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第一章

図書館①

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「あの、明日って、お忙しいですか?」

 電話越しに彼女が言った。
 あれから俺は、暇をみつけては彼女に電話をするようになった。最初は迷惑かと思ってためらいもしたけど、彼女がいつも楽しそうに話を聞いてくれるから、今ではたいして遠慮もしなくなった。
 病室に一人でいるのは淋しいから、俺と電話で話ができて嬉しい、と彼女は言ってくれた。一人暮らしには慣れていたものの、俺は天涯孤独の身でもあったから、彼女と話すことができて救われているのは、むしろ俺のほうだった。

 あの事故が起こったのは夏休みの終わりだったから、一週間近く入院しても休み明けの二、三日大学を休んだだけで済んだ。だが、夏休みの課題が終わらなかったために、追加で課題のレポートを書くハメになったりして、俺は新学期早々わりと忙しい日々を送っていた。
 それでも講義の合間や就寝前に、一日一回は必ず彼女に電話をした。一度に話す時間は短かったけど、電話口の向こうに彼女がいると考えるだけで、なぜだか幸せな気分になり、明日も頑張ろうと思うことができた。
 そんな生活を一ヶ月近く続け、つい先日、彼女は無事長い入院生活を終えたのだった。
 退院後、彼女は一ヶ月も遅れた高校の授業に追いつくのが大変だったらしく、以前ほど俺と頻繁に連絡を取らなくなっていた。だから、数日ぶりに彼女と電話で話せる時間ができたことで、俺は内心浮かれまくっていた。

「明日……っていうと金曜日か。午前中は講義が入ってるけど、午後なら……」

『暇』と言いかけて、課題のレポートのことを思い出した。明日の午後に図書館に行って、資料を探してレポートを書くつもりでいたのだった。

「ごめん、午後は図書館にでも行こうかなって思ってたんだけど、何か用だった?」

 俺が訊くと、彼女は言葉を詰まらせて、しばらくの沈黙のあと、申し訳なさそうにか細い声で言った。

「……あの、その図書館、わたしもご一緒したら迷惑ですか?」
「へ……?」

 突然の申し出に、俺は驚きを隠せなかった。
 実のところ、俺はずっと彼女に直接会いたい、会って話がしたいと思っていたのだ。病院で彼女が言ったように、俺の想いが彼女に伝わったのかとさえ思ってしまった。
 驚きのあまり、しばらく返事をできずにいると、電話口から彼女の悲しげな声が聞こえた。

「……お邪魔ですか?」
「全ッ然! 全然邪魔じゃない! 俺も久しぶりにきみに会いたいと思ってたし!」

 率直過ぎるセリフを口にして、我ながらドン引した。とてもじゃないけど、友達に向かって言う言葉としては不適切すぎた。
 だが、彼女はそうでもなかったらしい。電話口から聞こえた声は、意外にもほっとしているようだった。

「本当ですか? よかった……」

 病院で見たあの笑顔が目に浮かぶようだった。
 なぜだか気恥ずかしくなって、俺は慌てて、いつも利用している図書館の場所を彼女に教えた。彼女は普段電車を使わないらしく、口頭の説明ではどうにも理解できないようだったから、結局俺たちは最寄りの駅で待ち合わせることにした。

「明日、楽しみにしてますね」

 彼女は最後に「おやすみなさい」と言って、通話を切った。
 通話時間が表示された携帯の画面をみつめたまま、俺はぼんやり考えた。

 今の会話はアレじゃないか? 付き合いたてのカップルとか、そんな感じじゃなかったか?
 だとしたら、明日は初デートみたいな感じかもしれない。もし、そういう雰囲気になったりしたら、そんなことになったら、そのときは彼女に告白しよう。
 告白するなら変な格好ではダメだ。カジュアルだけどあまりラフすぎない感じで——。

 舞い上がった俺は、その夜、眠りにつくまで何度も彼女に告白するシミュレーションを繰り返した。


***


 翌日、俺は大学の講義を終えると急いで駅に向かった。
 待ち合わせの時間まではまだ時間があったけど、彼女が待ち合わせ場所に早く来る可能性があったからだ。
 自販機でペットボトルのお茶を買い、駅前のシンボルでもある飾り時計を囲む花壇の縁に座った。
 そこはいわゆる待ち合わせのメッカ的な場所で、他にもデートの待ち合わせらしき人をちらほら見かけた。
 数分おきに電車がホームに入ってきて、駅前まで人波が押し寄せてきた。そのたびに俺は腰を浮かせて、彼女の姿を探していた。
 いつの間にか約束の時間から数分が過ぎていたが、彼女の姿はみつからなかった。

 迂闊だった。
 待ち合わせなんて滅多にしないから考えもつかなかったけど、彼女は小柄だから、こんな人混みのなかから探し出すのは至難の技だ。せめて今日の服装くらいは確認しておくベきだった。
 考えが足りなかった昨日の俺を殴りたい。

 そんなことを考えながらおろおろとしていると、急に袖が引っ張られた。あまりの不意打ちに変な声をあげそうになり、俺は慌てて自分の腕を見た。
 袖をつまむ細い指先、白い腕、薄い肩を上下させて胸元を抑えながら、彼女が俺を見上げていた。

「すみません、お待たせしました」

 息を弾ませながら彼女が言った。


 無事合流できた俺たちは、図書館方面の出口に向かった。人混みではぐれないようにと彼女が俺の手を握ったので、図らずしも俺は彼女と手を繋いで歩くことになった。
 駅の構内から階段を上がり、遊歩道へ出た。天気が良く陽射しも強かったけど、街路樹が日陰を作ってくれているおかげで遊歩道は意外にも涼しかった。
 人の多い駅構内は冷房がついているにも関わらず蒸し暑かったので、汗でベタついた肌が風にさらされるのが思いのほか心地良かった。

「ごめん、この時間あんなに混むとは思ってなくて」
「びっくりしました。電車って、とってもたくさんの人が利用するんですね」

 彼女は心なしか息を切らしながら、俺を見上げて笑った。
 小柄な彼女と俺の歩幅はかなり差があって、歩く速度も当然俺のほうが速い。何も考えずに歩いていた俺についてくるだけで、彼女は自然と早足で歩くことになっていたようだった。

「ごめん、歩くの速かったね」

 向かい合い、改めて彼女の姿を確認した。
 編み込んだ横髪を後ろで纏めたお嬢様風のヘアスタイルの彼女は、白いハイウエストのワンピースにデニムのジャケットを羽織り、ヒールの低いサンダルを履いていた。首にかけられたネックレスはシンプルなデザインだったけど、彼女の可愛らしいイメージにピッタリだ。小柄でおとなしい彼女らしいコーディネートだった。

「えっと……変、ですか?」

 食い入るように彼女を見ていたからだろう。もじもじしながら彼女が言った。

「ご、ごめん! その、可愛いなって、思って……」

 ——って、それは初デートで彼女に言うべき台詞だろう!

 俺は恥ずかしくなって、ふたたび遊歩道を歩き出した。彼女はきょとんと首を傾げながら、俺のあとを追ってきた。
 彼女の足取りからは、病院で松葉杖を使用していたことが一切感じられなかったから、彼女が無事に回復したことを、俺は改めて実感することができた。

 病院で彼女に出会ったあのときから、一ヶ月以上経っていた。せっかく彼女とこうして一緒にいられるなんて、またとないチャンスだと思った。
 俺は立ち止まり、やっと追いついた彼女の手を取った。
 慣れない行動で我ながら落ち着かなかった。顔が真っ赤になっているのが自分でもわかり、彼女の方を見ることができなかった。
 俺たちは図書館までの短い道のりを、ふたり並んで手を繋いで歩いた。

 俺が彼女に対して抱いている感情が友達へのそれではないことは、彼女にも丸分かりだと思う。
 それでもこうしてついてきてくれるのだから、彼女も俺に気があるのではないかと期待していた。

 告白するなら今日だ、と思った。
 今日を逃がしたら中途半端な友達という関係をこのまま延々と続けることになってしまう。それだけは避けたかった。
 これまでの人生で俺が何かに執着したことは一度もなかった。大抵のものは手に入らなくて当然だと諦めてきた。だけど彼女だけは、理由もなく手に入れたいと思っっていた。
 彼女の何にそんなに惹きつけられるのかはわからなかった。きっとこれは運命なのだと、そのときの俺は馬鹿みたいに信じていた。

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