偽りの婚約者だった私を捨てたあなたへ——今さら何のご用ですか?

usako

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第1話 婚約破棄の日、私は職も失った

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 その日、私は二度、同じ人に「すまない」と言われた。  
 一度目は、恋人として。  
 二度目は、上司として。  

 会議室の扉を閉じた瞬間、世界がきしむ音がした。  
 冬の夕暮れに沈むオフィスは、どこか無機質で、ファイルの紙の擦れる音すら冷たく響いた。  
 私の前に立つのは、婚約者だった男――佐伯隆臣。  
 穏やかな顔をしているくせに、瞳の奥には決意のような氷があった。

「沙耶、すまない。……この婚約、なかったことにしてほしい」

 一瞬、意味が分からなかった。  
 視界の中で、会議室の時計だけが止まらずに秒針を刻む。  
 音が遠ざかっていくのに、どうしてもその言葉だけは耳に焼きついて離れなかった。

「……どういうこと?」  
 声は自分のものと思えないほど小さく震えた。

 彼は、まるで事務処理でもするように、資料を閉じながら言った。  
「俺、他に好きな人ができたんだ。彼女と結婚する。だから、婚約は終わりにしたい」

「……誰?」  
「君のチームの後輩、山名君香」

 一瞬、呼吸を忘れた。  
 信じてきた時間が、紙の束みたいにばらばらと床に落ちていく。  
 君香。仕事で悩んでいたあの子に何度も相談に乗った。休日に彼女の誤字修正を手伝ったこともある。  
 まさか、その間に――。  

「……仕事のチームはどうするの?」  
「それなんだけど、君が担当してた案件、しばらく匠原グループの担当から外れてもらう。社としても……関係的にやりづらいだろうし」  

 その時私は初めて、彼がただの婚約者ではなく、直属の上司でもあることを思い出した。  
 そして、会社の力関係がどちらに傾いているかも。  
 苦笑いが漏れた。  
「つまり、プライベートでも、仕事でも、私は“不要”ってことね」  

 彼は目を逸らしながら、曖昧に笑った。  
「悪く思わないでほしい。君の能力は認めてる。だが、君香は営業部長の推薦もあるし、上の判断で――」

 その言葉の途中で、私は席から立ち上がった。  
「……いいわ。分かった。おめでとうございます」

 その瞬間、表情を崩さずに笑った自分を、今でも覚えている。  
 空気よりも冷たい笑みだった。  
 そして、それが私の社会人としての最後の笑顔になるとは思ってもいなかった。  

 翌朝、机の上には「人事異動のお知らせ」と書かれた封筒が置かれていた。  
 異動先は、本社から離れた下請け会社への出向扱い。実質的には左遷。  
 そしてその翌週、私は退職願を提出した。

 けれど退職の日、誰も見送りには来なかった。  
 受付で入館証を返すと、セキュリティゲートの音が「ピッ」と鳴り、仕事という名の鎖が私から外れる音に聞こえた。  
 外は小雨が降っていた。  
 真冬の東京の雨は、氷よりも冷たかった。  

 私は駅のホームで濡れたバッグを抱えながら、思い出していた。  
 彼と初めて出会った日のことを。  
 あの頃の私は、新卒で必死に仕事を覚えようとしていた。営業で数字を立てることが全てだと信じていた。  
 そんな私に、隆臣はいつも微笑んで教えてくれた。  
 “努力する君が好きだ”と。  
 その言葉を、信じて疑わなかった。  

 あの笑顔も、あの優しさも、全部嘘だったんだと思うと、胸の奥がきしむ。  
 でも、不思議なことに涙は出なかった。  
 泣くほどの価値すら、もう感じなかったのかもしれない。  

 電車のドアが閉まる時、窓の外に見覚えのある横顔が見えた。  
 ビルのロビーからこちらを見ている隆臣がいた。  
 横には君香が寄り添い、幸せそうに笑っている。  
 まるで絵に描いたような成功者の構図。  

 ――いい。思い知ればいい。  
 その幸せが私を踏みにじって得たものだと、いつか後悔する日が来る。  

 電車が走り出す。  
 私は静かにスマホを取り出し、未送信のメールを開いた。  
 それは、以前応募していた地方ベンチャー企業からの「面接可能です」という返信。  
 期限は今日まで。  
 迷う理由はなかった。  

 電車の揺れの中で、私は新しい名前を打ち込む。  
「東京アークシステム株式会社」  
 IT分野の中小企業。大手から見れば、取るに足らない存在かもしれない。  
 でも、そこから始めてみたかった。誰にも支配されない、自分自身の足で立つ人生を。  

 駅に到着する頃、降りしきる雨が雪に変わっていた。  
 冷たさを感じながら、それでも不思議と前を向けた。  
 過去を失った分、未来だけが真新しい白紙のように感じた。  

 私はバッグを握り直し、小さく息を吐いた。  
「もう二度と、“誰かの都合のいい女”にはならない」  

 その決意が、胸の奥で小さく灯った。  
 それが、私の新たな人生の始まりだった。  

(続く)
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