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第11話 都にひそむ影
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夜明けの空の下、リオンたちは王都を離れ、西方へ向かう街道を走っていた。焦げた瓦礫が転がる街の外縁には、黒竜の咆哮の名残がかすかに響いている。遠ざかる城の塔はまだ煙を上げ、赤黒い雲がその上で渦を巻いていた。リオンは馬の手綱を握りしめ、背後を一度も振り返らなかった。もう戻る場所ではない――その事実を胸の奥で押し殺しながら。
リナが道の先を指差した。「日の入りまでに“風切りの谷”にたどり着ければいいけど…あの様子だと嵐の気配がするわ。」
「構うもんか。」カイルが短く笑った。「黒竜に比べりゃ風なんて涼しいもんだ。」
リオンもわずかに口角を上げたが、その表情には影が落ちていた。黒竜ヴェルトの姿が、頭の奥に焼き付いて離れなかった。あの目、あの声。怒りでも憎しみでもなく、ただすべてを見透かしているような静かな力。あれを止める術を、今の自分はまだ持たない。
「リオン。」リナが声をかける。「あなた、眠れていないでしょう。竜の気配を感じ取る力を強めすぎてる。放っておくと心を侵されるわ。」
「心を?」
「シェリアの加護があっても、強い竜気は人の意識を溶かすの。光であれ闇であれ、過ぎれば滅びになる。」
カイルが口にくわえていた短い草を吐き捨てた。「なんにせよ、まずは情報だ。黒竜を追う前に、次の町で情報を集めよう。あのリゼルの手下どもが動いてるはずだ。」
三人が辿り着いたのは、王都から半日ほど離れた港町アルメリアだった。街を囲む防壁は半ば壊れ、あちこちに避難民の天幕が並んでいた。香辛料と魚の匂いが入り混じり、港には沈んだ船が二隻、波間に浮いている。戦の影がこの町にも忍び込んでいた。
道端で壊れた剣を磨いている兵士、静かに祈る修道女、そして顔を隠した行商人。誰もが疑心を抱き、誰もが何かを恐れている。
宿を見つけたとき、女主人が二人を警戒するように見た。「旅人なら夜明けに出ていきな。今この町は危ない。昨夜から“影の疫病”が出てるんだよ。」
「影の疫病?」リナが首を傾げると、女主人は声を潜めた。
「見るんだよ。夢の中で立つ黒い人影を。それを見ると、次の日には身体が動かなくなる。魂を抜かれたようにね。」
カイルが腕を組んだ。「リゼルの仕業か……」
リオンは黙って宿代を払い、部屋の鍵を受け取った。
夜。潮の音が窓の外から聞こえる。リオンは机に短剣を置き、窓辺に腰を下ろして外を見た。港に浮かぶ灯の向こう、夜空には薄く赤い月が見える。
「また月が赤い……」
その光に見入っていると、不意に耳の奥で声がした。
――リオン、呼んでいる者がいる。
「シェリアか?」
――違う。お前の過去を知る者。港の南端、“沈んだ鐘楼”へ行け。
リオンは剣を手に立ち上がった。物音に気づいたリナが目を開く。「どこへ行くの?」
「呼ばれてる。確かめてくる。」
「待って。罠かもしれない。」
「大丈夫だ。誰が敵でも、もう逃げない。」
波の音が強くなる中、リオンは港の南端を目指した。錆びた鐘楼は倒れかけており、半分が海に沈んでいる。足元に波が打ちつけ、潮に混じる鉄の匂いが鼻を刺す。その中に、人影がひとつ立っていた。フードをかぶり、白い杖を持つ男だった。
「お前が……俺を呼んだのか?」リオンが問うと、男はゆっくり顔を上げた。灰色の瞳が月光を反射して冷たく光る。
「久しいな、ルシエル。」その声は懐かしい響きを含んでいた。
「その名で呼ぶな。俺はリオンだ。」
「そうか。ならば名を正そう。私は“賢導の聖”フィアル。かつてお前の側で知を授けた者だ。」
リオンは目を見開いた。脳裏にひとつの記憶が蘇る。かつて王だった頃、戦の前夜にひとりの賢者が現れ、竜の契約書を差し出した。『滅びを避けたければ、この約定を結べ』と。
「お前が……あの時、蒼き契約を記した者か。」
「記したのは竜たちだ。私はそれを人に伝えただけ。だが滅びの原因は、お前が誓いを破ったことにある。そして今、黒竜ヴェルトが再び目覚めてしまった。」
潮の音が間を埋める。フィアルは杖を海面に突き立て、波の先を見据えた。「黒竜の目覚めは世界の裂け目を開く。全ての“影”が溢れ出し始めている。ルディアンの空を覆ったあの黒雲は、始まりにすぎん。」
「だから俺は止めると言ってる!」リオンが声を荒げる。
しかしフィアルは静かに首を振った。「お前の光は強すぎる。滅びをも照らす炎だ。黒竜を倒せば、光もまた自らの身を焼く。」
「どういうことだ。」
「滅びの王の魂と黒竜の魂は表裏一体。お前が異なる名で生まれても、その核は同じ。黒竜を討てば、お前もまた消える。」
リオンの呼吸が止まった。遠くで波が岩を打ち、白い飛沫が闇に散る。
「それでも構わない。誰かがやらなければ、また全部が失われる。」
フィアルは微かに微笑んだ。「……やはりお前は変わらぬ。だがそれが救いとなるか、滅びを完成させるかは分からぬ。」
彼は杖を動かし、波間に光を描いた。海面に浮かぶ光の紋が、円を描いて消えていく。
「“叡智の湖”へ向かうのだろう。その地で真の契約の頁が開かれる。だが選べ、リオン。世界を救うか、己を救うか。両方は存在しない。」
風が強まり、波が鐘楼を打つ。フィアルの姿は霧のように薄れ、やがて潮の中に溶けた。残されたのは淡い光の粒だけだった。リオンは拳を握り、その光を手の中に感じ取った。
背後でカイルの声がした。「……ずいぶん遅い夜の散歩じゃないか。」彼とリナが心配そうに立っていた。
「誰と話してたの?」リナの瞳が揺れる。
「……過去の亡霊さ。でも、大事なことを聞いた。」リオンは空を見上げる。「俺が黒竜を斬れば、この命も消えるらしい。」
リナの顔色が変わった。「そんな……そんな運命、受け入れるつもり?」
「運命なんてどうでもいい。救えるなら、それでいい。」
「あなたはいつもそうやって、自分を犠牲にしようとする……」リナの声は震えていた。
カイルが肩をすくめる。「ならオレたちが止めるさ。お前の命も、世界も、両方救う。それが仲間ってもんだろ。」
リオンはしばらく二人を見て、口元に微笑を浮かべた。「ありがとう。けど、止めろとは言わない。俺が本当に消える時は――それでも笑って見送ってくれ。」
リナの瞳に光が宿った。「そんな未来、最初から選ばせないわ。」
月が雲の切れ目を照らし、波に線を描く。港の先には、西方への道が続いている。風が三人の髪をなびかせ、微かな鐘の音がどこからともなく響いた。
「行こう。“叡智の湖”へ。」
リオンの声は夜の風に溶け、港の闇を超えて流れた。
その足音の背後で、沈んだ鐘楼の奥底に眠る影がゆっくりと目を開けた。赤い光が水底に浮かび、わずかに微笑む気配があった。
「ルシエル……また輪の時が来た。」
波が静かに音を立て、都市アルメリアの夜は深く沈んでいった。
(続く)
リナが道の先を指差した。「日の入りまでに“風切りの谷”にたどり着ければいいけど…あの様子だと嵐の気配がするわ。」
「構うもんか。」カイルが短く笑った。「黒竜に比べりゃ風なんて涼しいもんだ。」
リオンもわずかに口角を上げたが、その表情には影が落ちていた。黒竜ヴェルトの姿が、頭の奥に焼き付いて離れなかった。あの目、あの声。怒りでも憎しみでもなく、ただすべてを見透かしているような静かな力。あれを止める術を、今の自分はまだ持たない。
「リオン。」リナが声をかける。「あなた、眠れていないでしょう。竜の気配を感じ取る力を強めすぎてる。放っておくと心を侵されるわ。」
「心を?」
「シェリアの加護があっても、強い竜気は人の意識を溶かすの。光であれ闇であれ、過ぎれば滅びになる。」
カイルが口にくわえていた短い草を吐き捨てた。「なんにせよ、まずは情報だ。黒竜を追う前に、次の町で情報を集めよう。あのリゼルの手下どもが動いてるはずだ。」
三人が辿り着いたのは、王都から半日ほど離れた港町アルメリアだった。街を囲む防壁は半ば壊れ、あちこちに避難民の天幕が並んでいた。香辛料と魚の匂いが入り混じり、港には沈んだ船が二隻、波間に浮いている。戦の影がこの町にも忍び込んでいた。
道端で壊れた剣を磨いている兵士、静かに祈る修道女、そして顔を隠した行商人。誰もが疑心を抱き、誰もが何かを恐れている。
宿を見つけたとき、女主人が二人を警戒するように見た。「旅人なら夜明けに出ていきな。今この町は危ない。昨夜から“影の疫病”が出てるんだよ。」
「影の疫病?」リナが首を傾げると、女主人は声を潜めた。
「見るんだよ。夢の中で立つ黒い人影を。それを見ると、次の日には身体が動かなくなる。魂を抜かれたようにね。」
カイルが腕を組んだ。「リゼルの仕業か……」
リオンは黙って宿代を払い、部屋の鍵を受け取った。
夜。潮の音が窓の外から聞こえる。リオンは机に短剣を置き、窓辺に腰を下ろして外を見た。港に浮かぶ灯の向こう、夜空には薄く赤い月が見える。
「また月が赤い……」
その光に見入っていると、不意に耳の奥で声がした。
――リオン、呼んでいる者がいる。
「シェリアか?」
――違う。お前の過去を知る者。港の南端、“沈んだ鐘楼”へ行け。
リオンは剣を手に立ち上がった。物音に気づいたリナが目を開く。「どこへ行くの?」
「呼ばれてる。確かめてくる。」
「待って。罠かもしれない。」
「大丈夫だ。誰が敵でも、もう逃げない。」
波の音が強くなる中、リオンは港の南端を目指した。錆びた鐘楼は倒れかけており、半分が海に沈んでいる。足元に波が打ちつけ、潮に混じる鉄の匂いが鼻を刺す。その中に、人影がひとつ立っていた。フードをかぶり、白い杖を持つ男だった。
「お前が……俺を呼んだのか?」リオンが問うと、男はゆっくり顔を上げた。灰色の瞳が月光を反射して冷たく光る。
「久しいな、ルシエル。」その声は懐かしい響きを含んでいた。
「その名で呼ぶな。俺はリオンだ。」
「そうか。ならば名を正そう。私は“賢導の聖”フィアル。かつてお前の側で知を授けた者だ。」
リオンは目を見開いた。脳裏にひとつの記憶が蘇る。かつて王だった頃、戦の前夜にひとりの賢者が現れ、竜の契約書を差し出した。『滅びを避けたければ、この約定を結べ』と。
「お前が……あの時、蒼き契約を記した者か。」
「記したのは竜たちだ。私はそれを人に伝えただけ。だが滅びの原因は、お前が誓いを破ったことにある。そして今、黒竜ヴェルトが再び目覚めてしまった。」
潮の音が間を埋める。フィアルは杖を海面に突き立て、波の先を見据えた。「黒竜の目覚めは世界の裂け目を開く。全ての“影”が溢れ出し始めている。ルディアンの空を覆ったあの黒雲は、始まりにすぎん。」
「だから俺は止めると言ってる!」リオンが声を荒げる。
しかしフィアルは静かに首を振った。「お前の光は強すぎる。滅びをも照らす炎だ。黒竜を倒せば、光もまた自らの身を焼く。」
「どういうことだ。」
「滅びの王の魂と黒竜の魂は表裏一体。お前が異なる名で生まれても、その核は同じ。黒竜を討てば、お前もまた消える。」
リオンの呼吸が止まった。遠くで波が岩を打ち、白い飛沫が闇に散る。
「それでも構わない。誰かがやらなければ、また全部が失われる。」
フィアルは微かに微笑んだ。「……やはりお前は変わらぬ。だがそれが救いとなるか、滅びを完成させるかは分からぬ。」
彼は杖を動かし、波間に光を描いた。海面に浮かぶ光の紋が、円を描いて消えていく。
「“叡智の湖”へ向かうのだろう。その地で真の契約の頁が開かれる。だが選べ、リオン。世界を救うか、己を救うか。両方は存在しない。」
風が強まり、波が鐘楼を打つ。フィアルの姿は霧のように薄れ、やがて潮の中に溶けた。残されたのは淡い光の粒だけだった。リオンは拳を握り、その光を手の中に感じ取った。
背後でカイルの声がした。「……ずいぶん遅い夜の散歩じゃないか。」彼とリナが心配そうに立っていた。
「誰と話してたの?」リナの瞳が揺れる。
「……過去の亡霊さ。でも、大事なことを聞いた。」リオンは空を見上げる。「俺が黒竜を斬れば、この命も消えるらしい。」
リナの顔色が変わった。「そんな……そんな運命、受け入れるつもり?」
「運命なんてどうでもいい。救えるなら、それでいい。」
「あなたはいつもそうやって、自分を犠牲にしようとする……」リナの声は震えていた。
カイルが肩をすくめる。「ならオレたちが止めるさ。お前の命も、世界も、両方救う。それが仲間ってもんだろ。」
リオンはしばらく二人を見て、口元に微笑を浮かべた。「ありがとう。けど、止めろとは言わない。俺が本当に消える時は――それでも笑って見送ってくれ。」
リナの瞳に光が宿った。「そんな未来、最初から選ばせないわ。」
月が雲の切れ目を照らし、波に線を描く。港の先には、西方への道が続いている。風が三人の髪をなびかせ、微かな鐘の音がどこからともなく響いた。
「行こう。“叡智の湖”へ。」
リオンの声は夜の風に溶け、港の闇を超えて流れた。
その足音の背後で、沈んだ鐘楼の奥底に眠る影がゆっくりと目を開けた。赤い光が水底に浮かび、わずかに微笑む気配があった。
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波が静かに音を立て、都市アルメリアの夜は深く沈んでいった。
(続く)
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