに、それを面白がってビデオカメラで撮影している神経がわからないぞ。
「ガキを拉致って痛めつけるだけっていってたじゃないですか?」
ついさっきまで男と一緒になって僕のことを馬鹿にしてたように眺めていた不良少年が、今では怯えた表情を浮かべていた。
「だからその通りじゃねえか」
金田と呼ばれた男は平然としている。
「でも相手が鬼姫だったら引き受けなかったッスよ」
「うっせぇな。てめえも薬を好きなだけやるっつたら喜んでたじゃねえか」
「そうですけど、でも……」
不良少年は今にも泣きそうな顔になっていた。
さすが鬼姫の名は伊達じゃない。
「いいかよく聞けよ。いくら鬼姫ったってこの場所はそう簡単にわかるわけがねえ。俺はこれからこいつを痛めつける。てめぇはそれをビデオに撮る。ここまではいいか?」
金田は不良少年の首に腕を回して諭すように語りかけた。
「てめえはビデオを撮るだけだ顔は映らない。こいつを殺しちまえば、誰もてめぇがここにいたなんてわからねえって。俺がこいつを痛めつけているところを撮影するだけで、てめぇもてめぇの仲間も好きなだけ薬が手に入るんだぜ。どうするよ?」
すっかり怯えていた不良少年だったのだけど、くるりという誘惑には逆らえなかったようだ。
金田の説得に頷いて再びビデオカメラを構えなおす。
「じゃ、じゃあこんなやつとっととシメちゃって、早いとこ逃げましょうよ」
とんでもないことになった。最初から非常事態だったけれど、これはマジで緊急事態だ。
「しょうがねえなぁ。ゆっくり痛めつけてやるつもりだったんだけどよ。つまんねえけど、サクッとヤッちまうか」
物騒すぎるセリフを吐いて金田はポケットからナイフを取り出した。
僕は金田から少しでも離れようと床を転がった。けれどもすぐに壁に行きついてしまう。
「くそっ! 冗談じゃないぞ」
とにかく時間を稼いで少しでも状況をよくしたかった。せめて立ち上がることができれば逃げ出すチャンスも生まれるかもしれないのだ。
腕を力いっぱい引っ張るけれど手錠の鎖はびくともしない。これが縄だったらもしかしたら解くこともできたかもしれないけれど、さすがに鉄製の手錠には歯が立たなかった。
金田は僕をいたぶるようにナイフをチラつかせながらゆっくりと近づいてくる。
壁に背中を預けるようにしてなんとか座ることができた。そこから立ち上がろうとしたのだけど、足を蹴られすぎたせいで力が入らなくてバランスを崩してしまった。
金田が近づいてくる。不良少年もビデオカメラを回して近づいてきた。
その時だった。
誰かが走って近づいてくる音が聞こえた。
ドアが勢いよく開け放たれた。
入ってきたのは新たな不良少年だった。
荒い息使いで部屋を見回す。目が完全に血走っていて、顔は青ざめていた。
「た、大変だ! 鬼姫が殴りこんできた!」
応援ありがとうございます!
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