チビ

こせ きっか

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チビ

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  一人っ子のわたしには、チビはまるでおとうとのようでした。
  わたしが
チビに出会ったのは、日本じゅうがまだ、「勝った、勝った」 とさわいでいた昭和17年ごろのことかと思います。そのとき、わたしは国民学校に上がる一年前のとしだったと思います。
  チビは、横須賀の、わたしのすんでいた家のちかくの、神社にすてられていたのです。うまれたばかりの仔犬でしたから、わたしが「チビ」と名づけたのです。
  わたしが国民学校に入る年の昭和18年、2月。日本軍はガナルカナル島をすて、それからはアメリカ軍のいきおいがましてきたんだと、のちに父が語ってくれたことを思い出します。
  そのころの父は、役所の仕事についていたので、まいにちが住民のためにあるような生活で、となり組の班長もしていて、家にいることのほうが少ないほどでした。母もわかいころ、青森でかんご婦をしていたということで、二人して、となり組のことや、町のために走りまわっていました。  
  そんなわけで、わたしは、ほとんど家ではひとりぼっちでしたから、チビだけが心の友でした。
  わたしが国民学校に入る前の月の三月。町じゅう、いたるところに「うちてしやまん」のポスターがはりめぐらされました。子どもごころにも、戦争がおしせまったように感じました。国民学校に入学してからも、その思いはますますつよく感じれました。
  先生のお話からも、校長先生のお話からも、いまや戦争は佳境に入っているように感じられました。父も、小さな庭に、いざというときにかくれる穴をほって、退避所をつくったりしました。しかし、国じゅうの人は、日本は連戦連勝の戦いをすすめているとしんじていました。

   子どもたちはいっぱんに「少国民」とよばれ、男の子たちはもっぱら、戦争ごっこにあけくれていました。わたしは、からだがひよわだたこともあって、戦争ごっこはにが手でした。できれば、チビとあそんでいるほうがいいと思っていました。
  それから一年後の、昭和19年、六月のことでした。北九州にアメリカの爆撃機B29が飛来して、たくさんの爆弾を投下したのです。二年生になっていたわたしは、もうすっかりりっぱな少国民になっていました。父について歩いて、町内の供出を手つだったりしていました。
  ところが、その年の夏も終わりに近づいた八月、わたしたち国民学校初等科の子どもたちの集団疎開がはじまったのでした。わたしの父は、縁故疎開をえらんで、わたしはきゅうきょ、母の実家である青森のおじさんのところふ疎開することにきまりました。
  「かあちゃん、チビつれてってもいいだろ。」
  「なに言うだ、バガだれ。チビだどメシくうだ。おめ一人、兄さにあずげるどもオレはかだみがせめェだに、そんだらごど、たのめるわげながろ。」
  わたしのたってのねがいも、母のひとことで、だめなことをさとりました。
  そのころの日本は、配給制だったこともあって、わたしの家は父母とわたしで、一日当たり米6合5勺ほどで、もちろんチビの分などなく、チビはわたしたちの配給米を分けあたえていたのでした。
  ひとのところへ行くときは、ご飯どきをさけるのがれいぎであって、やむをえないばあいは、弁当を持参するのが常識とされていた時代ですから、わたしは母の言い分ももっともだと思いました。

  母の里は、青森の深浦で、日本海に面した小さな港まちでした。おどろいたことに、こんな田舎でも、子どもたちのあそびは、戦争ごっこでした。
  わたしは町の国民学校に入ったものの、ことばがつうじないのと、「とうきょうもん、とうきょうもん」とからかわれてばかりいたので、いつまでもこの土地にはなじめませんでした。
  かれらにとっては、とかいのものは、すべてとうきょうもんに見えたにちがいありません。いくらわたしがヨコスカだと説明してもむだなことでした。そんなこともあってか、おじさんとおばさんはとてもよくしてくれたのですが、いまでもあまりなつかしさは感じません。
  そんなのんびりした田舎ぐらしのあいだにも、日本の戦況はこくこくときびしさを増し、ついに昭和20年八月、日本は終戦をむかえたのでした。
  あとで知ったことですが、わたしたちが国民学校初等科の疎開の直前、つまり終戦一年前の夏、サイパン、テニアン、グアムの要衝があいついでおとしいれられ、ついにその年の十一月、東京にB29が来襲、そのごつぎつぎにあちこちの都市がじゅうたん爆撃の的になっていったのだそうです。
  わたしの住んでいた横須賀も例外ではなく、防空ごうなどものかは、着のみ着のままに避難したそうです。わたしたち疎開組は、すんでのところで被災をまぬかれたわけです。

  戦争がおわってしばらくたって、父はようやくのことわたしを深浦までむかえに来てくれましたが、かえってみれば家は焼けおちて、見るかげもなく、申しわけていどのバラックが建っていました。水道水の水たまりに、とんぼがついついとたまごを生みつけているのが、なぜかいまでも印象にのこっています。
  わたしは家にもどってからは、子どもだたから、あまり両親の苦労も知らずに、のほほんと毎日をすごしていました。
  学校もなんとか、焼けのこっている建物をたよりに三々五々開始されましたが、なにしろ、なにもかもが焼けてしまったのですから、ノートやえんぴつなどもなく、授業もよく青空でおこなわれたことをおぼえています。
  毎日が空腹で、あたまの中はいつも食べもののことばかり。両親がどうやって食料を確保していたのかと、いまになってみれば、ただただ感謝の念でいっぱいです。

  そんなある日のこと、わたしは、ついにチビのことを両親にたずねたのです。
  「さとる。おまえが青森に行ってすぐのことだが、ここいらもあぶなくなってきてのう。たしか、その年のおわりころになって、蓄犬の献納運動があったんじゃ。ほれ、知っとろう、かどの吉沢さんとこのクロな、あれも献納になったんじゃが、私めも班長としてチビを出さんわけにいかず、一緒に差し出したんじゃ。すまん。」
父はくらい目をして、わたしに言いました。
  当時、日本にはすべての物資が不足し、前まえから「くろがね動員」といって、寺の鐘どころか、台所のなべかま、学校の門扉、二宮尊徳の銅像、家にある白銅貨、青銅貨からネックレスにいたるまで、あらゆる金属が徴用され、ついには犬さえ、大は三円、小は一円で徴用され、たぶん皮をはがれて兵隊さんのベルトや靴、あるいは工場のベルトなんぞになったんだと思います。
わたしは父の話を聞いて、やっぱりなという落胆の気もちと、そんな目にあうんだったら焼夷弾にでもやられたほうがましだったんではないかなどとも思い、なんともやりきれない気もちになりました。

  その晩のことでした。バラックを出て、空をながめていると、つうっと一筋の青い小さな星がながれていきました。ああ、あれはもしかしてチビのたましいかと、「チビ」と小さな声で呼ぶと、わたしの目からあついものがながれたのでした。
                             (おしまい)
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