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エピローグ
ひとりのファンとして
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――― NY公演。
理紗と隆は新婚旅行に来ていた。理紗の古巣のオーケストラと真啓の公演があるとの事で、わざわざ旅行の途中で立ち寄った。
隆は止めたが、どうしてもと理紗のたっての願いで、コンサートを見ることになった。そして、真啓に招待されて打ち上げパーティーに顔を出すことになった。
「バーバラ先生が君に会うのを楽しみにしているよ。」
真啓はにこにこと笑っていたが、緊張した面持ちだった。理紗が昔の仲間に声を掛けられて楽しそうに話をしているのを不安げに見ている隆に真啓が言った。
「大丈夫ですよ。ここにいる人達は、理紗が記憶を無くしてしまったことを話していますし、口止めしてあります。」
「僕は、どうしても止めたかったんです。しかし…。」
「理紗も頑固なところがありますからね。それに恩師のバーバラ先生がご結婚されたのを知らずに居たので、どうしても挨拶がしたいと僕もしつこく言われてしまいました。本当に済みません。」
真啓は、隆に申し訳なさそうに言った。隆は落ち着かず、理紗を守る様にぴったりと寄り添っていた。
「身内の打ち上げに、身内でも無いわたしがお邪魔してごめんなさい。でもバーバラ先生にはどうしてもお会いしたかったの。」
バーバラが結婚したという噂を聞いたが、誰も友人達が教えてくれなかったことに、理紗は少々腹を立てていた。
「先生も水臭いわ…ご結婚されたことを教えて下さらないなんて…。」
真啓と隆はちらりとお互いを見た。
「きっと子供さんも小さかったし、バーバラ先生は気を使ったんだよ。」
真啓が宥めるように言った。会場で、バーバラを見つけると、理紗は掛け寄った。
「バーバラ先生っ!」
バーバラは理紗を見つけると嬉しそうにやって来た。
「リサっ!あなた…元気だった?」
理紗がアメリカを離れて約10年の月日が流れていた。
「いつも葉書をありがとうね。子供さんは?」
「母が見てくれているんです。」
バーバラは隆を見ると初めましてと挨拶を交わした。
「先生酷いですわっ!ご結婚されたと聞いてびっくりしましたの。相手はどんな方ですか?ご挨拶させて頂かないと…。」
バーバラは真啓をじっと見つめていた。その場に居た、真啓、隆にも緊張が走った。
「バーバラ…わたしの腕時計が…。」
着替えを済ませて来たイヴァンが出て来て、理紗の姿を見て一瞬動きを止めた。
「あら?あの方ですの?」
理紗はバーバラに小声で言った。
「え…あ…ええ。そうよ…。」
イヴァンとバーバラは数年前に結婚していた。女遊びも歳を取るにつれて落ち着いていた。
「素敵な方ですわね。」
理紗はにこにこと、イヴァンの元へと向かったので、バーバラが慌てて追いかけた。真啓も隆も傍で固唾をのんで見守っていた。
「宮子理紗と申します。バーバラ先生には在学中とてもお世話になっていましたの。」
理紗は優しい笑顔を浮かべて、イヴァンに握手を求めた。何も言わずに思わず手を出し握手をしてしまったイヴァン。
「えっ…あの…イヴァン。紹介が遅れたわね。こちらは私の生徒だった、理紗よ。そしてこちらは、夫のイヴァンです。」
イヴァンのブルー・アイが、大きく見開かれ理紗をじっと見つめていた。
「初めまして。日本でピアニストをしていますの。」
理紗は静かにイヴァンに言った。
「…。」
「あの…わたし…以前あなたにお会いしたことがありますか?」
理紗はイヴァンを真っすぐに見つめて言った。とても長い沈黙が流れて、イヴァンはゆっくりと口を開いた。
「いいえ…初対面ですよ。こんな美しい方とお会いして居たら、私が忘れるわけが無いですから。」
理紗は、あらお上手ですねと嬉しそうに笑った。隆も真啓もそれを聞くとホッと胸を撫でおろした。
「バーバラ先生とは、どちらで知り合われたんですか?」
「バーバラは、私の同僚です。わたしは学院で、指揮科の教鞭を取っています。」
イヴァンが優しく微笑んだ。
「そうだったんですか…。教鞭を取られて、どれくら…。」
―――♪~♪
理紗の携帯が鳴った。
「息子から電話ですわ。ちょっと失礼します。」
理紗はイヴァンから離れて、会場の隅へと行き電話をとった。
「本当に…彼女は何もかも忘れてしまったんだね…。」
イヴァンは嬉しそうに電話で話をする理紗の姿を眺めていた。
「ええ…あなたの記憶に関わる全ての事を忘れてしまったんです。」
真啓が静かに言った。
「理紗の笑った顔…結婚した後ですら見た事が無かった…。バーバラ。君に気を使わせてしまって済まないね。」
イヴァンはバーバラの肩をそっと抱いた。
「わたしは、彼女が戻って来る前に失礼するよ。バーバラ…君は彼女と積もる話もあるだろうからね。」
イヴァンは周りに挨拶をすると会場を出て行った。
「拓斗~!!もうすぐパパが帰って来るから、お家に入りなさいね。」
理紗は初の世界ツアーを無事に終わらせて、名実ともにピアニストの仲間入りを果たした。そして、今はつかの間の家族水入らずの生活を送っていた。理紗がキッチンから、庭で遊んでいる拓斗(たくと)に声を掛けた。崖の上の屋敷にからは夕日でキラキラと光る海が見えた。
「余り崖の方へ行っては駄目よ…危ないから。」
理紗が再び声を掛ける。
「うん。判ってるよ…どうせ囲いがあって、崖には降りられないだろ?」
庭には小さな砂場や、枝に紐と板を吊るしただけのブランコなどがあり、学校から帰って来ると拓斗は友達とよく遊んでいた。
「ママ―!!タイジ君はいつくるの~?!今何時?僕今日はタイジ君と一緒に寝るんだ。」
理紗がピアノを教えていた、漁師のタスクの息子タイジも中学生になっていた。
「まだ早いわよー。小学校とは違って、中学生はお勉強を沢山しなくちゃいけないから。」
理紗の息子の拓斗は、タイジに良くなついていて、くっついて回っていた。
「ちょっと自転車止まってるか、僕見てくる~。」
タイジが家に戻って来ていれば、自転車が見える筈なので、坂の途中まで降りて、自転車があるかどうかを確認するために坂を下りて行った。
「ちぇっ…まだ戻って来て無いや。」
タイジの家には電気もついておらず、父親の車もタイジの自転車も無かった。
家に戻ろうと坂を上がりかけた時に、タクシーが拓斗の目の前に止まった。
中から大きな銀髪の男性が降りて来た。
――― バタンッ。
ドアが閉まると、ここで暫く待つようにと話しているようだった。きょとんとした顔で男性の顔を見ていると、声を掛けて来た。
「やぁ…。」
その男性は、英語で話しかけて来た。
「こんにちは…。」
拓斗は理紗に英語を少し教わっていた。
「おっ…君は英語も話せるのかい?」
「…ちょっと…。」
「君の名前は?」
「拓斗…。」
「takt!ドイツ語だね。」
銀髪の男性は、にこにこと笑った。
「ど…いつ?」
「オーケストラの指揮者が使うバトンをドイツ語ではタクトと言うんだよ。」
オーケストラという言葉だけは聞き取れた、拓斗はおそるおそる男性に聞いた。
「おじさんは…ママのお友達?」
「ママ?」
「うん♪」
「ママのお名前は?」
「リサ…。」
男性はその言葉を聞くと一瞬驚いた顔をした。
「ピアニストの?」
「うん…ピアノの先生もしてるよ。」
「そうか…君が理紗の息子…なんだね。」
真っ黒な瞳で、男性をじっと見つめている黒髪の男の子。
「僕のママのこと知ってるの?」
男性は、崖の上の屋敷をじっと見ていた。
「あ…ああ。君のママとは旧知の仲だよ。」
「キュウ…チノ…ナカ?」
「昔のお友達だよ。おじさんの代わりに、ママに渡して貰いたいものがあるんだ。」
「ママならお家に今居るよ?呼んでこようか?」
走り出しそうになったタクトを慌てて止めた。
「あっ…いや…良いんだ。ママは忙しいだろうし、わたしはタクシーを待たせてあるから…だから、渡して来てくれないかな?」
拓斗は頷いた。ちょっと待っててと言って男性がタクシーから戻って来ると、大きな青色のバラの花束を抱えていた。
「わぁ~おじさんママの好きな花を知ってるの?」
子供が抱えるには少々大きすぎる花束をしっかりと拓斗は持った。
「勿論…知ってるさ…古いお友達だからね。お手紙が中に入っているから花束と渡してくれないかい?」
「うん…良いよ。」
「じゃぁ…よろしく頼んだよ。」
男性は拓斗に優しく微笑んだ。
「判った~!ちょっと待っててねぇ。」
大きな花束を抱え、元気よく坂道を駆け上がって行く拓斗の背中を男性はじっと眺めていた。
「ママ―!ママ―!!」
玄関のドアを開けると、拓斗が大きな声で理紗を呼んだ。
「はいはい…どうした…の?」
「これ…知らない人がくれたの。ママにだって。」
「あら…まだいらっしゃるの?」
「うん。坂の下にいるよ。」
理紗は、靴を履くと、慌てて坂を下りて行ったが、既に誰も居なかった。
「あれ…可笑しいなぁ…さっきおじさんとタクシーがここに…。」
「そう…。」
「あっ…お手紙が入ってるって言ってたよ。」
「そのお手紙にきっと名前が書いてあるわね。」
理紗は拓斗と今来た道を家へと戻った。
――♪~♪
車のクラクションの音がした。振り向くと隆が駐車場に車を止めたところだった。
「あっ!パパだ~。おかえり~!!」
鍵を閉める音が聞こえると隆が車から出て来た。
「ふたりでお出迎えなんて珍しいね…嬉しいけれど。」
「うん。さっき知らないおじさんが、ママにって花束くれたの。」
隆が理紗を見ると静かに頷いた。
「大きな青いバラの花だよ!!ママの大好きな花!!」
3人で家に入ると、理紗は大きな花束についていた手紙を開けた。
「あら…またこの方。あなた…見て?」
隆が手紙を見た。
<ワールド・ツアーの成功、おめでとうございます。これからのあなたの活躍をお祈りいたします。 E・C>
流れる様な直筆で書かれた手紙だった。
「ねえ、ママこの人だあれ?」
隆は理紗と拓斗のやりとりを静かに聞いていた。
「んー…ママがデビュー当時からのファンの方?お名前は判らないんだけれど、コンサートの度にお花を送って下さるの。」
理紗は優しく拓斗の頭を撫でながら微笑んだ。
「ふーん。ママ凄いねぇ。」
拓斗は尊敬のまなざしで理紗を見ていた。
「何の香りかしら?」
ふわりと甘い香りがした。
「何?何?」
拓斗も手紙を覗き込み、徐に手紙に鼻をくっつけた。
「あっ。これさっきのおじさんの匂いだ。甘い香りがするね…。」
理紗も、そっと香りを嗅いでみた。
…とても懐かしい香り。
「この香り…どこかで嗅いだことがあるんだけれど、どうしても思い出せないの。何だったかしら。」
考え込んでいる理紗を隆は静かに眺めていた。
「バラの香りかい?」
イヴァンは理紗の公演には必ず青い花を送って来た。それは理紗のデビュー当時からずっと続いている。知っているのは隆と真啓だけだった。
「いいえ…青いバラの花は美しいけれど、殆ど香りはしないのよ。」
ほら…と言って大きな花束を隆に近づけた。
「不可能な事を努力で成し遂げてきた、君にぴったりな花だね。」
微かに青々とした葉や茎の香りがするだけで、バラ独特の甘い香りは全くしなかった。
「楽しくて…とても…切ない香りなの…。」
そして、隆は理紗の肩をそっと抱いた。
「さぁ…お腹が減ったよ…今日の夕食は何かな?」
理紗にキスをしながら隆は優しく笑った。
(終)
理紗と隆は新婚旅行に来ていた。理紗の古巣のオーケストラと真啓の公演があるとの事で、わざわざ旅行の途中で立ち寄った。
隆は止めたが、どうしてもと理紗のたっての願いで、コンサートを見ることになった。そして、真啓に招待されて打ち上げパーティーに顔を出すことになった。
「バーバラ先生が君に会うのを楽しみにしているよ。」
真啓はにこにこと笑っていたが、緊張した面持ちだった。理紗が昔の仲間に声を掛けられて楽しそうに話をしているのを不安げに見ている隆に真啓が言った。
「大丈夫ですよ。ここにいる人達は、理紗が記憶を無くしてしまったことを話していますし、口止めしてあります。」
「僕は、どうしても止めたかったんです。しかし…。」
「理紗も頑固なところがありますからね。それに恩師のバーバラ先生がご結婚されたのを知らずに居たので、どうしても挨拶がしたいと僕もしつこく言われてしまいました。本当に済みません。」
真啓は、隆に申し訳なさそうに言った。隆は落ち着かず、理紗を守る様にぴったりと寄り添っていた。
「身内の打ち上げに、身内でも無いわたしがお邪魔してごめんなさい。でもバーバラ先生にはどうしてもお会いしたかったの。」
バーバラが結婚したという噂を聞いたが、誰も友人達が教えてくれなかったことに、理紗は少々腹を立てていた。
「先生も水臭いわ…ご結婚されたことを教えて下さらないなんて…。」
真啓と隆はちらりとお互いを見た。
「きっと子供さんも小さかったし、バーバラ先生は気を使ったんだよ。」
真啓が宥めるように言った。会場で、バーバラを見つけると、理紗は掛け寄った。
「バーバラ先生っ!」
バーバラは理紗を見つけると嬉しそうにやって来た。
「リサっ!あなた…元気だった?」
理紗がアメリカを離れて約10年の月日が流れていた。
「いつも葉書をありがとうね。子供さんは?」
「母が見てくれているんです。」
バーバラは隆を見ると初めましてと挨拶を交わした。
「先生酷いですわっ!ご結婚されたと聞いてびっくりしましたの。相手はどんな方ですか?ご挨拶させて頂かないと…。」
バーバラは真啓をじっと見つめていた。その場に居た、真啓、隆にも緊張が走った。
「バーバラ…わたしの腕時計が…。」
着替えを済ませて来たイヴァンが出て来て、理紗の姿を見て一瞬動きを止めた。
「あら?あの方ですの?」
理紗はバーバラに小声で言った。
「え…あ…ええ。そうよ…。」
イヴァンとバーバラは数年前に結婚していた。女遊びも歳を取るにつれて落ち着いていた。
「素敵な方ですわね。」
理紗はにこにこと、イヴァンの元へと向かったので、バーバラが慌てて追いかけた。真啓も隆も傍で固唾をのんで見守っていた。
「宮子理紗と申します。バーバラ先生には在学中とてもお世話になっていましたの。」
理紗は優しい笑顔を浮かべて、イヴァンに握手を求めた。何も言わずに思わず手を出し握手をしてしまったイヴァン。
「えっ…あの…イヴァン。紹介が遅れたわね。こちらは私の生徒だった、理紗よ。そしてこちらは、夫のイヴァンです。」
イヴァンのブルー・アイが、大きく見開かれ理紗をじっと見つめていた。
「初めまして。日本でピアニストをしていますの。」
理紗は静かにイヴァンに言った。
「…。」
「あの…わたし…以前あなたにお会いしたことがありますか?」
理紗はイヴァンを真っすぐに見つめて言った。とても長い沈黙が流れて、イヴァンはゆっくりと口を開いた。
「いいえ…初対面ですよ。こんな美しい方とお会いして居たら、私が忘れるわけが無いですから。」
理紗は、あらお上手ですねと嬉しそうに笑った。隆も真啓もそれを聞くとホッと胸を撫でおろした。
「バーバラ先生とは、どちらで知り合われたんですか?」
「バーバラは、私の同僚です。わたしは学院で、指揮科の教鞭を取っています。」
イヴァンが優しく微笑んだ。
「そうだったんですか…。教鞭を取られて、どれくら…。」
―――♪~♪
理紗の携帯が鳴った。
「息子から電話ですわ。ちょっと失礼します。」
理紗はイヴァンから離れて、会場の隅へと行き電話をとった。
「本当に…彼女は何もかも忘れてしまったんだね…。」
イヴァンは嬉しそうに電話で話をする理紗の姿を眺めていた。
「ええ…あなたの記憶に関わる全ての事を忘れてしまったんです。」
真啓が静かに言った。
「理紗の笑った顔…結婚した後ですら見た事が無かった…。バーバラ。君に気を使わせてしまって済まないね。」
イヴァンはバーバラの肩をそっと抱いた。
「わたしは、彼女が戻って来る前に失礼するよ。バーバラ…君は彼女と積もる話もあるだろうからね。」
イヴァンは周りに挨拶をすると会場を出て行った。
「拓斗~!!もうすぐパパが帰って来るから、お家に入りなさいね。」
理紗は初の世界ツアーを無事に終わらせて、名実ともにピアニストの仲間入りを果たした。そして、今はつかの間の家族水入らずの生活を送っていた。理紗がキッチンから、庭で遊んでいる拓斗(たくと)に声を掛けた。崖の上の屋敷にからは夕日でキラキラと光る海が見えた。
「余り崖の方へ行っては駄目よ…危ないから。」
理紗が再び声を掛ける。
「うん。判ってるよ…どうせ囲いがあって、崖には降りられないだろ?」
庭には小さな砂場や、枝に紐と板を吊るしただけのブランコなどがあり、学校から帰って来ると拓斗は友達とよく遊んでいた。
「ママ―!!タイジ君はいつくるの~?!今何時?僕今日はタイジ君と一緒に寝るんだ。」
理紗がピアノを教えていた、漁師のタスクの息子タイジも中学生になっていた。
「まだ早いわよー。小学校とは違って、中学生はお勉強を沢山しなくちゃいけないから。」
理紗の息子の拓斗は、タイジに良くなついていて、くっついて回っていた。
「ちょっと自転車止まってるか、僕見てくる~。」
タイジが家に戻って来ていれば、自転車が見える筈なので、坂の途中まで降りて、自転車があるかどうかを確認するために坂を下りて行った。
「ちぇっ…まだ戻って来て無いや。」
タイジの家には電気もついておらず、父親の車もタイジの自転車も無かった。
家に戻ろうと坂を上がりかけた時に、タクシーが拓斗の目の前に止まった。
中から大きな銀髪の男性が降りて来た。
――― バタンッ。
ドアが閉まると、ここで暫く待つようにと話しているようだった。きょとんとした顔で男性の顔を見ていると、声を掛けて来た。
「やぁ…。」
その男性は、英語で話しかけて来た。
「こんにちは…。」
拓斗は理紗に英語を少し教わっていた。
「おっ…君は英語も話せるのかい?」
「…ちょっと…。」
「君の名前は?」
「拓斗…。」
「takt!ドイツ語だね。」
銀髪の男性は、にこにこと笑った。
「ど…いつ?」
「オーケストラの指揮者が使うバトンをドイツ語ではタクトと言うんだよ。」
オーケストラという言葉だけは聞き取れた、拓斗はおそるおそる男性に聞いた。
「おじさんは…ママのお友達?」
「ママ?」
「うん♪」
「ママのお名前は?」
「リサ…。」
男性はその言葉を聞くと一瞬驚いた顔をした。
「ピアニストの?」
「うん…ピアノの先生もしてるよ。」
「そうか…君が理紗の息子…なんだね。」
真っ黒な瞳で、男性をじっと見つめている黒髪の男の子。
「僕のママのこと知ってるの?」
男性は、崖の上の屋敷をじっと見ていた。
「あ…ああ。君のママとは旧知の仲だよ。」
「キュウ…チノ…ナカ?」
「昔のお友達だよ。おじさんの代わりに、ママに渡して貰いたいものがあるんだ。」
「ママならお家に今居るよ?呼んでこようか?」
走り出しそうになったタクトを慌てて止めた。
「あっ…いや…良いんだ。ママは忙しいだろうし、わたしはタクシーを待たせてあるから…だから、渡して来てくれないかな?」
拓斗は頷いた。ちょっと待っててと言って男性がタクシーから戻って来ると、大きな青色のバラの花束を抱えていた。
「わぁ~おじさんママの好きな花を知ってるの?」
子供が抱えるには少々大きすぎる花束をしっかりと拓斗は持った。
「勿論…知ってるさ…古いお友達だからね。お手紙が中に入っているから花束と渡してくれないかい?」
「うん…良いよ。」
「じゃぁ…よろしく頼んだよ。」
男性は拓斗に優しく微笑んだ。
「判った~!ちょっと待っててねぇ。」
大きな花束を抱え、元気よく坂道を駆け上がって行く拓斗の背中を男性はじっと眺めていた。
「ママ―!ママ―!!」
玄関のドアを開けると、拓斗が大きな声で理紗を呼んだ。
「はいはい…どうした…の?」
「これ…知らない人がくれたの。ママにだって。」
「あら…まだいらっしゃるの?」
「うん。坂の下にいるよ。」
理紗は、靴を履くと、慌てて坂を下りて行ったが、既に誰も居なかった。
「あれ…可笑しいなぁ…さっきおじさんとタクシーがここに…。」
「そう…。」
「あっ…お手紙が入ってるって言ってたよ。」
「そのお手紙にきっと名前が書いてあるわね。」
理紗は拓斗と今来た道を家へと戻った。
――♪~♪
車のクラクションの音がした。振り向くと隆が駐車場に車を止めたところだった。
「あっ!パパだ~。おかえり~!!」
鍵を閉める音が聞こえると隆が車から出て来た。
「ふたりでお出迎えなんて珍しいね…嬉しいけれど。」
「うん。さっき知らないおじさんが、ママにって花束くれたの。」
隆が理紗を見ると静かに頷いた。
「大きな青いバラの花だよ!!ママの大好きな花!!」
3人で家に入ると、理紗は大きな花束についていた手紙を開けた。
「あら…またこの方。あなた…見て?」
隆が手紙を見た。
<ワールド・ツアーの成功、おめでとうございます。これからのあなたの活躍をお祈りいたします。 E・C>
流れる様な直筆で書かれた手紙だった。
「ねえ、ママこの人だあれ?」
隆は理紗と拓斗のやりとりを静かに聞いていた。
「んー…ママがデビュー当時からのファンの方?お名前は判らないんだけれど、コンサートの度にお花を送って下さるの。」
理紗は優しく拓斗の頭を撫でながら微笑んだ。
「ふーん。ママ凄いねぇ。」
拓斗は尊敬のまなざしで理紗を見ていた。
「何の香りかしら?」
ふわりと甘い香りがした。
「何?何?」
拓斗も手紙を覗き込み、徐に手紙に鼻をくっつけた。
「あっ。これさっきのおじさんの匂いだ。甘い香りがするね…。」
理紗も、そっと香りを嗅いでみた。
…とても懐かしい香り。
「この香り…どこかで嗅いだことがあるんだけれど、どうしても思い出せないの。何だったかしら。」
考え込んでいる理紗を隆は静かに眺めていた。
「バラの香りかい?」
イヴァンは理紗の公演には必ず青い花を送って来た。それは理紗のデビュー当時からずっと続いている。知っているのは隆と真啓だけだった。
「いいえ…青いバラの花は美しいけれど、殆ど香りはしないのよ。」
ほら…と言って大きな花束を隆に近づけた。
「不可能な事を努力で成し遂げてきた、君にぴったりな花だね。」
微かに青々とした葉や茎の香りがするだけで、バラ独特の甘い香りは全くしなかった。
「楽しくて…とても…切ない香りなの…。」
そして、隆は理紗の肩をそっと抱いた。
「さぁ…お腹が減ったよ…今日の夕食は何かな?」
理紗にキスをしながら隆は優しく笑った。
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