ワタシのさえちゃん

こせ きっか

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ワタシのさえちゃん

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「ばっちゃん、おきて。水がくるー。水がくるよう。ばっちゃん。」
「いいから、さえ。おまえだけ、にげろ。わしは、どもならん。」
   さえちゃんは、すぐにもおかあさんが帰ってきて、ばあちゃんをたすけおこしてくれると信じて、ベッドからばあちゃんの手をひっぱりました。ばあちゃんは、わが親からおしえられていたので、すぐに津波がやってくることがわかっていました。
「さえ、さえ。よく聞くんじゃ。わしはかあちゃんが来るまで、ここにおる。おまえは、すぐに山へにげるんじゃ、すぐに。波が来んうちに、早く、早く。ばっちゃんはおかあちゃんと、おまえのあとを追うからよ。早く。」
   さえちゃんは、つくえの上にいたワタシを胸にだくと、うら手の山を目ざして駆け出していました。
「おかあちゃん、おかあちゃん。ばっちゃん、ばっちゃん。はあ、はあ・・・。」
   近所の人たちもわらわらと山へのぼっていきます。
「さえちゃん、さえちゃん。ひとりな?」
   同いどしの三枝ふみ子さんが声をかけた。さえちゃんは駆けながら「うん、うん。」と首をふった。それから、ふっと立ちどまって、下のほうを見かえりました。
   あとで、「すぐうしろにいたのに。」とふみ子さんは答えている。

   さえちゃんは、ワタシをぎゅっとにぎりしめると、きびすを返して山を下りはじめました。
「ばっちゃん、ばっちゃん。」さえちゃんは大声で呼ばわりながら家へもどっていった。やっぱり、ばあちゃんはベッドに横たわったままだ。さえちゃんを見ると、目を見開いて、ありたけの声で叫びました。
「さえ、さえ、どしたんじゃ。なして戻ってきたんじゃ。かあちゃん、まだ帰っとらんに。」「ばっちゃん、起きて。いっしょに逃げよ、ばっちゃん。ばっちゃん。」
   さえちゃんは、ばあちゃんをたすけ起こそうと、必死に手を引っぱるけれど、ばあちゃんの体はびくとも動きません。むりもありません。さえちゃんはまだ五さいの子どもなのです。

   あれは、二年ほど前のことだった。さえちゃんの妹のみいちゃんが死んでしまったのは。いつもいっしょの仲よしの妹がいなくなったことは、さえちゃんには信じがたい、たえられないことだったろう。急に口をきかなくなってしまったのです。
   おとうさんも同じだた。ぼうっとして仕事にも身がはいらなくなってしまいました。しだいに家の中がぎくしゃくして、くらァくなってしまいました。そんなある日、おとうさんは、おかあさんとのささいないさかいをして、不意に家を出ていってしまいました。
   おかあさんとて、娘を、それもたった一さいをすぎたばかりの、なんのつみもないかわいいさかりの娘を亡くしたことに、言いようのない深い哀しみと罪の心に打ちのめされていたのでした。
   働き手をなくしたワタシたち一家のくらしは、どうにも立ちゆかなくなって、おかあさんは家のことはおばあちゃんに任せて、自分は浜へ働きに出ました。海から上がるカキの身をむく、カキ打ちになったのでした。ところが、これでなんとか家も立ちゆくかと思われた矢先、おばあちゃんが脳梗塞で倒れてしまったのでした。
   口をきかない娘と、体の自由のきかないおばあちゃんを抱えて、おかあさんの苦労の重荷というものが、だれの目からもわかるほどに全身に重くのしかかって、その重みに圧しつぶされるのではないかと思われるのでした。

   ウウウ〰️〰️。けたたましいサイレンと、同報無線が叫ぶ避難勧告の声で、浜の女たちは浮き足だち、いっせいに家へと駆け出していた。おかあさんもその一人でした。まだ、第一波のやってくる前のことでした。
   第一波はじゅるじゅると浜をなめつくし、おかあさんを追い立てるように町屋へと這い上がってくると、おかあさんがタバコ屋の角を曲がったとたん、けもののような咆哮をあげながら、家や車をごそっと呑み込み、人びとの叫び声を残しながら海へと返っていきました。おかあさんはすんでのことで、これをかわし、あとひと息と、道を急ぎました。道は一本、やや上り気味で、まさかこんなところまで海がやってくることはなかろう。走ってる人も、子の手を引く人も、年寄りの手を引く人もそう思っていました。
   第二波は、そんな人びとの油断を見透かしたかのように、前にもまして足早に、大きなうねりとなって、どうと押し寄せてきたのでした。逃げる間とてありません。
   そのとき、おかあさんはわが家の戸口に取り付いたばかりでした。後ろ手に人びとの絶叫が上がり、猛り狂う破壊の響きとともに重厚な波が迫りくるのと、おかあさんが物も言わずにおばあちゃんに飛びかかって抱き上げるのとがほとんど同時でした。さえちゃんは、おかあさんを助けようと必死で、ワタシはおばあちゃんのベッドに放り出されたままでした。
   そのときです。間髪を措かず、戸口を破って、あの恐ろしい、憎たらしい波がいっせいに襲いかかってきたのです。家の中のなにもかもが波に呑まれ、浮き沈みしながら、ぐるぐると渦の中に回転し、気づくと、おかあさん、おばあちゃん、さえちゃんの姿はありませんでした。ワタシも三人とともに波に呑み込まれたまま戸口から吐き出され、分厚い波間にぷかぷか浮いたり、渦巻く波に沈んだりしながら、とてつもない力で沖へと向かっていました。ふと横合いを見ると、おかあさんはさえちゃんの脇の下を手で抱え、タンスのようなものにつかまりながら見えかくれしていました。ワタシはさえちゃんの右手にしっかりとにぎられ、沖へと流されていくのでした。あたりには同じように、為すすべもなく流木や家の片割れなどにつかまりながら沖へ向かう人の姿がありましたが、おばあちゃんの姿はありませんでした。
   どこをどう流れていくのか、皆目わかりませんでしたが、海の中ほどまで引っ張られてきたでしょうか。浜では水は引き、遠浅の浜のようなありさまでした。波はしばらくそこに留まったかと思うと、その奥からやってきた援軍とともに再び
ごごろごろと不気味な音をたてながら浜へ向かって転がりはじめるのでした。第三波が起きたのでした。ワタシたちは波に揉まれ、流失物に打つかりながら、陸に向かって突進し、町屋のなかを掻き回され、なすがまま波間に漂っておりました。
   すでに人かげは疎らになり、多くは水の中へと吸いこまれ巻きこまれていってしまったのです。そうこうするうち、分厚い波の塊りははらわたの中にワタシたちを抱き込み、巻き込みながら、狂ったように沖へとぐんぐん突進していくのでした。ワタシたちは、その渦の中に揉まれながら、やがて正体を失っていったのです。

   あれから四年ほどが経ちました。ワタシは浜の泥の中から、ボランティアの女子高生に掘り起こされ、水で洗われ、こうして遺留物の展示場の片隅に毎日ぼうっとして、むかしの楽しかったころのことを思い出していました。
   さえちゃんがワタシを、亡くなった妹のかわりに、いつもだっこしてあそんでくれたことや、物言わぬさえちゃんが、ワタシにはいつもお話をしてくれたことなどを思い出していました。ワタシにはわかっていました。あのやさしかったさえちゃんも、おかあさんも、さえちゃんをかわいがっていたおばあちゃんも、もうこの世の人ではないってことを。ワタシはおかあさんが布を縫ってこの世に生まれた人形ですから、どんなにかなしくっても、なみだは出ません。

   それからまた二年ほど過ぎたころでした。遺留物をひとつひとつ覗きこむ一人のおじさんが、ふとワタシの前に立ちどまり、ワタシの腕を引き上げて、ワタシの体を裏返しました。ワタシの背中には、もう消えかかっていましたが、「みいこ」とマジックで書かれてあったのです。さえちゃんの妹の名です。おとうさんが書いてくれたのです。そうです、その日からワタシはさえちゃんの妹のみいちゃんになったのです。

   浜のカキ打ち小屋は、もうありません。何もかもなくなった浜に座って、おとうさんはワタシを膝にだっこしながら、いつまでも海の彼方を見つめていました。海は夕焼けて、白く波だつ海原に、カモメがちいちいと鳴いて沖へと去ってゆくばかりでした。
                            (おしまい)
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