ハイ拝廃墟

eden

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民家2②

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 洗濯物をベランダの物干し竿にすべて干したあと、洗濯カゴを脱衣場に戻しにいくと、洗濯機の前に靴下とシャツが散らばっていた。もともと白地だったはずの靴下のつま先が黒ずんでいる。そのサイズから、高校2年生の息子・裕喜ゆうきが出したものだとわかる。

 秋絵あきえは小さくため息をついて、空っぽにしたはずの洗濯カゴの中に靴下とシャツを入れた。

 あとでもう一回洗濯すればいいか。

 台所に戻ると、シンクの横に飲み終わったあとのペットボトルが5本並んでいる。お茶やジュースのラベルはついたまま、中身は少しずつ残ったまま。シンクの中には、いつ使ったのかわからないパン皿が3枚置いてある。

 これは、大学一年生の萌菜香もなかのしわざだ。今まで何度も、ペットボトルはラベルをはがして、洗って、透明な袋をつけたゴミ箱に捨ててって言っているのに。

 どうせ、部屋の中にペットボトルをため込んでいるのだ。そろそろ出さないとヤバいと思ったら、シンクの横に出してくる。そうしておけば、私がやると思って。

 秋絵はまたひとつ、ため息をついた。

 裕喜にしろ萌菜香にしろ、注意をしてもうざったそうに返事をするだけ。ひどいときは無視をして、さっさと自分の部屋に行って乱暴にドアを閉める。

 洗濯物は前日の夜に出しておいて。ペットボトルやお皿はきちんと洗って。そんな難しいことは言っていないつもりだ。

 だが、ささいなことでも注意をすると嫌がられる。なんとかわかってもらおうとすると、返ってくるのは、

「こっちだって部活で忙しい」

「バイトしてるから疲れてる」

「宿題が残っている」

「飲み会があって二日酔いなの」

そんな返事ばかり。とどめには、

「お母さんは仕事もしていないし、一日中家にいるでしょ。たくさん時間あるんだから、やってくれたっていいじゃない」

「今時専業主婦なんて珍しいよ。贅沢させてもらってるじゃん、家事くらい頑張りなよ」

と、言われる。

 一度や二度じゃない。

 お母さんは暇だから。掃除、洗濯、炊事、全部やって当たり前。洗濯を一日に二度、三度やることになっても、買い物に何回も出なくてはならなくなっても、ときに裕喜や萌菜香を学校まで車で送っても、少しも大変なことじゃない。暇だから。やれる範囲内でしょ。

 秋絵はペットボトルを片付けて、パン皿を洗った。

 ソファには、テレビをつけたままスマホをいじっている夫の秀喜ひできがいる。ソファの前のテーブルの上には、タバコの吸い殻が山のように溜まった灰皿がある。秋絵は小さくため息をついて、灰皿の中身を捨てようと、秀喜の隣にかがみこんだ。

 とっさに、秀喜はスマホを胸元に隠した。その動作が不自然にみえて、秋絵は「どうしたの?」と訊ねた。

「なんでもないよ。人のスマホを覗くなよ、家族でもプライベートの侵害だ」

「そんなもの覗いてないですよ。灰皿を片付けようとしただけです」

「ああ……」

 秋絵が灰皿を取り上げて、台所のゴミ箱に持っていこうとしたとき、秀喜のつぶやきが聞こえた。

「……ったく、驚かせやがって。灰皿くらい、あんなに溜まるまでに捨てればいいのに」

 だったら自分で捨ててくださいよ。

 秋絵は声を大にして言いたかった。けれども言えない。言ったところで返ってくる言葉は予想できている。

「そのくらい、お前の仕事だろ」

 外に働きに行っていないんだから。俺が飯を食わせてやっているんだから。

 そもそも、私が外に働きに出るのを嫌がったのは、秀喜のほうなのに。子どもの面倒をみるなんてできない、家事もやり方がまったくわからない。自分がしっかり稼ぐから、お前には家のことを全部任せたいって言ったから、私は家事育児に専念してきたのに。

 近所のスーパーで、同世代の女性がてきぱきとレジを打っていたり、商品を陳列していたりするのを見ると、若々しくていいなと思う。仕事には仕事の苦労があるだろう。自分にはわからないことがたくさんある。

 でも、うらやましい。

 自分が稼いだお金ではないからと、化粧品は百円均一ショップや格安のドラッグコスメでそろえて、服は10年前に買ったものをいまだに着ていて新しいものなんか買うことがない。ゴムの伸びたパンツに、サイズが合わなくなったブラジャー。誰に見せる予定もないから、不格好でも放っといている。

 美容院にも半年に1回行くかどうか。昨年、生理が止まった。特別な運動習慣もないからか、身体のあちこちに脂肪がついて、お腹は風船のように膨らんでいる。

 そんな自分を意識すると、むなしくなる。


 自分のことはいつも後回しで、娘と息子に与えられるものはすべて与えてきた。夫の要望にもできる限り答えてきたつもりだ。

 でも、どうして? だったらどうして、誰も私の話を聞いてくれないの? 家のこと、少しでも協力してくれないの?


 ふいに、秋絵は胸の下のあたりが痛くなった。強烈なめまいが襲い掛かってくる。気持ち悪い、吐き気もする。

 秋絵はなんとか灰皿を洗って、灰皿用のタオルで水気を拭きとり、秀喜の前のテーブルに戻した。ちらっと見えた秀喜は、なにやら嬉しそうにニヤニヤ笑っていた。

 いつもなら気になったかもしれない。だが、今はそれよりも気分が悪い。胸の下から、痛みが全身に広がっていく感覚。指先がジンとしびれる。

 秋絵はゆっくりと階段を上って、二階の寝室に入った。倒れるようにベッドに転がると、胸の下のあたりを押さえて、痛みが治まるのをじっと待った。

 ふいに、部屋のドアが開いた。

「母さん、いつまで寝てんの? 腹減ったんだけど」

 ノックもなしに入ってきたのは、息子の裕喜だった。秋絵は、「えっ」と驚いて、枕元の目覚まし時計を見た。

 午後18時20分。いつのまにか眠っていたらしい。

 買い物に行きそびれた。冷蔵庫の中に何が残っていただろうか。

「ごめん、ごめん。すぐ作るから」

「ったく、いつまで寝てんだよ。そんなんだから太るんだよ」

「……ごめん」

 まだクラクラする頭に裕喜の捨て台詞が直撃する。

 体調が悪かったの。

 そう、説明したかったけれど、言わなかった。

 家でゴロゴロしているだけなのに、体調が悪くなるとかあるの? なんて言われたら、今は立ち直る元気がない。

 秋絵は冷蔵庫のなかにたいしたものが残っていないことに気が付いた。裕喜は早く何か作れと言っているし、チャーハンとスープでいいか。

 冷蔵庫から小松菜と卵を取り出し、即席の中華風スープを作る。それから、昼ごはんに食べるラーメンに添えるチャーシューを使って、ネギとレタス、卵と合わせてチャーハンをささっと炒めた。

「晩御飯、できたよ」

 リビングのソファに座っている秀喜と裕喜を呼ぶと、二人ともスマホを持ったまま食卓についた。秀喜はチャーハンを見て言った。

「なんだ、今日は手抜きだな。せっかく休日なのに」

 だったら食べなくていいよ。

 そう言いたいのをこらえて、秋絵は両手を合わせて「いただきます」と言った。秀喜と裕喜は無言でスプーンを持ち、もくもくとチャーハンを口に運びながらスマホをいじっている。

「いただきます」くらい言ったらどう? 食事中くらいスマホはいじらないでよ。

 言いたい。でも、言ったところでどうなる? もう、こんな光景を見るようになって何年経つだろう。

 秋絵は自分の作ったチャーハンとスープの味がわからなかった。秀喜と裕喜は米粒ひとつ残さずきれいに食べて、無言でリビングに戻っていった。

「ごちそうさま」を最後に聞いたのも、いつだったか。

 秋絵はまたひとつ、小さくため息をついて、食器をシンクに運んだ。

 誰も見ていないテレビから、よく知らないお笑い芸人の笑い声が流れている。

「父さん、先に風呂入るよ」

「おー」

 ふと、そんなやりとりを聞いて、秋絵はハッとした。

「あ、ごめん、まだお風呂入れてない……」

 秋絵が言うと、裕喜は心底嫌そうな目で秋絵を見た。

「もー、いいよ。湯を入れるだけでいいんだろ?」

「ううん、今日はまだ浴槽洗ってなくて……」

「っはあ、だるっ! いいよ、もう。そんなたいしたことじゃねえし」

 裕喜は面倒くさそうに浴室に行った。

 たいしたことじゃない? じゃあ、毎日お風呂掃除してくれたっていいじゃない。私は毎日やっているんだよ。ちょっと体調悪くてできなかったからって、そんな態度取られなくちゃならないの?

 秋絵はいたたまれなくなった。ダイニングテーブルの前に一人座って、離れたところにあるテレビをぼんやり眺めていた。
 
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