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崖の上の幽霊屋敷
潮風と小さな希望
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「本当にここで良いんだね?修繕には、時間も費用も掛かるよ?」
でっぷりと太った、中年の不動産屋は、理紗の決断が完全に間違えているかのような口ぶりだった。
(ええ…時間を掛けてゆっくり直しますから。ここに決めました。)
理紗はたったひとりで日本に帰国した。
新居は関東某所、崖の上の古い洋館。
修繕がかなり必要なので、ここ数年、買い手が付かず放置されていたので、近所では幽霊屋敷と呼ばれていると不動産屋が教えてくれた。
「苦労すると判ってて、こんな古い屋敷をなんで買うんだい?」
幽霊屋敷の話といい、不動産屋のこの投げやりな態度に、本当に家を売る気があるのかしらと理紗は呆れた。
古いけれど大きな暖炉があるし、海が一望できる広いリビングがある事が購入の決め手だった。
… 時間は沢山あるんだもの。退屈しのぎに丁度良いわ。
アメリカから持って来た少ない荷物を解いた。
…今頃 イヴァン驚いてるわね。
理紗は綿密な計画を立てた。仲の良い友人にさえその計画を打ち明けなかった。
処方された薬は飲まず、トイレに捨てていた。
荷物は判らないように知り合いの家に少しづつ送った。大人しく従順な振りをしてイヴァンを安心させた。夜の勤めも嫌がらずに受け入れ警戒を解いた。
帰国数日前に、イヴァンはいつものように寝室で女とたっぷりと楽しんだ後、そのまま海外公演へと出発した。
何カ月も盗撮し、撮り溜めたイヴァンと女達の情事。ワインと
〈猫達に餌を与える指揮者の演奏会〉
と、美しい飾り文字で書かれたカードを添えてイヴァンの両親へと送りつけた。
イヴァンがどう誤魔化そうと、無駄足に終わり、敬虔なクリスチャンの両親は今度こそ、ズボンのチャックが緩い女誑しの息子に愛想を尽かす事だろう。
少々の女遊びぐらい大目に見なさいと,やんわりと理紗に言い続けた義母は、親族にもビデオが渡っていると思い込み、今頃は肝を冷やしているに違いない。
空っぽになった部屋を見て、呆然とする夫の姿を想像した。体裁を気にするイヴァンは、コソコソとだが、必死になって理紗を探すだろう。
(ふふふっ)
久しぶりに心の底から笑った気がした。
…ここからが本当の人生の始まり。
もう誰にも邪魔されないと思うと、片付けも楽しかったし、久しぶりの解放感に胸がドキドキしていた。
「おい!」
その声に理紗は飛び上がった。
振り返ると、日に焼けた逞しい中年の男が立っていた。
その男は上から下まで舐めるように理紗を見た。
「何度も呼び鈴を押したんだが、壊れてるみたいだな。」
理紗は慌ててペンをとり自己紹介をした。
「不動産屋が言ってたけど、あんたホントにしゃべれないんだな。」
理紗は笑顔で頷いたが、男はぶっきらぼうに言うと部屋の中をキョロキョロと見回した。
…なんか嫌な人ね。
「あんた飯はどうするんだい?」
(何か適当に食べます。)
確かカップラーメンか何かあった筈と、理紗は荷物の中をごそごぞと調べた。
「道具も揃ってない様だし大変だろう。」
その間も男は、部屋の中を勝手に見て回っていた。
「今夜は家に飯を食いに来い。あんたの家の前の坂を下ってすぐ左手にある家だ。まぁ俺とあんたの家はお隣さんになるわけだ。夜の6時にうちに来な。」
男は名前も名乗らずに去って行った。
…強引な人ね。行くって言ってないのに。
約束の時間になるまでやることは沢山あった。理紗は蒸し暑い日本の夏をすっかり忘れていた。
…なんて蒸し暑いのかしら。
シャワーを浴びようにも、まずは掃除をしなければならず、あっという間に約束の時間になった。ぎりぎりまで悩んだが、断る事も出来ないし、行く事に決めた。
…ご近所付き合いも必要よね。
薄暗い坂道を下り、明かりがつく集落へと歩いた。その家はすぐに見つかった。表札には“古原”とあった。家の呼び鈴を押そうとした時に、ドアが開いた。
…びっくりした。
「あっ。父ちゃん!女の人が来たよ。」
理紗は静かに頭を下げた。
「外は熱いでしょ?どうぞ入って。」
小学生ぐらいの痩せた男の子だった。ランニングシャツに半ズボンを履いていた。部屋は綺麗に片付いていて物も少なかった。
「すぐに判ったか?」
理紗は静かに頷いた。
「お姉さんはどこから来たの?」
理紗は少し困った顔をした。
「この人はしゃべれないんだ。崖の上の洋館に引っ越してきたんだよ。」
男が子供に言った。
「えっ!!あの幽霊屋敷?」
子供がびっくりして言うと、男性がじろりと子供を睨んだ。
…子供は正直ね。
理紗は、笑った。
「ふーん。お姉さんの名前はなんていうの?」
理紗は、口を大きく動かして見せた。
「リ…サ?」
理紗はうんうんと頷いて笑い、自分を指して、理紗…そして子供を指さした。
「あ…僕は古原タイジ。小2だよ。」
理紗は男を指さした。
「父ちゃん?父ちゃんはタスクっていうんだ。漁師をしてるんだ。35歳だよ。」
台所で魚を裁いている父を指をさした。
「馬鹿…歳まで言わなくて良いんだ。」
理紗は思わずくすくすと笑った。
「母ちゃんは病気で死んじゃったんだ。」
タイジは仏壇の母親の写真を指さした。
…お母さん亡くなってしまったのね。
理紗は静かに頷くと、タスクの隣に立ち夕食の準備を手伝った。
それはとても美味しい男の漁師料理だった。
(とても美味しいです。お誘い頂きありがとうございます。)
理紗が書いた紙をちらりと見ただけで、タスクは煙草を吸い始めた。
「理紗さんはどこから来たの?」
(アメリカよ。)
「へぇ。アメリカで何をしていたの?」
(ピアノを弾いていたの。)
「ピアノの先生?」
タイジは、お箸で上手に刺身をとり少し醤油を付けて口に運んだ。
(売れないピアニストね。でも音楽の先生の免許も持ってるの。)
「ふーん。じゃぁさ…。」
しゃべり過ぎるタイジを見かねたタスクが、遮った。
「おい。タイジそんなに質問ばっかりしたら、理紗さんが食べられないだろ?」
「あっ…そっかごめんなさい。」
理紗は首を振って笑った。
「そういや…修理屋は頼んだかい?」
不愛想にタバコの煙に目を細めながら聞いた。理紗が首を横に振った。
「そうか…漁が無い時に、手伝ってやるよ。」
ご飯を御馳走になったあげく修理まで、そこまでお世話にはなれないと理紗は思った。
(お忙しいでしょうし、大丈夫です。)
タスクはそれ以上は何も言わず、タイジが美味しそうにご飯を食べるのを眺めていた。
翌朝
大きな物音で理紗は目が覚めた。
…まだ7時じゃない。
少し頭を起こして時計を見て、時差ボケでボーっとする頭を再び枕に埋めた。
…眠い。
理紗は鉛のように重い身体を起こし、椅子に掛けてあったガウンを羽織ると音がする場所を探した。
…屋根?
理紗が外に出てみると、タスクが屋根に上り修理をしていた。
「雨が降ったら大変だと思って。起こしちまったかい?」
…起こしちまったかいって…あんな大きな音を立ててたら誰だって起きちゃうわ。
理紗は思わず笑いながら部屋に戻り、コーヒーを煎れてタスクに持って行った。
「ああ いらんいらん。」
そういってタスクはさっさと帰ってしまった。
何も無い部屋でボーっとしていても仕方が無いので、理紗は朝早い海岸へ出かけた。まだ涼しい潮風はとても気持ちが良かった。
海岸では犬を散歩する人やジョギングをする人などが居た。
浜辺の階段をのぼり、小さな家が並ぶ海岸沿いを歩くと、スーパーや居酒屋、バーなどがある通りへと出た。
…やっと日本に帰って来たのね。
磯の香りと、どこかの家の朝の味噌汁の匂いが漂う海岸で大きく深呼吸をした。
理紗は大学を卒業してからずっと外国暮らしが続いていた。大きく深呼吸をすると、惣菜やみそ汁などの懐かしい香りがした。
水をまく人や学校へ通う学生が通り過ぎて行く。
…そうか。夏休みはまだなのね。
「おはようございます。」「おはようございます。」
通り過ぎていく小学生や中学生が次々に挨拶をしていくので、理紗はその度に会釈を返した。
――― グーッ。
お腹が鳴って朝食がまだな事に気が付いた。小さなパン屋を見つけた。高校生がパンを買っていた。
…こんな朝早くからやっているのね。
焼き立てパンの良い香りが漂っていた。
「いらっしゃい。あなたこの辺りでみない顔ね?」
店番をしていた人懐っこい中年の女性が理紗に声を掛けたので、紙と鉛筆をごそごそと出した。
「…ああ!そう言えば、タスクちゃんが言ってたわね。綺麗な女の人が引っ越してきたって。あなたね?」
綺麗な女の人と言われて理紗は気恥ずかしかった。そんなことは無いですと手を振った。
「ホントに綺麗ねぇ。」
自己紹介を簡単にして菓子パンを買って家に戻った。
…さぁてと。ピアノが来る前に出来ることをしておかなくっちゃ。
理紗は近所に配るチラシや名刺を作ったり、玄関に飾る看板を作ったりした。
“リサピアノ教室”
家具も少しづつ揃えた。あっと言う間に数週間が過ぎた。
…後はアルバイトを探さなくっちゃ。
電車で2駅ほどで大きな駅へとたどり着いた。米軍基地が近く、バーなどの飲食店が立ち並んでいた。看板も無く、良く見るとバーだと判る店にそっと入った。 20席程の小さな店舗で、カウンターが並んでいた。店の奥のこじんまりとした場所にピアノが置かれていた。
「いらっしゃい。」
カウンターの中にいる女性が、入って来た理紗に声を掛けた。どうやらオーナーのようだ。小柄で口の大きな和服が似合いそうな日本美人だった。
(ビールを下さい。)
早速、理紗は交渉を始めた。
(こちらで働かせてください。アメリカでピアニストをしていました。)
…って言っても売れていないピアニストだったけれど。
アメリカ人と思われる客が数人と、日本人の若いカップルが座っていた。
「筆記だけど、英語も大丈夫ね?」
(はい。)
「どんな曲が弾けるの?」
(クラシック、ジャズ、ポップスなんでも弾きます。)
「そう…じゃぁ…何か弾いてみて?あのピアノ殆ど飾りみたくなっちゃってるんだけど。」
理紗はドビュッシーの月光、ラプソディー・イン・ブルー、ナット・キング・コールのL-O-V-Eなど次々に弾いた。
店内から拍手が起こった。それを聞くと理紗はホッとしてカウンターに戻った。
「上手ね音大出てるの?」
小柄な女性でこのバーのママは、タエと名乗った。理紗は頷くと名刺を渡した。
「うーん。静かに飲みたいって人も居るからねぇ。」
(週に2-3回でも良いのでお願いします。)
「じゃぁ明日履歴書持って来てくれる?」
…良かった。
理紗は深々と頭を下げた。
(他のお店も紹介して頂けないでしょうか?)
図々しいとは思いつつも、勇気を出して聞いてみた。ウィスキーの水割りを作りながら、タエは理紗をちらりと見た。
「知り合いがやってるお店を紹介してあげる。今から行ってみる?」
タエは、サラサラとメモに何か書いて理紗に渡した。
“この子を雇ってあげて タエ”
…えっ。これだけ?
理紗はそのメモを見てびっくりした。
「この店の3軒先…夫がアイリッシュ・バーをやってるの。オンボロのアップライトだけど。レジュメは英語でお願いね。明日持って来てくれたら渡しとくから。」
理紗はビールを飲み干すと再び深々と頭を下げた。通りへと出ると、ベースから来ていると思われるアメリカ人が沢山通りを歩いていた。
「Hi」「彼女一人?」
ほんの数メートル歩くだけなのに声を掛けられた。理紗は無視して歩くとアイリッシュバーから出て来た男性が手招きをしていた。理紗は慌ててそちらへ向かった。
「英語大丈夫なんでしょ?」
理紗は頷いた。
「この辺り、酔っ払い多いから気をつけて…さぁ入って。」
テレビが付いているその店の客はアメリカ人ばかりだった。
「タエの店より騒がしいけど。」
フレッドと名乗ったオーナーは、理紗に何か飲む?と聞いて来た。
(先ほどタエさんに頂いたのでお水を。)
「音大出てるんだって?」
(はい。音大卒業後、ニューヨークにある●●音楽学院を卒業しました。)
「へぇ~奇遇だね。僕もサックス科卒業だ。」
同じ学院卒業でフレッドと話が弾んだ。
「よし決まり♪タエのところに来ない平日に来てくれるかな?」
…そんな簡単に決めちゃって良いのかしら。
とんとん拍子で夜の仕事が決まった。
「タエと曜日は調整するから、OK?」
理紗はお礼を言うと明るい気持ちで店を後にした。
🐈⬛
「こんな立派なコンサート用のスタインウェイ…塩気でやられてしまいますよ。」
初めて屋敷を訪れた調律師が心配そうに理紗に言った。ピアノがやっと届き、一番眺めの良いテラス窓があるリビングルームの端に置いてもらった。
(良いんです。ピアノは使われてこそピアノですから。)
「個人のお宅でこのグレードのピアノを見たのは初め…あっ!あなた…もしかして…リサ・コンスタンティー二・ミヤコさん?!」
…えっ。
こんなところで自分の事を知っている人が居るなんてと一瞬、理紗は戸惑った。
「旦那さんの元から行方不明になったっていう日本人ピアニストで…」
(残念ながら違います。理紗って名前で良く間違えられるんですけど。)
理紗はにっこり笑った。
「いや~びっくりした。済みません。」
調律師は調律を終えると理紗が出したお茶を飲んで帰って行った。ネットも繋がったが、ここ1ヶ月見る暇が無かった。
PCを開いてみるとイヴァンからのメールが何通も来ていた。
怒り、懇願、脅し、悲しみ、そしてどれだけ自分が理紗の事を愛していたのか。
浮気をしていたけれど、本当に愛しているのは理紗だけだったと。
そしてイヴァンの年老いた両親からのメッセージ。息子が酷い仕打ちをしたことを謝罪するもので、女癖の悪いあんな馬鹿息子とは別れた方が良いと離婚を勧められた。
敬虔なクリスチャンのイヴァンの両親が、ビデオの中で、ほぼ毎回違う女性と可愛い息子が睦みあう姿を観たとしたら、どんなにショックを受けた事だろう。
理紗が唯一イヴァンに出来た復讐だった。
同じ音楽学院卒業の友人からも何か手伝えることがあればと援助協力のメールが何通も届いていた。
毎日がとても充実していた。久しぶりの一人暮らしの生活は楽しかった。
でっぷりと太った、中年の不動産屋は、理紗の決断が完全に間違えているかのような口ぶりだった。
(ええ…時間を掛けてゆっくり直しますから。ここに決めました。)
理紗はたったひとりで日本に帰国した。
新居は関東某所、崖の上の古い洋館。
修繕がかなり必要なので、ここ数年、買い手が付かず放置されていたので、近所では幽霊屋敷と呼ばれていると不動産屋が教えてくれた。
「苦労すると判ってて、こんな古い屋敷をなんで買うんだい?」
幽霊屋敷の話といい、不動産屋のこの投げやりな態度に、本当に家を売る気があるのかしらと理紗は呆れた。
古いけれど大きな暖炉があるし、海が一望できる広いリビングがある事が購入の決め手だった。
… 時間は沢山あるんだもの。退屈しのぎに丁度良いわ。
アメリカから持って来た少ない荷物を解いた。
…今頃 イヴァン驚いてるわね。
理紗は綿密な計画を立てた。仲の良い友人にさえその計画を打ち明けなかった。
処方された薬は飲まず、トイレに捨てていた。
荷物は判らないように知り合いの家に少しづつ送った。大人しく従順な振りをしてイヴァンを安心させた。夜の勤めも嫌がらずに受け入れ警戒を解いた。
帰国数日前に、イヴァンはいつものように寝室で女とたっぷりと楽しんだ後、そのまま海外公演へと出発した。
何カ月も盗撮し、撮り溜めたイヴァンと女達の情事。ワインと
〈猫達に餌を与える指揮者の演奏会〉
と、美しい飾り文字で書かれたカードを添えてイヴァンの両親へと送りつけた。
イヴァンがどう誤魔化そうと、無駄足に終わり、敬虔なクリスチャンの両親は今度こそ、ズボンのチャックが緩い女誑しの息子に愛想を尽かす事だろう。
少々の女遊びぐらい大目に見なさいと,やんわりと理紗に言い続けた義母は、親族にもビデオが渡っていると思い込み、今頃は肝を冷やしているに違いない。
空っぽになった部屋を見て、呆然とする夫の姿を想像した。体裁を気にするイヴァンは、コソコソとだが、必死になって理紗を探すだろう。
(ふふふっ)
久しぶりに心の底から笑った気がした。
…ここからが本当の人生の始まり。
もう誰にも邪魔されないと思うと、片付けも楽しかったし、久しぶりの解放感に胸がドキドキしていた。
「おい!」
その声に理紗は飛び上がった。
振り返ると、日に焼けた逞しい中年の男が立っていた。
その男は上から下まで舐めるように理紗を見た。
「何度も呼び鈴を押したんだが、壊れてるみたいだな。」
理紗は慌ててペンをとり自己紹介をした。
「不動産屋が言ってたけど、あんたホントにしゃべれないんだな。」
理紗は笑顔で頷いたが、男はぶっきらぼうに言うと部屋の中をキョロキョロと見回した。
…なんか嫌な人ね。
「あんた飯はどうするんだい?」
(何か適当に食べます。)
確かカップラーメンか何かあった筈と、理紗は荷物の中をごそごぞと調べた。
「道具も揃ってない様だし大変だろう。」
その間も男は、部屋の中を勝手に見て回っていた。
「今夜は家に飯を食いに来い。あんたの家の前の坂を下ってすぐ左手にある家だ。まぁ俺とあんたの家はお隣さんになるわけだ。夜の6時にうちに来な。」
男は名前も名乗らずに去って行った。
…強引な人ね。行くって言ってないのに。
約束の時間になるまでやることは沢山あった。理紗は蒸し暑い日本の夏をすっかり忘れていた。
…なんて蒸し暑いのかしら。
シャワーを浴びようにも、まずは掃除をしなければならず、あっという間に約束の時間になった。ぎりぎりまで悩んだが、断る事も出来ないし、行く事に決めた。
…ご近所付き合いも必要よね。
薄暗い坂道を下り、明かりがつく集落へと歩いた。その家はすぐに見つかった。表札には“古原”とあった。家の呼び鈴を押そうとした時に、ドアが開いた。
…びっくりした。
「あっ。父ちゃん!女の人が来たよ。」
理紗は静かに頭を下げた。
「外は熱いでしょ?どうぞ入って。」
小学生ぐらいの痩せた男の子だった。ランニングシャツに半ズボンを履いていた。部屋は綺麗に片付いていて物も少なかった。
「すぐに判ったか?」
理紗は静かに頷いた。
「お姉さんはどこから来たの?」
理紗は少し困った顔をした。
「この人はしゃべれないんだ。崖の上の洋館に引っ越してきたんだよ。」
男が子供に言った。
「えっ!!あの幽霊屋敷?」
子供がびっくりして言うと、男性がじろりと子供を睨んだ。
…子供は正直ね。
理紗は、笑った。
「ふーん。お姉さんの名前はなんていうの?」
理紗は、口を大きく動かして見せた。
「リ…サ?」
理紗はうんうんと頷いて笑い、自分を指して、理紗…そして子供を指さした。
「あ…僕は古原タイジ。小2だよ。」
理紗は男を指さした。
「父ちゃん?父ちゃんはタスクっていうんだ。漁師をしてるんだ。35歳だよ。」
台所で魚を裁いている父を指をさした。
「馬鹿…歳まで言わなくて良いんだ。」
理紗は思わずくすくすと笑った。
「母ちゃんは病気で死んじゃったんだ。」
タイジは仏壇の母親の写真を指さした。
…お母さん亡くなってしまったのね。
理紗は静かに頷くと、タスクの隣に立ち夕食の準備を手伝った。
それはとても美味しい男の漁師料理だった。
(とても美味しいです。お誘い頂きありがとうございます。)
理紗が書いた紙をちらりと見ただけで、タスクは煙草を吸い始めた。
「理紗さんはどこから来たの?」
(アメリカよ。)
「へぇ。アメリカで何をしていたの?」
(ピアノを弾いていたの。)
「ピアノの先生?」
タイジは、お箸で上手に刺身をとり少し醤油を付けて口に運んだ。
(売れないピアニストね。でも音楽の先生の免許も持ってるの。)
「ふーん。じゃぁさ…。」
しゃべり過ぎるタイジを見かねたタスクが、遮った。
「おい。タイジそんなに質問ばっかりしたら、理紗さんが食べられないだろ?」
「あっ…そっかごめんなさい。」
理紗は首を振って笑った。
「そういや…修理屋は頼んだかい?」
不愛想にタバコの煙に目を細めながら聞いた。理紗が首を横に振った。
「そうか…漁が無い時に、手伝ってやるよ。」
ご飯を御馳走になったあげく修理まで、そこまでお世話にはなれないと理紗は思った。
(お忙しいでしょうし、大丈夫です。)
タスクはそれ以上は何も言わず、タイジが美味しそうにご飯を食べるのを眺めていた。
翌朝
大きな物音で理紗は目が覚めた。
…まだ7時じゃない。
少し頭を起こして時計を見て、時差ボケでボーっとする頭を再び枕に埋めた。
…眠い。
理紗は鉛のように重い身体を起こし、椅子に掛けてあったガウンを羽織ると音がする場所を探した。
…屋根?
理紗が外に出てみると、タスクが屋根に上り修理をしていた。
「雨が降ったら大変だと思って。起こしちまったかい?」
…起こしちまったかいって…あんな大きな音を立ててたら誰だって起きちゃうわ。
理紗は思わず笑いながら部屋に戻り、コーヒーを煎れてタスクに持って行った。
「ああ いらんいらん。」
そういってタスクはさっさと帰ってしまった。
何も無い部屋でボーっとしていても仕方が無いので、理紗は朝早い海岸へ出かけた。まだ涼しい潮風はとても気持ちが良かった。
海岸では犬を散歩する人やジョギングをする人などが居た。
浜辺の階段をのぼり、小さな家が並ぶ海岸沿いを歩くと、スーパーや居酒屋、バーなどがある通りへと出た。
…やっと日本に帰って来たのね。
磯の香りと、どこかの家の朝の味噌汁の匂いが漂う海岸で大きく深呼吸をした。
理紗は大学を卒業してからずっと外国暮らしが続いていた。大きく深呼吸をすると、惣菜やみそ汁などの懐かしい香りがした。
水をまく人や学校へ通う学生が通り過ぎて行く。
…そうか。夏休みはまだなのね。
「おはようございます。」「おはようございます。」
通り過ぎていく小学生や中学生が次々に挨拶をしていくので、理紗はその度に会釈を返した。
――― グーッ。
お腹が鳴って朝食がまだな事に気が付いた。小さなパン屋を見つけた。高校生がパンを買っていた。
…こんな朝早くからやっているのね。
焼き立てパンの良い香りが漂っていた。
「いらっしゃい。あなたこの辺りでみない顔ね?」
店番をしていた人懐っこい中年の女性が理紗に声を掛けたので、紙と鉛筆をごそごそと出した。
「…ああ!そう言えば、タスクちゃんが言ってたわね。綺麗な女の人が引っ越してきたって。あなたね?」
綺麗な女の人と言われて理紗は気恥ずかしかった。そんなことは無いですと手を振った。
「ホントに綺麗ねぇ。」
自己紹介を簡単にして菓子パンを買って家に戻った。
…さぁてと。ピアノが来る前に出来ることをしておかなくっちゃ。
理紗は近所に配るチラシや名刺を作ったり、玄関に飾る看板を作ったりした。
“リサピアノ教室”
家具も少しづつ揃えた。あっと言う間に数週間が過ぎた。
…後はアルバイトを探さなくっちゃ。
電車で2駅ほどで大きな駅へとたどり着いた。米軍基地が近く、バーなどの飲食店が立ち並んでいた。看板も無く、良く見るとバーだと判る店にそっと入った。 20席程の小さな店舗で、カウンターが並んでいた。店の奥のこじんまりとした場所にピアノが置かれていた。
「いらっしゃい。」
カウンターの中にいる女性が、入って来た理紗に声を掛けた。どうやらオーナーのようだ。小柄で口の大きな和服が似合いそうな日本美人だった。
(ビールを下さい。)
早速、理紗は交渉を始めた。
(こちらで働かせてください。アメリカでピアニストをしていました。)
…って言っても売れていないピアニストだったけれど。
アメリカ人と思われる客が数人と、日本人の若いカップルが座っていた。
「筆記だけど、英語も大丈夫ね?」
(はい。)
「どんな曲が弾けるの?」
(クラシック、ジャズ、ポップスなんでも弾きます。)
「そう…じゃぁ…何か弾いてみて?あのピアノ殆ど飾りみたくなっちゃってるんだけど。」
理紗はドビュッシーの月光、ラプソディー・イン・ブルー、ナット・キング・コールのL-O-V-Eなど次々に弾いた。
店内から拍手が起こった。それを聞くと理紗はホッとしてカウンターに戻った。
「上手ね音大出てるの?」
小柄な女性でこのバーのママは、タエと名乗った。理紗は頷くと名刺を渡した。
「うーん。静かに飲みたいって人も居るからねぇ。」
(週に2-3回でも良いのでお願いします。)
「じゃぁ明日履歴書持って来てくれる?」
…良かった。
理紗は深々と頭を下げた。
(他のお店も紹介して頂けないでしょうか?)
図々しいとは思いつつも、勇気を出して聞いてみた。ウィスキーの水割りを作りながら、タエは理紗をちらりと見た。
「知り合いがやってるお店を紹介してあげる。今から行ってみる?」
タエは、サラサラとメモに何か書いて理紗に渡した。
“この子を雇ってあげて タエ”
…えっ。これだけ?
理紗はそのメモを見てびっくりした。
「この店の3軒先…夫がアイリッシュ・バーをやってるの。オンボロのアップライトだけど。レジュメは英語でお願いね。明日持って来てくれたら渡しとくから。」
理紗はビールを飲み干すと再び深々と頭を下げた。通りへと出ると、ベースから来ていると思われるアメリカ人が沢山通りを歩いていた。
「Hi」「彼女一人?」
ほんの数メートル歩くだけなのに声を掛けられた。理紗は無視して歩くとアイリッシュバーから出て来た男性が手招きをしていた。理紗は慌ててそちらへ向かった。
「英語大丈夫なんでしょ?」
理紗は頷いた。
「この辺り、酔っ払い多いから気をつけて…さぁ入って。」
テレビが付いているその店の客はアメリカ人ばかりだった。
「タエの店より騒がしいけど。」
フレッドと名乗ったオーナーは、理紗に何か飲む?と聞いて来た。
(先ほどタエさんに頂いたのでお水を。)
「音大出てるんだって?」
(はい。音大卒業後、ニューヨークにある●●音楽学院を卒業しました。)
「へぇ~奇遇だね。僕もサックス科卒業だ。」
同じ学院卒業でフレッドと話が弾んだ。
「よし決まり♪タエのところに来ない平日に来てくれるかな?」
…そんな簡単に決めちゃって良いのかしら。
とんとん拍子で夜の仕事が決まった。
「タエと曜日は調整するから、OK?」
理紗はお礼を言うと明るい気持ちで店を後にした。
🐈⬛
「こんな立派なコンサート用のスタインウェイ…塩気でやられてしまいますよ。」
初めて屋敷を訪れた調律師が心配そうに理紗に言った。ピアノがやっと届き、一番眺めの良いテラス窓があるリビングルームの端に置いてもらった。
(良いんです。ピアノは使われてこそピアノですから。)
「個人のお宅でこのグレードのピアノを見たのは初め…あっ!あなた…もしかして…リサ・コンスタンティー二・ミヤコさん?!」
…えっ。
こんなところで自分の事を知っている人が居るなんてと一瞬、理紗は戸惑った。
「旦那さんの元から行方不明になったっていう日本人ピアニストで…」
(残念ながら違います。理紗って名前で良く間違えられるんですけど。)
理紗はにっこり笑った。
「いや~びっくりした。済みません。」
調律師は調律を終えると理紗が出したお茶を飲んで帰って行った。ネットも繋がったが、ここ1ヶ月見る暇が無かった。
PCを開いてみるとイヴァンからのメールが何通も来ていた。
怒り、懇願、脅し、悲しみ、そしてどれだけ自分が理紗の事を愛していたのか。
浮気をしていたけれど、本当に愛しているのは理紗だけだったと。
そしてイヴァンの年老いた両親からのメッセージ。息子が酷い仕打ちをしたことを謝罪するもので、女癖の悪いあんな馬鹿息子とは別れた方が良いと離婚を勧められた。
敬虔なクリスチャンのイヴァンの両親が、ビデオの中で、ほぼ毎回違う女性と可愛い息子が睦みあう姿を観たとしたら、どんなにショックを受けた事だろう。
理紗が唯一イヴァンに出来た復讐だった。
同じ音楽学院卒業の友人からも何か手伝えることがあればと援助協力のメールが何通も届いていた。
毎日がとても充実していた。久しぶりの一人暮らしの生活は楽しかった。
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しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。
「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」
手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。
なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。
怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。
だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって――
「…ほんとは、ずっと前から、私…」
ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。
恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。
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