まいるどせぶん。

浅井湯舟

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まいるどせぶん。

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まいるどせぶん。


煙草、今日も朝起きた時、枕元にある加熱式煙草に電源をつけて、眠い頭で頑張って、雑に箱から一本取り出して、手に持った機械が起動音を鳴らす。次第に温まって、機械から出る熱は人肌くらいに感じられて、吸ってもいいよ、と合図してくれる。そうすると、私は良し。と言われた犬のように、吸い始める。それがいつもの朝。今思えばいつから吸い始めたんだろう。先輩に試しに一本もらってしまった時のような気がする。それはまだ未成年の頃でした。
その頃私には彼女がいた。少しお金持ちの家の女だった。
人の仕草。そこにはその人の品の良さ、家庭のレベルのようなものが現れると思う。それこそ犬のようにちゃんと躾されて育った子は綺麗にご飯を食べるし、一つ一つの動作にどこか美しさを感じる。そんな人はあまり好きじゃなかった。どこか気取っているように見えて、嫌でした。その彼女はタバコが嫌いでした。
ある日、それは、私が会社の近くにある、喫煙所で吸っていた時でした。家では家庭という重圧から、自分の寝室兼書斎であった部屋でのみ許される電子たばこが唯一の居場所でした。稼ぎが悪いことに対する、申し訳なさのようなものと、娘に訪れた、反抗期のようなもの。それに私は肩身の狭さのようなものを感じていました。家に帰るとそそくさと1人でご飯を食べて、缶ビールを飲んで。お風呂に入って、窓を開けて少し肌寒い部屋で機械に挿して。また犬みたいに良し。と言われて口をつけるんです。きっと家内より、口をつけた回数が多いであろう吸い口からは、紙には及ばない微量の煙と、紙には到底及ばない、少し美味しくない香りがたって、嫌な気持ちになる。美味しくないけど。ニコチンを求めてしまっている。
でも、加熱式はタールが少ないし。
そうやって自分の中にある罪悪感のようなものを払拭して、また口をつけるんです。
唯一自分が気兼ねなくタバコを嗜むことが許される場所が、その会社の近くの喫煙所でした。紙タバコを吸えるんです。いつも美味しくない、少しさつまいもみたいな変な匂いがするあの機械から解放される唯一の時間でした。それが私にとって嬉しかった、とても嬉しかったんです。まだ30代、まだ、30代そう自分に言い聞かせて、紙で、少しタールが重い、マイルドセブンの10mmを吸うんです。天然香料の良い香り、程よく多い煙量、鼻を抜ける香り。少し甘いその煙草は、社会人になってからずっと吸っています。
最近は外での仕事が多く、あまりデスクワークに取り組めなかった。なので、紙を吸う時間がなかったんです。久々に、スライド式のドアを開けて、換気扇の音がうるさい部屋に入って、1番綺麗な感じがする、壁に寄りかかって、火をつけます、久々の一吸い目に咽せてしまった。ゲホゲホとしていたところに、ふふっと笑う声がしたんです。私は気づかなかった、先客がいることに気づいていませんでした。
その人は、パーラメントという銘柄を吸っていました(過去吸っていたので見るとわかるんです)。みた感じ私よりは年長者に見えました。でも、年を感じさせない、嫌いな肌と、艶のある髪の毛と、高い鼻。とても自分好みでした。
「初めて吸うんですかー?」
彼女はニコニコして尋ねて来ました。
「いえ、最近は電子ばっかりでして。久々なんです。」
「へえー。電子美味しくないしょ?」
「そうですね。でも家内もうるさいし子供もいるので。」
「あら子供もいるのね、辞めればいいのに」
「辞めれたら苦労しないですね。」
2人で少し笑って。彼女から出て行きました。
いい感じの人だな。どこの会社の人なんだろう。
そう思って喫煙所から彼女を目で追っていました。隣のビルに入って行きました。
また次の日私は喫煙所に行きました。私が吸っている途中で入って来ました。
「あれ、昼はもう食べたの?」
「今始まったところですよ。休憩」
「なんで体言止めなのよ」
こんなアホっぽいのに体言止めとか使えるんだ。
「いや、なんででしょうね、笑」
「あんた愛妻弁当とかないわけ?愛されてないの?」
「そんなの最初だけでしたね。あまり料理が得意じゃないみたいで。」
「なら頑張れって思うけどね、男に尽くしてなんぼでしょ」
「時代に逆行していますね笑」
「私だったら毎日作っちゃうなーその方が嬉しいと思うし」
「もうなんとも思わないですよ。」
彼女はニヤつきながら私の方を見つめて来ました。
私はかすかにこの人が奥さんだったら、少しばかりは幸せに暮らせうるんじゃないかと考えてしまった。
ほんとに申し訳ないがそう言うふうに感じてしまったのです。

雪もだいぶ少なくなり、駅から出たところにある、広場の中央に黒く淀んだ汚い積雪の跡のようなものが、浅く盛りあがっていました、人々は一様にその雪に対して、自分の革靴やらスニーカーやらを押し付け、さらに浅くなっていくのが見えました。今日は雲ひとつない120点の空でした。とても清々しい気持ちで、出社に臨むことができました。
今日は、一日中営業に回っていました。私の一番の大手契約先であった、菅野さんが、部下のミスによってお怒りになってしまい、契約を打ち切られてしまったのです。しかし私にも負い目を感じるミスであったので、部下にひどく叱りつけることなんてできませんでした。私は、どうにかして、新規の顧客様を捕まえなければいけないと必死になって、午前中は、デスクに向き合い、昼休憩中も、営業ルートの確認に勤しみ、休憩が終わったらそそくさと車に乗り込み、その部下と一緒に、その営業ルートをなぞっていたのでした。
部下は何度も「ほんとに申し訳ありませんでした。」と繰り返し私に言いました。
「気にすることはないよ。私も若い時はいっぱいミスしたし、そうやって人は成長していくんだから。こうやって営業にちゃんとついてきてるんだから、私は嬉しいよ、ちゃんと向き合ってくれているから」
今の時代、どんなミスがあっても強く責めることはできないんです。この若者が辞めて仕舞う方が、会社にとって大きな損失になるのです。若い人はすぐ辞めるんです。若い人なんて言葉を使ってしまう私は自分が嫌いです。おじさんになっていくような気がして。
部下は少し晴れたような表情になってくれました。
見込みがありそうなお客様が幸いにも3人ほど確保することができました。
時刻は19時を回っていました。妻からラインが一通きていました。
「今日は、静(しずと読みます娘の名前です。)がご飯行きたいって言うから先に行っちゃった。
あなたもどこかで食べてきて頂戴ね。」
もう慣れたもんです。いつもみたいに牛丼でいいや、なんて考えていました。
どうせ帰るのが遅くなるなら、久々に帰る時にも喫煙所に寄ろうかなんて考えていました。
見込み客の顧客リストをまとめ上げて、私はパソコンの電源を落としファイルを所定の場所に戻し、薄汚れた吉田カバンの通勤バッグを片手に会社を出ました。
喫煙所の扉を開けるとそこにはあの女性がまたパーラメントを吸っていました。
「あれ?こんな時間に珍しいね。」
「今日は外で食べて帰るんですよ、こんな時間に来るのは久しぶりです。」
「ええ?今日はご飯作ってもらえなかったの?もうそう言うもんなのかしらね夫婦って
私わからないわ。」
「んーどうなんだろう。」
タバコの煙を吐き出しながら、あ、今タメで喋っちゃった。なんて考えていました。
「じゃあ私とご飯行こうよ」
「え?まあ良いですけど、そんな良いところ行くお金は今持ち合わせていないですよ」
「私の奢りでいいわ。なんか可哀想になってきちゃって」
彼女は微笑しながら言いました。
「いえそんなの申し訳ないです。ちゃんと払いますよ」
「いいのいいの安い居酒屋で安い酒飲むのが1番楽しいんだから。」
そんな陽気な彼女に連れられて、その駅の近くにある、飲み屋街のような場所で、チェーンの、1番質素なお店に入りました。
「お飲み物はお決まりですか?」
「飲み放題の90分のやつで生二つ!!」
彼女は威勢よく発しました。
「えまって飲み放題なんですか!?」
「いいじゃないあんたは目外さなすぎよ、こんな真面目に馬鹿みたいね。
そういえば名前も聞いてないじゃない。」
「ああ、拓って言います。私もあなたのお名前聞いていませんでした。」
「え、ああ、私は秘密よ。」
「こちら生二つです!お通しのきんぴらごぼうです、お飲み物と、お料理はこちらのタブレットからお願いします。ラストオーダーのお声掛けは致しませんので、お気をつけください。失礼します。」
そう言って、個室のドアがゆっくり閉められました。
「え?なんで教えてくれないんですか」
「いいから乾杯しよ!あと敬語禁止ね」
私に聞く隙も与えず乾杯してしまいました。
彼女がタブレットを乱暴に取って、これ美味しそうじゃない?なんて言いながら、一緒に料理を注文しました、なんか懐かしいような気持ちになって、学生時代の、そんな気持ちに戻ったような感じでした。
頼んだ料理が大体運ばれてきて、一杯目もお互い無くなってきました。
「次なに頼むの?私さあんまビール好きじゃないんだよね」
「じゃあなんで頼んだんですか笑」
「あ敬語禁止って言った!」
「あーはいはい、なんで頼んだの?」
「だってとりあえず生って言うのが好きなのさ。」
「え、わかる俺それやってたらビール好きになったんだよね笑」
「なにタメになったら俺になんの?ウケる」
なんかすっごい恥ずかしいです。
「違うよ、敬語になったら私になるだけですよ」
「そっかそっか、なんか仲良く慣れたみたいで嬉しい。」
2人ともハイボールが好きなようでした。2、3種類ウイスキーを選ぶことができたが、私たちは、考える間もなく『角ハイ』と書かれたボタンを押した。
2人でくだらない、色んな話、例えば彼女の仕事の話とか、(隣の清掃業務の会社の受付嬢らしいです。)
最近駅前の喫煙所が取り壊された話や、このお店が電子以外喫煙禁止である話など。
「なんでここ紙吸えないの?ほんとありえないわ」
「まあ俺今持ってるけど。吸ってみます?」
「え気になる、一本もらってもいい?」
彼女はきっと使い方を知らないので、私が機械に一本挿して、渡しました。
「これ、もう一回震えたら吸えるんで」
「へーありがとう」
電子の機械が音を立てて震えました、良しと言いました。
彼女は慣れない手つきで、変な持ち方で、機械に刺さったフィルターに口をつけました。
正直とても似合ってたし、ちょっと可愛かった。
「うわ、電子ってこんな感じなんだ、てかなんでメンソなの?いつもレギュラーじゃん。
スースーするの嫌なんだけど!」
「いや、レギュラーは血反吐を吐くほどまずいんだよ、絶対やめた方がいい。」
「えそうなんだ、逆に気になるわ。」
彼女は吸えなくなった、フィルターを外して
「ありがとね、やっぱ私、紙が好き笑」
彼女から渡された機械は、タバコを熱するために、熱くなったのか、彼女の体温が伝わって熱くなっているのか。
分かりきったことではあるのだが、後者であってほしいと強く願っている私が、心のどこかの、いつも着てあげられない服をふと思い出した時みたいな、微かな欲求みたいに這い上がってきた。
タブレットの画面の中央にラストオーダー10分前です。と大きく表示された。
「ねえあと10分だって!なんか頼も!」
「じゃあ最後は、梅酒にしようかな。」
「じゃあ私あんず酒にする!」
その最後の一杯を勢いよく飲んで、飲み放題の時間はすぎました。
最後に少し重いお酒を飲んだせいか、今まで飲んだ8~9杯のハイボールの重みが、急に来たような感覚に襲われて、急に脳が重たくなるような感じになりました。
「じゃあそろそろ行くかー、ねえ、酔ってるしょ。」
「いや、あまり酔ってないよ」
「嘘だ!!目うつろだもん、かわいいね」
女性に可愛いって言われるのって、嬉しい。昔友人に、彼女が可愛い可愛いって言ってきて嫌だ。かっこいいって思ってくれてないのかな。って相談されたことがあるけど、可愛いも嬉しいと思うんです。
「そんなことないよ、俺もう32だよ?そんなこと言われる年齢じゃないから」
「いいの可愛いは可愛いんだから、ほら行こ?」
なんかこの人といると学生気分になれる気がする。明日が土曜日でよかった。ほんとにそう感じた。
このあとは、別になにも起きることもなく、2人は解散しました。私は酔う時は酔うのですが、外に出た時の肌寒い気温や、電車に乗った時の現実に引き戻されるような感覚を覚えると、今までフラフラしていたのが馬鹿みたいに、覚めてしまうのでした。
ですので、私が帰宅しても、家内は私が酔っていることに気づくこともなく、
「あらおかえり、遅かったわね、仕事大変なの?」
と言ってくれたのでした。最近冷たくしてくるくせに、私が、女と飲んだ罪悪感を少し抱いている時に限ってそんな言葉をかけてくるのです。いつもそんな風にしてくれれば、私は寂しくないのに。
「ああ、後輩のミスの、リカバリで忙しくて、お風呂入るね。」
私は酒気に気づかれないように、そそくさとその場を後にして、部屋に駆け込みました。
部屋の窓を開けて、電子の機械を取り出して、フィルターを差して、加熱が始まります。次第に彼女から返してもらった時の、体温であれ!と期待した時と同じ温度になって、ブーと音がなって、犬のように口寂しい私に、合図を出してくれるのでした。口から微量のおいしくないメンソールを噴き出しながら。彼女のことを考えていました。
彼女は雑に見えるような仕草の中にも、どこか、綺麗な何かを隠し持っているような感じがして、なんか懐かしい気持ちになって、私が、適当な女とホイホイ遊んでいた時に、感じていたような罪悪感のようなものは、不思議と感じないのでした。私には家内が居るんだ。もうこの関係はよしにしよう。そう考えてネクタイを外そうとして、お風呂に入りました。ネクタイはもう吉田カバンの中でした。やっぱり酔ってたみたい。
次の日は何もなかったように土曜日が訪れて、娘は反抗期を拗らせて、おはようの挨拶も返してくれませんでした。でも、静がまだ小さかった時は、私が今の会社の地位に収まるまでの、大変な努力を必要とする時期で、家族サービスと呼ばれる大事な風習に割く時間があまりにも少なかったのです。
それも家族のためと思って、私はがむしゃらに頑張っていました、でも今こんなことになってしまいました。家内からの愛は感じるけど、確実に5年前よりは薄く感じられる。私がよしとして頑張ってきたこの時間が代償となって、今の家庭に肩身の狭さを感じてしまっているんです。何が悪かったんだろう。
考えたくなくなる。考えると泣きそうになるから。少なくともこの時の私にとって彼女は少なからず心の支え、みたいな感じでした。でもラインも交換してないし、飲んだ後、何か起きたわけでもない、普通の女友達?名前をつけるのが難しい関係だけど。
週末は昼まで寝て、静はどこかに遊びに行くみたいで、場所を尋ねてみても、
「私の勝手じゃん!」
とブーツのジップを素早く上げて、玄関を後にしてしまいました。家内はどこか気まずそうな顔をしていましたが、口を開きませんでした。家内は静を追いかけるように、どこか出掛けに行きました。
家内も、行き先を教えてくれませんでした。
そのまま週末は過ぎて、また仕事が始まって、あの3人の見込み客をどうにか契約まで持ち込むために、電話でアポを取って、1人、三田さんという方が話を聞いてくれることになりました。金曜日なら、と仰るので、私は金曜日に後輩を連れて、会社まで、営業に行くことになりました。後輩は入社して初めての営業面談ということで、資料を作らせ、2人で営業の練習を励み、私は、彼のサポートに徹するため、作戦を練る。そんな一週間を過ごしていました。そして金曜日が訪れ。彼と2人で営業車に乗り、三田さんの会社まで、車を走らせました。予定通り面談時間の10分前には会社に到着し、その会社の受付に要件を告げ、応接室まで案内されました。
「お前、あの資料を練習通りに説明できれば大丈夫だからな。頑張ろうな」
「今週は付きっきりでありがとうございました。がんばります」
彼はひどく緊張していました。
面談では、硬くなりながらも、彼はしっかり説明し、彼なりの努力の形のようなものは見えたな。と私は感じていました。
「んーもっと、安くなるプランはないのかい?」
「あ、はい!弊社のこちらのプランですと、多少サポートは薄くなってしまうのですが、紹介させていただいた、プランよりもお安くご案内させて頂けます。」
「ふーん、この安い方はさ、さっきのとどんな違いがあるの?」
「あ。ええと、お待ちください。」
彼にはまだ早かったか。
「私が代わりにご案内させていただきますね。こちらのプランは、先ほどのものの保証期間が、4年から、1年半になってしまうほか、電話受付サービスのお時間が、14時から18時にさせて頂いているなどの違いがございます。長くご利用していただく商品となっておりますので、弊社としては、最初にご提示させて頂いたプランがおすすめとなっております。」
安いプランは、商品を買っていただくためで、利益率も低く、あまり社内でも、売り出さない方針であった。
「んーまあ最初だしね、この安い方にしようかな、使ってみてからまた考えるよ。とりあえずこっちで」
「かしこまりました。ありがとうございます。」
結局は安い方のプランになってしまいました。私と彼は、三田さんに深々と礼を下げて、その場を後にしました。
「すいません、課長、安い方のになっちゃいました。」
「良いんだよ、頑張って取れた初契約じゃないか、お客さんを掴めただけで、えらいよ。」
しかし、彼は先週の、大手取引先の事件やさっきの面談でしどろもどろになってしまったことをかなり負い目に感じているようで、帰りの、営業車の雰囲気は、あまり良いものではありませんでした。
私は、ため息を少し出しながら、1人で帰りの一服をする事にしました。彼女にはもうこれ以上距離を縮め過ぎないようにしよう。そう感じながら、喫煙室に入りました。彼女はいませんでした。
少し、悲しい気持ちになりました。あそこに行けば、会えるだろう、何度も彼女と話すうちにそんな風に思うように思考回路が、塗り替えられていました。なぜか寂しい気持ちになって、煙草があまり美味しくありませんでした。一本目が、無くなって、もう一本吸うか少し迷っていた時に、ドアが開きました。
あ、と声を出しそうになりましたが、うちの部署の部長でした。
「お疲れ様です!」
「おお、あまりここじゃ会わないね、煙草吸うんだもんね。いいねえ紙は、もう家内がうるさくてうるさくて」
「いえいえ私もここじゃないと吸えないんですよ。家じゃめっきりです。」
「やはりそんな時代なんだね。最近のあの、新人くんはどうだい?付きっきりで、指導していたように感じるのだが。」
「はい、だんだん成長を感じる一方で、先週のあの件をかなり負い目に感じているようで、どう、気持ちを前向きにしてあげるよう仕向けるか、そんなことばかり考えてしまって。」
「まるで、10年前の私たちみたいだね。君が新卒で入ってきた時、私がちょうど課長だったね、でもその時私は37だった、君はまだ32だ、これはすごいことなんだよ、会社はあまり褒めてこないけど、私はそう感じているよ」
「ありがとうございます、もっとがんばります!」
そうして私は喫煙所を後にしたが、そのすごい実績のために、犠牲になった時間の方が、私の思考を支配してしまい、素直に喜べない自分がいました。
久しぶりに、彼女と一切会わない一週間を過ごしました、なんか、彼女が忘れられないんです。あの学生時代の、忘れられないあの人みたいな、そんな感じの、記憶の残り方だったと思います。
そのまま、数ヶ月が過ぎました。会社の繁忙期が訪れて、新製品に向けて、今までの製品をどう改善していくか、毎日会議に明け暮れる日々でした。申し遅れましたが、我が社の主力製品は、会社などに設置する業務用エアコンの事業です。
9月になりました。新製品の発売も終わり、少しづつですが売り上げも伸ばし、あの後輩くんが考えてくれた、若い人だから思いつくのでしょうか、リモコンを壁備え付けではなく、手のひらサイズにし、感覚的な操作を可能にしてくれたのでした。我々おじさんには考えつかない、性能でした。
9月5日。今日は私の誕生日でした。家に祝ってくれる人はおらず、数年前、小さかった静とまだ若かった家内が、私のために用意してくれていた時のことを思い出して、少し頬を濡らしそうになりながら。
部長が、「誕生日おめでとうね、これ安いもんだけど後輩と選んで買ったんだよ。」
とプレゼントを渡してくれました。箱を開けるとウイスキーでした。ジョニーウォーカーのグリーンラベルでした。私が1番好きな銘柄でした。
「ありがとうこざいます!。ありがとうね、今回の新製品は、君のアイデアのおかげだよ。誕生日11月だったっけ?お返しするね。」
「ありがとうございます!、でも僕はお酒苦手なんです。」
「私にはないのかい?」
なんて3人で話しながら、談笑していました。
久しぶりに、残業もしない日だったけど、無性に煙草が吸いたくなりました。
私は久しぶりに、喫煙所のドアを開けました。
あ、
2人とも同時に声を出しました。
「久しぶりだね、拓くん。最近忙しかったの?」
「そうなんだよね、てかもう3ヶ月くらいあってないね笑笑」
「んねー、あ、誕生日おめでと、拓くん。」
「え?なんでわかるの。」
「まだ気づかないの?私だよ?ゆいだよ」
「え、」
私は信じられませんでした、年長者だと思っていた、あの彼女が私と同じ年齢で、あの時の彼女だったなんて想像がつきませんでした、あの時の私が嫌いだった金持ち特有の変な上品さなんてどこかに消えてしまって、そこには付き合いやすい私タイプの女性の姿が映し出されているのでした。私はひどく後悔しました。こんなに心に拠り所にしていた人が、まさか元彼女だなんて思いもしませんでした。好きになりそうでした。
「ねえ。ちゃんと話したいし、今までのこととか聞きたい!」
「まあ良いけどさ、俺今日誕生日だよ?家に帰ろうと思ってたんだけど」
「どうせご飯もなんもないしょ、良いじゃん」
スマホを確認すると、今日は何時に帰るの?とラインが来ていました。
少し遅くなるとだけ返信しました。
彼女は、前回一緒に行ったところと同じ居酒屋に私を連れて行きました。
また一杯目はビールを頼んで、またくだらない話をして、元彼女だと思うと、なんか気が楽で、年上に対する余計なお気遣いをする必要もなくて、家庭にいる人に対するような、自分が大黒柱でなくてはいけないというようなプレッシャーもなくて、あの頃の無邪気な、自分でいられるのでした。この人といる時だけ、自分は、俺になれるような感じがしました。
「ねえ、飲み放題終わるよ、なに頼むの?」
「えーどーしよ、また梅酒?」
「じゃあ私あんずにするー」
「ねえ楽しいね」
「うん、そうだね」
「なんであんた奥さんなんているのさ、ほんとにさいてー」
「いやしょうがないだろ、まさか出会うなんて思わねーし、お前めっちゃ可愛くなってるし、ずるいわ」
「褒めてくれるところが好きだったよ。でももう会えないしなー」
「え、なんで?別に、友達なんだから良いじゃん、奥さんのこと気にしてんの?」
「いや、私、東京に転勤になったの」
すごいショックだった。また会えると思っていました。この、俺でいられる、自分がとても好きでした。
また会えると当たり前に感じていました。でも今回が最後でした。最初で最後の俺でした。
「あ、え、そっか。じゃあ仕方ないね、頑張ってね、ラインは交換したい。」
「それこそ1番ダメでしょ、あんた奥さんいるんだよ?」
「いやでも、俺もう引き下がれないんだけど。あ、じゃあカラオケ行こうよ、いっぱい行ってたじゃんあの時。」
「あ、それならいいよ。」
もう時刻は20時に差し掛かっていました。2人は、一緒に並んで、少しだけ手を繋いで安くて、汚いカラオケボックスに入りました。
「あ見てクライナーあるよ。頼んでみよ」
「なにそれ?」
「なんかね若い人が、クラブとかで飲むんだって、結構気になってたんだよね」
「じゃあ頼んでみようか」
クライナーの味は全然美味しくなくて、若者はこんなものが好きなのかと、2人で、微笑しながら、あの時一緒に歌ってたバラードどか、流行りだった曲とかを歌いました。
なんか、初めての気持ちでした。でも間違いだけは犯さない、そうやって決心していました。
カラオケは1時間しか予約していませんでした。
「じゃあ今日はありがとうね。これからも頑張ってね。」
「俺、東京行ったら、ゆいのこと探しちゃうかも。」
「いいよ、待ってるね」
ゆいは俺に余ったパーラメントを差し出してきました。7本残ってました。電車で自宅の最寄駅から降りて、普段は匂いを気にして吸わないけど、無性に吸いたくなりました。いつもゆいからする、あの匂いが、鼻を抜けるちょっとミルキーな煙の香りが立って、なぜか、涙が出ました。別に別れたわけでも、なんでもないのに、失恋みたいな感情になって、もう訳がわかんなかったんです。半分も吸わないうちに、吸うのをやめました。
家に着いて。「ただいま」というと。静が来ました。
「お父さん、、、誕生日、おめでとう。はいこれ」
静は私に、小さい紙袋を渡して、逃げるように部屋に入りました。
「ただいま。なんか静がくれたんだけど、どういう風の吹き回しだ?」
「なんか、最近冷たくしてたの申し訳なく感じてるらしいよ、反抗期も終わったのかもね。てかあんた煙草吸ったでしょ、もう臭い!」
「ごめん!、なんか部長が吸うもんだからさ」
「電子にするって言ってたじゃないもう、本当にこれだから。」
とても、この会話が楽しかったんです。なんだかんだみんな、私のことを考えてくれてるんだって、感じると、とてもしんみりしてしまいます。
部屋に戻って静からのプレゼントを開けてみました。ネクタイピンでした。メガネの形のネクタイピンで、とても可愛らしい、静らしいチョイスでした。涙がでてきました。
私は今日の行動を後悔はしませんでした。彼女の、ゆいの存在が、少なからず私(俺)の、今を作ってくれてたのかもしれません。

仕合わせを、大事にしたい。
彼女から、もらったパーラメントの箱は、クローゼットの奥にあった、学生時代によく来ていた、レザーのジャケットの腕にあるシガーポケットにしまいました。


マイルドセブンの箱は、窓から投げ捨てました。
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