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2巻
2-1
しおりを挟む第一章 学祭に行くのです
すっきりと晴れ渡った秋空に、明るい茶色の煉瓦で造られた『楽園』の学舎がよく映えている。
ほんの少し前までは、彼女――ヴィクトリア・コーザもここに集う生徒の一員で、毎日見ていた校舎。にもかかわらず、なんだかまるで見知らぬ場所のように感じる。不思議なものだ。
それは学内のあちこちに、祭りらしい華やかな飾りが施されているせいだろうか。あるいは、普段は若い男子生徒しかいない場所に、老若男女――おそらく生徒の家族が、大勢訪れているせいだろうか。
いつもとは比べものにならないほど人がいるが、広大な敷地を持つ『楽園』に窮屈感はない。
(そういえば、はじめて見たときにはあんまり立派な学校で、びっくりしたなー)
ヴィクトリアがこの国立魔導具研究開発局附属の全寮制魔術専門学校――通称『楽園』に入学したのは、今年の春のこと。
南の田舎町で生まれ育った彼女は、母を亡くして天涯孤独の身になった。そのため、仕事を求めてこの皇都にやってきたのである。そして、『学費・食費・宿代すべてタダ』で通える魔術学校があると耳にした。そこは男子生徒しかいない学校らしく、彼女は少年に見えると太鼓判を押されたショートカットに伊達眼鏡の姿で、『楽園』にもぐりこんだ。
今思えば、かなり無鉄砲な行動だった。しかし、なんのコネもなく頼る人もいない身の上では、それ以上にいい選択などなかったのだ。
入学してわかった『楽園』の実態は、皇国軍士官候補生育成機関。その授業と訓練は、ヴィクトリアの想像を遙かに超えるものだった。
ヴィクトリアは魔導具に関する基礎知識を、田舎町で小さな家庭用生活魔導具店を営んでいた母から学んでいた。そのため、座学に関してはさほど苦労しなくて済んだ。
しかし、生まれてこのかた、ど突き合いの喧嘩などしたことはない。彼女は厳しすぎる体術の授業で、死ぬ思いをしたものだ。わがまま放題な皇太子殿下の暗殺未遂事件に巻きこまれたり、武術大会で対戦した脳筋の先輩、オリヴィアに容赦なく叩きのめされたり、大変なこともあった。
そんなことさえ懐かしく思い出せるのは、『楽園』で過ごす間に出会った人々のおかげだろう。
その筆頭が、ここの生徒たちを束ねる寮長のリージェス・メイア。彼は、ヴィクトリアが実は少女だとわかってから、ずっと陰ひなたになって助けてくれている。
彼の幼馴染みで親友のシャノン・ラングも、ヴィクトリアの味方のひとり。シスコンでちょっぴりメルヘンな思考回路の持ち主で、そこが少々残念ではあるが、とても愉快な青年だ。
はじめての友達ランディ・シンとは、『可愛いもの好き』として気が合った。彼は、ヴィクトリアが女の子だと知ってからも、以前と変わらない態度で接してくれる。
ヴィクトリアはできることならきちんと『楽園』を卒業して、いずれは故郷で母のように生活魔導具店を営みたかった。しかし、シャノンの祖父で、かつてこの皇国の英雄と呼ばれていたヨシュア・ラングとの出会いが、ヴィクトリアの人生を大きく変えてしまった。
彼いわく、ヴィクトリアの持っていた母の形見は、このギネヴィア皇国の先代皇帝第一皇女シャーロット・ローズ・ラナ・ギネヴィアのものだとか。その上、ヴィクトリアの顔立ちは、シャーロット皇女殿下に瓜二つなのだという。
シャーロット皇女殿下は、二十年前の戦の最中に行方不明となった。
おまけにヴィクトリアの髪色は、父親譲りの銀。髪色に銀が現れるのは、その戦争の敵であった北の大国セレスティアの人間の特徴らしい。
母が皇女殿下だったなら、どうして皇都から遠く離れた田舎町で細々と暮らしていたのか。ヴィクトリアの亡き父と、どういう経緯で結ばれたのか。疑問は尽きないが、亡き母『ロッティ・コーザ』が本当に『シャーロット皇女殿下』であったのかについては、現在ヨシュアが調査中である。ヴィクトリアは彼に自分の性別を明かした途端、『楽園』からの退学を命じられた。そして、ラング家の屋敷で世話になることになったのだ。
あまりに想定外すぎる状況の変化に、ヴィクトリアはちょっぴりノイローゼになりかけてしまった。しかしリージェスの励ましで、どうにか立ち直れた。
そして今日、ヴィクトリアがランディに誘われてやってきたのは、『楽園』の学祭である。
(おぉ……すごい。あの着ぐるみの完成度は、もはや職人の域に達していると思います)
馬車で『楽園』の門前に降り立った瞬間、動物の着ぐるみたちの姿がヴィクトリアの目を引いた。
おそらく、上級生たちが作った魔導具で、中に生徒が入っているのだろう。
巨大でいかにも重そうな見た目だが、子どもたちに愛嬌を振りまいている姿は、実にコミカルかつ機敏である。外見だけでなく、使用者の運動補助性能にもかなりこだわっているようだ。
(……いや、あの動きは性能効果じゃなく、中身がただの脳筋である可能性も――と思ったら!)
三体揃って肩を組み、楽しげにラインダンスを踊っていた着ぐるみが、跳んだ。それはもう、その場にいた人々がみんな天を仰ぐほどの高さまで。子どもたちは大きな歓声を上げた。
そして着ぐるみたちは、同時に空中できれいに一回転。見事に呼吸を揃えて着地すると、やけにスタイリッシュなポーズをびしっとキメる。
――拍手喝采。
もちろんヴィクトリアも、彼らに惜しみない拍手を送った。
こんなふうに見知らぬ人々とも一体感を味わえるのが、お祭りの一番素敵なところだと思う。
そのとき、背後からやんわりと声をかけられた。
「リアさま。もうじき、リージェスさまとお約束したお時間ですよ」
ヴィクトリアは、ぴょっと跳び上がる。
「も、申し訳ありません、モーガンさま!」
着ぐるみたちの見事なパフォーマンスに見とれて、時間を忘れてしまっていた。
今日、ヴィクトリアを『楽園』まで連れてきてくれたのは、この背が高い壮年の男性。夏の休暇中にメイア家の別荘で散々お世話になった、執事のモーガンである。
――ヴィクトリアがラングの屋敷の外へ出る際には、ヨシュアの命で必ず護衛を兼ねた付き添いがつけられる。
しかし、よく知らない相手と気詰まりな時間を過ごすのは、かなり遠慮したいものだった。
何しろ、ラング家の護衛はきっちりと訓練されているらしく、仕事中はものすごく寡黙なのだ。
ヴィクトリアが話しかけてみても、『プロというのは、護衛中に余計なおしゃべりなどしないのですッ』といわんばかりに、必要最低限のことしか答えてくれない。
そんな中で、ラング家の令嬢ミュリエル付きの若い女性だけは、めげずに話しかけ続けたためか、最近少しずつ話をしてくれるようになってきた。できればヴィクトリアは、彼女に学祭に付き添ってもらいたかった。
だが、季節の変わり目のせいか、ミュリエルはこのところ体調を崩して臥せりがちだ。
そんな彼女に、『ちょっと楽しいお祭りに遊びにいきたいので、アナタの付き添いの女性に一緒に来ていただきたいのです』なんて言えるはずもない。
――『楽園』の学祭にはぜひとも行きたい。でもラング家の厳めしい付き添いと一緒なのは、なんだかいやだ。
そう思ったヴィクトリアは、現在ラング家で一番発言権のありそうなシャノンにおうかがいを立ててみた。『ひとりで〝楽園〟のお祭りに行ってはダメですか?』と。
その返事はもちろん、『却下』。
しかしシャノンは、ヴィクトリアがラング家の護衛との行動に気詰まりを感じていることを察してくれたらしい。彼はすぐにリージェスに掛け合って、ナイスミドルなモーガンに付き添いをしてもらえるよう、手配してくれたのだ。
ヴィクトリアは、シャノンとリージェスに心から感謝した。
シャノンへのお礼として、今度新しい魔導石ができたらミュリエル用の白い仔猫の魔導具を作ってプレゼントしようと思う。シスコンの彼にとって、きっとミュリエルの笑顔が一番の喜びだろう。
ただ、問題なのは――
(リージェスさまへのお礼となると、もう何を渡したらいいのかさっぱりです!)
――リージェスの喜びのツボは、完全に謎だった。
ヴィクトリアなりに懸命に頭を捻ってみたのだが、何しろ相手は皇国軍の双璧のひとつである裕福な伯爵家の跡取り息子。
自分に用意できる魔導石では、シャノンの魔導石で作ったような高性能の魔導具は、とてもじゃないが作ることなどできない。所持している小金で購入できるものだって、たかが知れている。
痛くなるほど頭をぐるんぐるんと使って悩みまくり、ヴィクトリアは結局、リージェスの親友と素敵な執事に相談してみることにした。学祭の数日前、ミュリエルの見舞いのために帰宅したシャノンと、ちょうどそのとき挨拶にきていたモーガンに。
リージェスの好みをこの世で最も理解しているはずのふたりだ。きっといいアドバイスをくれると思ったのである。
しかし、彼らから返ってきたのは、なぜか非常に生温かいほほえみだった。
『あー……。おまえからもらえるモンなら、なんでも大喜びするんじゃねーの? つーかもう、おまえらめんどくせーから、ほっぺにちゅーのひとつでもかましてこい! オレが許す!』
モーガンは、そっと目頭を押さえた。
『シャノンさま……。すっかり大人になられて……』
『うん。青春の一ページがどどめ色に塗りつぶされた挙げ句、オレがひとり寂しく大人の階段を上ったのが誰のおかげかは、とりあえずツッコまないでおくな。モーガン』
そのときのシャノンの笑顔は目がまるで笑っていなくて、ちょっと怖かった。
何か、いやなことでもあったのだろうか。
それにしても、とヴィクトリアは首を捻った。故郷では、キスは家族やよほど親しい間柄でなければしないもの。だが、皇都では感謝の気持ちを伝える行為に当たるらしい。
こんなことで、田舎と皇都の文化の違いを感じるとは思わなかった。
ヴィクトリアがそう口にすると、ふたりはなぜかひどく青ざめ、慌てたように言った。
『ままま待て待て待てー! そうじゃないからな!? おまえ、誰彼かまわずありがとうのちゅーとかしはじめるんじゃねーぞ!?』
『リアさま……。ミュリエルさまがシャノンさまに感謝のキスをされるのは、おふたりが仲のよいご兄妹であるため。妙齢の女性が、軽々しく男性にキスをしたりするものではございません』
ふたりの言葉に、ヴィクトリアは『そうなのですか』とうなずいた。
シャノンは『感謝の気持ちを伝えるために、リージェスのほっぺにちゅーをしろ』と言った。そして、感謝のキスはミュリエルとシャノンのように仲よしの兄妹の間で交わされるものだという。
ならば、リージェスは自分を妹のように思ってくれているのだろうか、とつぶやいたとき――
ヴィクトリアは久しぶりに、がっしとシャノンに頭を鷲掴みにされた。ちょっと痛かった。
『……うん。悪かった。オレが悪かったから、過去三分間の会話はすべて忘れろ。リージェスはおまえを妹扱いしているわけじゃねぇし、何か礼をしてほしいと思ってるわけでもねえ。ふつー に! にっこり笑って、ありがとうって言っとけ。な?』
『申し訳ございません、シャノンさま。私としたことが……危うく、リアさまに誤解をさせてしまうところでした。このモーガン、一生の不覚にございます』
なぜか蒼白になったモーガンに、シャノンはふっと遠いどこかを見ながら言った。
『気にするな。どんなことにも、想定外だとか勘違いだとか、見当違いとかいうのはあるもんだ』
『シャノンさま……。本当に、大人になられて……』
ヴィクトリアはそのやりとりを聞いて、ふたりはとっても仲よしさんなのだな、と思った。
そんなわけで結局、ヴィクトリアはリージェスに感謝の品を用意できなかった。手元不如意なものは、もう仕方がない。出世払いということで勘弁してもらおう。
そう自分を納得させて、ありがたくモーガンに付き添っていただくことにした。
次の問題は、リージェスの隣を歩くための装いである。
ヴィクトリアの衣服は今、すべてラング家から提供されている。それらはどれも上流階級仕様できらきらしていて、着こなし方がいまだによくわからない。
途方に暮れたヴィクトリアがモーガンに相談すると、彼はにっこり笑い、即座に部下のメイドさんたちを呼び寄せた。
優秀なメイドさんたちが選んでくれたのは、淡いラベンダー色のドレス。そしてそれに合わせた手袋や靴、コートに至るまで、ばっちりとコーディネートしてくれたのだ。
今日の支度では、ふんわりと毛先をカールさせたカツラを可愛らしい形に結い上げ、顔にはほんのりと薄化粧を施してくれた。そして、きれいに化けた自分の姿を鏡の前で確認したヴィクトリアは、これは立派な詐欺師を名乗れるかもしれないな、と思った。
メイドさんたちは揃って、『ぜひ、リージェスさまのご感想を聞いてきてくださいね!』と言っていた。
内心ぐっと親指を立てながら、ヴィクトリアはうなずいた。ここまできっちり化けていれば、リージェスはきっと『詐欺だ』と言ってくれるだろう。
ここに至るまでのあれこれを思い出しながら、ヴィクトリアはモーガンと『楽園』中央校舎前の広場へ向かう。そこで、祭りを案内すると約束してくれたリージェスと待ち合わせているのだ。
途中、あちこちに設営された屋台に目を向ける。愉快な扮装をした生徒たちが客の呼びこみ中だ。
「――リアさま」
「はい?」
生徒たちの姿を興味深く眺めていると、穏やかな声でモーガンに呼びかけられた。ヴィクトリアは、ぱっと笑みを浮かべて顔を上げる。
「『楽園』を退学されたのは、リアさまにはさぞ残念なことだったでしょうが……。正直なところを申し上げれば、私どもは、ほっといたしましたよ」
「えぇと……。どうしてですか?」
ヴィクトリアが首を捻ると、モーガンは苦笑した。
「リアさまはご存じなかったかもしれませんが、『楽園』では二年生になると、野外戦闘訓練実習というものがございます」
「……野外戦闘訓練実習?」
名前を聞いただけで、ものすごくいやな感じがする。
「リージェスさまから、以前うかがいました。それは五人一組でチームを組み、携帯食料と最低限の装備――といっても、おそらくかなりの重量になることでしょう。それらを背負って、森の奥深くに入る実習だそうです。その森には『楽園』の教師陣が山ほどトラップを仕掛けているのだとか。そこからできる限り多くのチームを倒して相手の持つポイントを奪いつつ、二週間以内に脱出する、というとても過酷なものだったそうです」
それを聞いてヴィクトリアは青ざめた。モーガンが厳かにうなずく。
「ヨシュアさまは、そういった『楽園』の過酷さをよくご存じでいらっしゃいますから。リアさまのことを知られて、さぞ狼狽されたのだと思います。武術大会では、ひどいおけがもされたようですし……。多少強引なところはおありかもしれませんが、あの方はそうそう理不尽なことをなさる方ではございませんよ」
ヴィクトリアは、つくづく自分は『楽園』を甘く見ていたのだな、と改めて痛感した。
そして、潔くこの場所への未練を断ち切ることにする。
幸い、ヴィクトリアの魔導具作りのスキルは、周囲の人々もきちんと評価してくれている。
やっぱり自分はシャーロット皇女殿下の子どもではありませんでした、という話になったとしても、心配はない。身分がものを言うこの国でヴィクトリアが魔術師になれるように、成年後は、リージェスが後ろ盾になってくれるらしい。彼女がきちんと食べていける力をつけるまで、きっと援助してくれるだろう。
……そう考えると、現在ラング家で受けている将来役に立つかどうかがまったく不明なレディ教育は、やはり不要に思える。それよりも、確実な生活力に繋がる魔導具に関する知識を、もっと身につけた方がいいのではないか。
ヴィクトリアは、ぐっと拳を握りしめた。
(ぃよしッ! わたし、ヴィクトリア・コーザはただいまをもって、将来の目標設定を少々変更いたします! 田舎に帰って小さな魔導具店を開き、ゆくゆくはいいひとのお嫁さんに、なんてことはもう言いません! 目指すは、人気生活魔導具職人! 皇都のお高い家賃もきっちり払えるくらいに、ガンガン稼げるようになります!)
魔導具の素体となる魔導石は、専門の業者から仕入れることができる。
今までこの皇都で見て回った魔導具店では、性能とデザイン性にすぐれた魔導具であれば、割高なお値段設定でも飛ぶように売れていた。これからしっかり勉強とリサーチを重ねていけば、人気生活魔導具職人になるというのは、さほど無謀な夢ではないはずだ。その上、ヴィクトリアには、伯爵家の跡取りであるリージェスの後ろ盾がついている。
そしていつか商売が軌道に乗った暁には、それまでお世話になったすべての人々に、できる限りの技術を詰めこんだ素敵な魔導具をプレゼントするのだ。
――受けた恩義は、倍にして返すべし。
亡き母の遺した、ありがたい教えのひとつである。
(ふっふっふ……。リージェスさま、このご恩は一生忘れませんからね! 今後リージェスさまがどれほど複雑な魔導具をお望みになっても、ご期待にばっちり応えることのできるものを作れるようになってみせますとも! もちろんタダで! ……いえ、できれば素体となる魔導石だけは、ご自分で作られたものを提供していただけるとありがたいです)
魔導石のことを考えると、己の魔力保有量の低さがつくづく恨めしい。魔力持ちの人間が石を持っていると、石が魔力を吸収して魔導石になる。しかし、魔力保有量の少ない人間が石に魔力を吸わせるには時間がかかるし、それほど純度の高いものも作れない。
ヴィクトリアが本当に皇族直系『シャーロット皇女殿下』の子どもなら、もうちょっとどうにかなっていてもいいではないか。
もちろん、親の魔力保有量が高いからといって、子どもが同じだけの魔力保有量を持って生まれるわけではない。それはわかっていても、母の肩書きを考えると世の中の不条理に憤りたくなる。
しかし、今日は楽しい学祭だ。めんどうなことはひとまず忘れて、全力で楽しもう、と思ったときである。
ヴィクトリアは、ふとどこからか視線を感じ、振り返った。
何やら木の陰に身を隠すようにして、ひょっこりとこちらを見ていたのは――
(……熊さん?)
――シルクハットと赤い蝶ネクタイに燕尾服というキュートな衣装の熊が立っている。ふわふわもこもこの柔らかそうな毛並みを思わず撫でたくなるほど、実に愛くるしい熊の着ぐるみだった。
その魅惑のふわもこボディに抱きついている子どもたちが、ちょっとうらやましい。
ただ、いくら見た目が可愛いふわもこの熊さんでも、体のサイズは立派なものだ。その中身は、九割以上の確率で、脳筋な『楽園』の生徒だろう。
ヴィクトリアは生粋の可愛いものスキーではあるが、中身が可愛くないとわかりきっているものに対してまで萌えたりはしない。
彼女は慈愛をこめた眼差しで、熊に抱きついている子どもたちを見た。
(子どもたちよ……。そうです、もっと勢いよくタックルしなさい。よじ上りなさい。肩車をねだりなさい。そしてぶら下がりなさい。それが着ぐるみに対する正しいご挨拶です。ただし、あんまり景気よくどついたり、蹴ったりしてはいけませんよ? ヴィジュアル的に、それはNGです)
熊にまとわりついて楽しげな歓声を上げる子どもたちに、ヴィクトリアは胸のうちでエールを送る。そして歩調を速めた。
まだ少し余裕はあるけれど、リージェスとの待ち合わせの時間が迫っている。
……別に、かつて『楽園』の寮で寝坊して遅刻したときに向けられたリージェスの冷ややかな視線が、いまだにちょっぴりトラウマなわけではない。
時間は守りましょう、というヒトとして最低限のルールを遵守したいだけだ。
約束の時間より少し早めに待ち合わせ場所に着くと、リージェスはすでに来ていた。
品行方正な『楽園』の寮長さまらしく、学祭でも浮かれることなくきちんと制服を着たリージェスは――
(うーわー……)
――相変わらずの無表情であった。
半目になりつつ、反射的にわきわきと動きはじめた両手をぐっと握りしめる。そうして、彼の脇腹をくすぐりたい衝動をどうにか抑えこむ。
ひょっとして今日は、ずっとこの『完全無欠の寮長さまモード』な彼の顔を見ていなければならないのだろうか。
それはいやだなぁと思っていると、こちらに気づいたリージェスがわずかに目を見開いた。ヴィクトリアを見て何度か瞬きしたあと、心から嬉しそうに柔らかなほほえみを浮かべる。
ヴィクトリアは、よろめいた。
(リ……リージェスさま……! 鉄壁の無表情からの不意打ち的な笑顔はヤバいです、反則です! 破壊力がすさまじすぎるのですー……!)
あまりにも萌えすぎて、目の前にあるモーガンの背中をばしばしと叩きたい衝動に駆られたが、ぐっと堪えた。
「よく来たな。……どうかしたか? リア」
訝しげに眉を寄せたリージェスに、慌ててふるふると首を振る。
「な、なんでもありません。……あの、リージェスさまはお祭り用の扮装はなさらないのですか?」
「ああ。オレは、裏方担当だからな。今日はほとんどすることがないんだ。――モーガン、おまえも祭りをのぞいていくか?」
モーガンは、にこりとほほえんだ。
「いいえ。私は所用がございますので、ここで失礼させていただきます。リアさま、のちほどお迎えに参ります。どうぞリージェスさまとご一緒に楽しんでいらっしゃいませ」
「はい! ありがとうございます!」
モーガンは、ヴィクトリアとリージェスに一礼して元来た道を戻っていった。
(……お祭り! お祭り! おまけにリージェスさまが、寮長さまモードを解除してくださいました! わたしは今、とってもとっても嬉しいです!)
テンションがマックスに振り切れたヴィクトリアは、リージェスを見上げ、にぱぁと笑う。
「今日はありがとうございます、リージェスさま! モーガンさまに付き添っていただけて、とても嬉しかったです。残念ながらミュリエルさまは来られないのでお土産を買って帰りたいのですが、何か喜んでいただけそうなものは売っているでしょうか? できれば、可愛らしいお菓子があると嬉しいのですけど。よく考えてみたら、脳筋な男子生徒が作ったお菓子をミュリエルさまが召し上がってくださるだろうかと心配になったりもしまして、でも笑いを取る方向だったらそれはそれでむしろアリなのではないかと――」
息をつく暇も惜しんで話していると、ぽん、と頭の上にリージェスの手が載った。
「とりあえず、少し落ち着け」
「……ハイ。すみません」
すー、はー、と深呼吸をする。
落ち着くと、自分のはしゃぎっぷりに恥ずかしくなる。子どもっぽいにもほどがあった。
しょんぼりと肩を落としたヴィクトリアの頬に、長い指が軽く触れてくる。
おそるおそる顔を上げると、リージェスは穏やかにほほえんでいた。
「それにしても、随分見違えたな。モーガンの見立てか?」
「はい! モーガンさまとメイドさんたちが、全部揃えてくれました!」
本日の『いいところのお嬢さま』な姿は、リージェスの有能な執事とメイドさんたちの努力の賜物だ。
どうぞどうぞ、思う存分褒めてくださってかまいませんよ! と、ヴィクトリアはにこにこする。
すると、笑みを深めたリージェスが少し体を屈めた。
(えぇと……リージェスさま? ち、近いのですよ?)
リージェスとしては、彼らの仕事ぶりをじっくりしっかり検分したいのかもしれない。
だが、この至近距離で彼の顔を見るのは、かなり心臓に悪い。どきどきと胸が騒ぎ、なんだかむず痒いようないたたまれないような――それはくすぐったくも不思議な気分だ。
とはいえ、彼の麗しいお顔を間近でガン見できるチャンスはそうないだろう。そんな機会をみすみす逃すなんて、ヴィクトリアにとってありえない選択だ。
(あ、意外とまつげが長いのですね! でもリージェスさまってば、男のひとなのにお肌がきれいすぎだと思いますよ? 髪だってさらさらのつやつやですし、どんなお手入れをなさっているのか、とっても気になってしまいます)
『楽園』にいる間に銀髪を隠すため何度も染めたせいで、ヴィクトリアの髪はかなり傷んでしまった。ラング家で暮らしはじめ、とってもお高そうな洗髪料やトリートメントを使わせてもらっているおかげで、だいぶ以前の艶を取り戻してはいる。それでもやっぱり、お年頃の女の子は常に、スキンケア・ヘアケアに関する情報を喉から手が出るほど欲しているのだ。
ヴィクトリアは、しばしの間じっくりとリージェスの肌や髪を観察した。
そして、一体どこの製品を使っているのか尋ねようとしたとき――
「よく、似合っている。おまえのことはいつも可愛らしいと思っていたが、こんなにきれいになられると少し心配になるな。今日はオレのそばから、絶対に離れるんじゃないぞ」
「……ハイ」
――リージェスはどこか困ったように笑い、今まで聞いたこともないほど甘く優しい声で、直球ドまん中な褒め言葉を口にする。ヴィクトリアは、完全に思考停止した。
何度か瞬きをしているうちに、じわじわと頬に熱が集まってくる。やがて少しずつ活動を再開した頭の片すみで、ぼんやりと思う。
(こちらの方こそ、アナタの将来がとっても心配でございますよ、リージェスさま……)
イケメンは、自分の笑顔と声の持つ攻撃力を、きちんと把握・制御しておくべきではないだろうか。自分を含め、周囲にいる乙女たちの心臓のために。
そんなヴィクトリアの気持ちは露知らず、リージェスはまるで何事もなかったかのような顔で、さらりと話を変えた。
「じゃあ、まずはおまえの友人たちのところへ行くか。――軽食を扱っているらしいが、今食べられるか? あとにした方がいいなら、おまえの喜びそうなイベントをやっているところへ先に案内する」
「え、あの、はい――じゃなくて、いいえ! 先にランディたちのところへ行きたいです!」
ヴィクトリアは、慌てて言った。
応援ありがとうございます!
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