紫陽花

御霊ツヅリ

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紫陽花

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 重い瞼を開く。


 窓をたたく雨の音は、しかし静かで、優し気で、それでいて不愉快だ。
 カーテンの隙間から覗く重苦しい灰色の空は、梅雨の訪れを告げているのだから。


 気圧の変化なのか、どこか頭も重く感じる。
 眠そうな目を擦り、よれた寝間着の少年は、冷蔵庫までの道中を引き摺られる様に歩き、中にあったペットボトルの水を一気に飲み干した。


 相当冷えていたのか、かき氷を一気に掻き込んだ時のような頭痛に、小さなうめき声を漏らす。
 窓から入る光は弱々しく、ふと照明が必要な暗さである事に気付いた。


 飲み物を取りに起き上がったこのタイミングで気付けたのはラッキーだった。
 そのついでの足で部屋の明かりの電源を入れる。
 
 カレンダーに目を遣れば、今日は6月20日。
 初夏の花火大会の予定日だった。

「なんだってこんな梅雨のど真ん中に……」


 思わずそんな言葉が漏れる。
 気怠そうな、不機嫌そうな、そんな声色だ。


 少年、ジュンは次に時計へと視線を移す。
 時刻は2時を少し過ぎた所。
 生憎の空模様ではあるが、先ほど冷蔵庫を開いて中に何もないのに気付いてしまった以上、今よりも雨足が強くなる前に買い物に出かけるべきか。


 目覚まし代わりに顔面に水道水をぶっかけ、乱雑にタオルで拭いたなら、ビニール傘を手に取り、寝ぐせの残る髪もそのままに家を出る。

 近所のスーパーまでは徒歩で10分といった所。
 いつもなら自転車で行くのだが、静かな雨とは言え濡れながら向かう気にはなれない。
 そんな事をする利点など、せいぜい寝ぐせが直る程度だろう。


 いつもは井戸端会議で賑わうご近所さん方のたまり場も、この雨では閑散としている。
 静かな事が少し異質なその道の、そのさらに奥に、そんな事など気にもならない【何か】があった。

「光ってる?」

 それは、雲の切れ間だった。
 一か所だけ、太陽が差し込んでいるのだ。
 空一面を覆いつくす雨雲の中、そんな光景をジュンは今まで見たことがなかった。
 だから……なのだろう。
 ふらりふらりと、彼はそこへ――スーパーへの道から逸れるのも気にせず――近寄って行く。


「ダメだよ」
「――ッ!?」


 背後から聞こえた声に、思わず振り返る。
 大きな声ではなかった。
 威圧的な語調でもなかった。
 だというのに、何故こうも自分は驚いているのだろうか。


 立っていたのは、薄紫のレースがあしらわれた可愛らしい洋服に身を包んだ、黒髪の少女。
 ジュンの視線の直上に見える、カエルのキャラクターのような髪留めが目を引く。


 その子は、傘も差さずに雨の中に立っていた。
 だが、どこか様子がおかしい。
 雨に濡れていないのだ。
 まるで、それこそあの雲の切れ間に立っているような。

「ダメだよ」

 先程と全く同じ言葉を、抑揚もなく繰り返す。
 正直、薄気味悪いと思った。
 だが、それ以上に……。

 この感情の正体が分からないジュンではない。

 惹かれていた。
 そう、初めて出会った、どこか現実離れした薄気味悪い少女に、ジュンは--きっと--惚れたのだ。


「……違う……」


 零れた言葉は、ジュン本人にすら意図せぬものだった。


「初めて出会った……? いや、初めてじゃない」


 押し寄せる記憶の濁流。

 今日は、6月20日?

 昨日の6月20日は何をした?

 一昨日は?

 その前は?

 さらにその前は?

「そ……違うのね。違うといいわね」

 薄紫の少女は呟いた。
 雨の音に掻き消されてしまいそうなほどに小さな声で。
 それでもしっかりとジュンに届く。
 少女は踵を返す。
 小さくなるその背を見送り、ジュンはあの雲の切れ間に視線を向けた。


「おい!」

「え?」


 振り返りもせず、彼は薄紫の少女に声をかける。


「俺、ジュン。お前は?」

「……天使……」

「天使? ……じゃあ、天使さん。明日、また会おうぜ」

「……期待しないで待っとく65回目の貴方」


 雲の切れ間に、ジュンは足を踏み入れた。
 辺りの景色がまるで泡のように歪み、膨らみ、縮み、崩れ、そして--ただの黒になる。
 辺り一面が黒一色。
 やがて、ジュンは瞼を閉じたのかも分からぬまま、眠りへと落ちた。

 
          ◆


 重い瞼を開く。


 よれた寝間着のまま、ジュンは起き上がってカレンダーを見る。


 6月20日。
 時刻は午後の7時45分。


 空には星が輝いて見える。
 快晴だ。


 ジュンは家を出る。
 自転車には乗らなかった。
 自転車で向かうと、会えない気がして。

 民家の明かりに照らされる静かな道路。
 そこに、あの雲の切れ間と同じ場所に明かりがあった。
 ジュンはそこに近付く。

 一歩。
 また一歩と。
 そして、あともう一回足を踏み出せば、というところに来て、足を止めた。


 刹那--。


「--ッ!?」


 凄まじい勢いで、無点灯のトラックが目の前を通りすぎたのだ。


 脂汗が滲む。

 心臓が早鐘を打つ。


「俺は……」

「おめでとう」

「天使……?」

「違う。オルテンシア。テンシの所しか聞き取ってくれなかっただけ」

「はは……」 


 背後には、天使……いや、オルテンシアが立っていた。


「貴方の……ジュンの6月20日は終わったわ」

「本当は、俺、今日轢かれて……」

「違う。見定めてた。繰り返して、繰り返して、ループに気付いたら現実に戻して、どうなるか」


 多分、普通ならあのまま行ってたはずだ。
 だが、ジュンは約束したから。
 明日また会おう、と。
 だから足を止める事ができたのだ。


「ご褒美とかないのか?」

「デートでいい?」

「ああ、最高だ」


 ジュンはオルテンシアの手を握る。
 その瞬間、空が明るくなった。
 花火が上がったのだ。
 薄紫の丸い花火。
 まるで、紫陽花のような。

           ◆

 6月21日。
 テレビのニュース番組からは梅雨明けを告げる旨が流れていた。
 外には、夜露を花弁に乗せた、紫陽花の花が日の光の中で輝いている。
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