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034 フルムーンなのに
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バンドメンバーのユーキが、私のスネアドラムを蹴飛ばした。スネアドラムは缶詰みたいにくるくる転がり、猫が暴れたような騒がしさを撒き散らす。
バンドマンなら楽器をもっと大切にしろと誰かが擁護してくれるかもしれない。だけど、私にもそれなりのーーいや、かなりの非があった。
私のリズムは崩れていた。
「リコ。どういうつもりだ?」
ベーシストのユーキは、同じリズム隊として我慢の限界に達していた。声を荒げて私を問い詰める。
バンドにとってドラムのリズムは屋台骨。私は常にメトロノームのように正確だったし、ライブパフォーマンスならではのアップテンポを事前に要求されても問題なかった。
今までは。
私の体内時計は、秒針を失っていた。正しいリズムを刻めなくなっていた。
スティックを握る手に、力が入らない。
「明日は本番なんだぞ?」
ユーキは憤慨し、焦燥に駆られていた。
明日はバンド初のアリーナツアー初日。今日は、前日リハーサル。照明、音響スタッフを会場に入れての最終リハでもある。
「やめなよ。イヤモニが故障しただけかもしれないでしょ」
私をバンドに誘ってくれたギタリストのリョウさんが私を庇う。
「それは昨日もチェックしたよね。なんなら、今日もチェックした」
ボーカリストのセアラさんは冷たい目をしていた。私の意見など最初から何も求めていないようだった。
セアラさんは私以外のメンバーに提案、というか決定事項として告げる。
「とりあえず体調不良ってことで、早めにファンサイトにリコの休止報告しとこうよ。別にリコじゃなくても、優秀なサポートメンバーはいるんだから」
事実上のクビ宣告だった。
「私はもう……いりませんか?」
セアラさんは私の問いに答えてくれなかった。自分のうなじを撫でながら、セアラさんは何かを思い出そうとしていた。
「なんだっけ。リコが前にいたバンドの名前」
「Moon Bullet……です」
「そうそう、そんな名前。実はね、レコード会社は迷ってたらしいのよ。私たちのバンドと、あなたたちのバンド、どちらに声をかけるかーー」
とくん、と私の心臓が鳴る。だけど、その音は私の求めるリズムではない。不安定で、乱れている。
「それでリョウが言ったの。だったら一番替えの効きにくいドラムを引き抜いて、リコのバンド壊しちゃおうって」
私はリョウさんを見た。リョウさんは私から目を逸らした。このバンドの中では、私を認めてくれている唯一の人だと思っていた。私の腕を認めてくれたから、バンドに誘ってくれたのだとーー信じていた。
「つまり、私たちがレコード会社と契約できた時点で、リコの役目は終わってるの。あなたみたいに華のないドラマー、私たちが本気でスカウトするとでも?」
「私は……自分の技術に、自信を持ってます……」
「そうよ。あなたのドラムは正確無比。ソロの表現力も凄い。だけど、ヴィジュがね。私たちの表現する世界観には合わないの」
自分でも堂々と前に出ていけるような容姿じゃないと自覚はある。だからこそドラムのテクニックを磨いてきた。
しかし現在、私は頼みの綱である技術までも失っている。ドラムを叩けなくなっている。心がーー壊れている。
「リコ、誤解しないでよ。私たちはあなたを確かに利用した。だけど、あなたも私たちを利用したのよ。自分がプロになるために、仲間を裏切った」
セアラさんは言う。互いの利益が一致し、双方納得の上で、契約を結んだ、と。
私は元のバンドメンバーに吐き捨てた言葉を思い返していた。
プロを目指すなら、友情ごっこでは済まされない。 少しでも可能性のあるほうを選ぶのは、当然だと。
「……わかっています。一方的にセアラさんたちが悪いなんてことは、どこにも言いふらしません」
「そう。なら、よかった。今日は早く帰って。あなたは病気で、やむを得ずバンドを脱退するから、違約金は発生しない。印税は今ある曲に関しては今後も貰えると思うけど、そのへんは会社と相談して」
「大丈夫です。私は……何もいりませんから」
そうしてーー私はバンドを脱退した。
翌日には活動休止のコメントを。
一ヶ月後には脱退のコメントを。
ファンとメンバー、サポートしてくれたレコード会社に謝罪した。
全てを清算し、私は途方に暮れた。
バンドは新メンバーを発表。私は最初から存在しなかったかのように、扱われた。
でも、いまに始まったことじゃない。私はそもそも学生の頃から地味で、内気で、誰にも相手にされなくてーーだからこそ私はドラマーの道を選んだのだ。
ギタリスト人口は多い。ベーシストも探せば、意外といる。だけどドラマーとなると、中々見つからない。
ドラマーになれば、誰かが自分をバンドに誘ってくれると淡い期待を抱いていた。
だけど、淡い期待は淡いまま、消えていった。同じ高校の軽音楽部に私を入れてくれるバンドはなかった。
我ながらふてぶてしいけれど、ドラムの腕だけはそれなりに自信があったので、SNSを通じて自分を使ってくれそうなバンドを探した。
隣町の高校生がドラマーを募集していた。
ボーカリスト、ギタリスト、ベーシスト、三人組のガールズバンド。
名前はムーン・バレット。
やっぱり私とは違って、皆美人で太陽みたいにキラキラしていて、私なんか場違いだと思った。でも、ここで勇気を振り絞らないと私は一生バンドに入れない気がして、私は自分の演奏動画を送った。
返事を待った。
人生で一番ドキドキした。
震えが止まらなくて、毛布をかぶって、ずっと目を閉じていた。
スマホが鳴る。
メッセージを見る。
「一緒にバンドやりましょう」
一行目で、泣いた。他にもメンバーが個々に感想を書いてくれていた。また泣いた。私は見た目地味ですよ、と卑屈な返事をしたら、ボーカリストの子がさらに返事を返してきた。
「そんな人でも輝くのがロックなんです」
もうダメだと思った。私は泣きすぎて、干からびると思った。
Moon Bulletに参加している間、私は初めて世界の中心にいた。地元のライブハウスはいつも満員で、いままで話したことのない子たちが急に声をかけてきて一緒に写真を撮ったり、どの子も私の手を握って笑顔を向けてくれたりして、私はそんな日々がずっと続くのだと勘違いしていた。
高校卒業間際、ボーカリストがプロを目指そうと提案した。ギタリストもベーシストも反対した。私は迷っていた。リョウさんからも誘われていたけど、Moon Bulletで続けたい想いもあった。
けれど、私は怖じ気づいた。
ボーカリストはMoon Bulletのフロントマンというだけではなく、地元の星、皆の憧れでもあった。
私にとっては、月の女神アルテミス。
月のように美しくて、狩猟の神らしい攻撃性を持っていて、ひとりになると背中が寂しそうで、それがまた絵になっていて、格好良かった。
彼女を、手の届かない、遠い存在に感じてしまい、萎縮していた。
彼女の幼なじみだったギタリストもベーシストも離れて、私だけで彼女を支える自信がなかった。むしろ私のせいで可能性が閉ざされたら、いたたまれない。
体の良い言い訳を使った。
「友情ごっこでは済まされない」
本当の友情を信じられなかったくせに、一番卑怯な言葉を使った。
別のバンドに移ると言った私を、彼女は笑顔で見送った。彼女はその後も一人で歌い続けていて、時間が経てば経つほど、私のリズムは失われていった。
ノレなく、なって、いった。
ここ最近、着替えていない。ずっと同じスウェットを着ている。ベッドに横たわり、何もする気になれない。
私のスマホに着信が入った。
画面に表示された名前は、朝丘恵。
Moon bulletのベーシストだったアサちゃんだ。
私は通話状態にして、スマホを耳にあてた。ひんやりと冷たくて、少しだけ冷静になった。
「……もしもし」
「もしもし、リコ? 身体は大丈夫? ご飯食べてる? いま、どこ?」
「家……だけど」
「住所教えて、大至急!」
私はなんの疑問も持たず、どころか、そんな気力すらなくて、淡々と自分のマンションの住所と部屋番号を告げた。
「 適当になんか買っていくから、何か食べたいものある?」
「……牛丼」
よくライブ終わりに皆で食べていたっけ。あの味を、無性に思い出したかった。
「よし。いまから行くから。絶対に家にいてよ。動かないでよ」
アサちゃんは電話を切って、わずか30分で私の部屋にやってきた。手にはテイクアウトした牛丼の袋を持っていた。
私は違和感を覚えた。
平日の昼間だったのに、アサちゃんの格好はネルシャツにダメージジーンズだった。
「アサちゃん。いい会社に入ったんじゃなかったの?」
「うん。やめた」
「やめたって……なんで?」
「もっかい、カナちゃんと組みたくて」
私は唖然とした。アサちゃんは高校生のときから全国模試で5位とかとっちゃう才媛で、ご両親もバンド活動には反対していたのに。
「カナちゃんか……元気かな」
カナちゃんは、私のアルテミスーーボーカリストの名前だ。アサちゃんは、牛丼のパックを私の胸に突きつけた。
「いまは人の心配してる場合じゃないでしょ。さあ、食え」
「……うん」
ほろほろの牛肉に、あったかいお米。甘めのタレが、失いかけた食欲を取り戻させる。アサちゃんが私に訊く。
「おいしい?」
「おいしい。みんなで食べた、あの頃のままの味」
カウンターに並ぶ、四人の背中。俯瞰でなければ見えないはずの景色が、なぜかいつも頭に浮かぶ。私の思い出として残り続けている。
私が食事を終えるまで、アサちゃんは何も喋らなかった。ずっと私の顔を心配そうに眺めていた。事実、心配してくれていたのだと思う。ずっと私のことを気にかけていなかったら、私のバンド脱退なんて気づけない。
「……おかしいよね。なりたい職業になったのに、皆でやっていたときの自分が一番好きだった」
「私もそう。ずっと酒に溺れて、誤魔化して、誤魔化しきれなくなると、泣けてくるのよ」
「カナちゃんとはもう話したの?」
「まだ。手ぶらでは帰れないから」
アサちゃんは、両手にある十本の指を全部伸ばして、私に見せた。指の皮がざらついてボロボロになっていた。
「スタジオで猛練習。最低でもリコの代わりにリズムキープできるくらいにならんとね」
私はちょっとビックリした。アサちゃんって、こんな風に歯を見せて笑えるんだ、と。私の知っているアサちゃんは、皆がはしゃいでも、一人冷静だった。何事もデータ収集と自身の分析に基づいて話をして、同い年なのにお姉さん的ポジションを確立していた。
「なんかアサちゃん変わったね」
そう私が言うと、アサちゃんは「全然」と否定した。アサちゃんは言う。
「違うよ。これが本当の私」
とくん、とくん、と私の心臓が鳴る。頭の中で、しゃん、とハイハットを叩く私の映像が見える。だん、バスドラムを蹴り叩く私の意思が宿る。ああ、これは私の持っていたリズムだ。
私の待っていた未来だ。
「こないだヒカリから連絡もらったの」
アサちゃんは私にスマホを見せた。画面にはギタリストだったヒカリちゃんが男性と一緒に写っていた。ヒカリちゃんの腕には可愛らしい赤ちゃんが抱かれている。
「結婚して、子ども生まれたって」
「幸せそうだね」
「……だね。バンド解散して、心から笑えているのは、ヒカリだけかもね。リコは、これからどうする?」
アサちゃんに訊かれて、私は黙考した。
これから、か。
もしも、カナちゃんが、アサちゃんが、私を許してくれるならば。
今度こそ、自分の信じたいものを、心の底から、信じたい。
「とりあえず、私もリハビリが必要かな。一ヶ月も楽器に触らないなんて初めてだし」
「一緒に、くる?」
アサちゃんは私に手を差しのべる。
「一緒に行けるなら、どこまでも。もう二度と、繋いだ手を離したくない」
私はアサちゃんの手を握った。
私たちのアルテミスを、これ以上ひとりにはさせられない。
それにどうやら、私の鼓動は、明確にリズムを刻み始めている。
だんだん、だんだん、だんだんと。
【フルムーンなのに・了】
バンドマンなら楽器をもっと大切にしろと誰かが擁護してくれるかもしれない。だけど、私にもそれなりのーーいや、かなりの非があった。
私のリズムは崩れていた。
「リコ。どういうつもりだ?」
ベーシストのユーキは、同じリズム隊として我慢の限界に達していた。声を荒げて私を問い詰める。
バンドにとってドラムのリズムは屋台骨。私は常にメトロノームのように正確だったし、ライブパフォーマンスならではのアップテンポを事前に要求されても問題なかった。
今までは。
私の体内時計は、秒針を失っていた。正しいリズムを刻めなくなっていた。
スティックを握る手に、力が入らない。
「明日は本番なんだぞ?」
ユーキは憤慨し、焦燥に駆られていた。
明日はバンド初のアリーナツアー初日。今日は、前日リハーサル。照明、音響スタッフを会場に入れての最終リハでもある。
「やめなよ。イヤモニが故障しただけかもしれないでしょ」
私をバンドに誘ってくれたギタリストのリョウさんが私を庇う。
「それは昨日もチェックしたよね。なんなら、今日もチェックした」
ボーカリストのセアラさんは冷たい目をしていた。私の意見など最初から何も求めていないようだった。
セアラさんは私以外のメンバーに提案、というか決定事項として告げる。
「とりあえず体調不良ってことで、早めにファンサイトにリコの休止報告しとこうよ。別にリコじゃなくても、優秀なサポートメンバーはいるんだから」
事実上のクビ宣告だった。
「私はもう……いりませんか?」
セアラさんは私の問いに答えてくれなかった。自分のうなじを撫でながら、セアラさんは何かを思い出そうとしていた。
「なんだっけ。リコが前にいたバンドの名前」
「Moon Bullet……です」
「そうそう、そんな名前。実はね、レコード会社は迷ってたらしいのよ。私たちのバンドと、あなたたちのバンド、どちらに声をかけるかーー」
とくん、と私の心臓が鳴る。だけど、その音は私の求めるリズムではない。不安定で、乱れている。
「それでリョウが言ったの。だったら一番替えの効きにくいドラムを引き抜いて、リコのバンド壊しちゃおうって」
私はリョウさんを見た。リョウさんは私から目を逸らした。このバンドの中では、私を認めてくれている唯一の人だと思っていた。私の腕を認めてくれたから、バンドに誘ってくれたのだとーー信じていた。
「つまり、私たちがレコード会社と契約できた時点で、リコの役目は終わってるの。あなたみたいに華のないドラマー、私たちが本気でスカウトするとでも?」
「私は……自分の技術に、自信を持ってます……」
「そうよ。あなたのドラムは正確無比。ソロの表現力も凄い。だけど、ヴィジュがね。私たちの表現する世界観には合わないの」
自分でも堂々と前に出ていけるような容姿じゃないと自覚はある。だからこそドラムのテクニックを磨いてきた。
しかし現在、私は頼みの綱である技術までも失っている。ドラムを叩けなくなっている。心がーー壊れている。
「リコ、誤解しないでよ。私たちはあなたを確かに利用した。だけど、あなたも私たちを利用したのよ。自分がプロになるために、仲間を裏切った」
セアラさんは言う。互いの利益が一致し、双方納得の上で、契約を結んだ、と。
私は元のバンドメンバーに吐き捨てた言葉を思い返していた。
プロを目指すなら、友情ごっこでは済まされない。 少しでも可能性のあるほうを選ぶのは、当然だと。
「……わかっています。一方的にセアラさんたちが悪いなんてことは、どこにも言いふらしません」
「そう。なら、よかった。今日は早く帰って。あなたは病気で、やむを得ずバンドを脱退するから、違約金は発生しない。印税は今ある曲に関しては今後も貰えると思うけど、そのへんは会社と相談して」
「大丈夫です。私は……何もいりませんから」
そうしてーー私はバンドを脱退した。
翌日には活動休止のコメントを。
一ヶ月後には脱退のコメントを。
ファンとメンバー、サポートしてくれたレコード会社に謝罪した。
全てを清算し、私は途方に暮れた。
バンドは新メンバーを発表。私は最初から存在しなかったかのように、扱われた。
でも、いまに始まったことじゃない。私はそもそも学生の頃から地味で、内気で、誰にも相手にされなくてーーだからこそ私はドラマーの道を選んだのだ。
ギタリスト人口は多い。ベーシストも探せば、意外といる。だけどドラマーとなると、中々見つからない。
ドラマーになれば、誰かが自分をバンドに誘ってくれると淡い期待を抱いていた。
だけど、淡い期待は淡いまま、消えていった。同じ高校の軽音楽部に私を入れてくれるバンドはなかった。
我ながらふてぶてしいけれど、ドラムの腕だけはそれなりに自信があったので、SNSを通じて自分を使ってくれそうなバンドを探した。
隣町の高校生がドラマーを募集していた。
ボーカリスト、ギタリスト、ベーシスト、三人組のガールズバンド。
名前はムーン・バレット。
やっぱり私とは違って、皆美人で太陽みたいにキラキラしていて、私なんか場違いだと思った。でも、ここで勇気を振り絞らないと私は一生バンドに入れない気がして、私は自分の演奏動画を送った。
返事を待った。
人生で一番ドキドキした。
震えが止まらなくて、毛布をかぶって、ずっと目を閉じていた。
スマホが鳴る。
メッセージを見る。
「一緒にバンドやりましょう」
一行目で、泣いた。他にもメンバーが個々に感想を書いてくれていた。また泣いた。私は見た目地味ですよ、と卑屈な返事をしたら、ボーカリストの子がさらに返事を返してきた。
「そんな人でも輝くのがロックなんです」
もうダメだと思った。私は泣きすぎて、干からびると思った。
Moon Bulletに参加している間、私は初めて世界の中心にいた。地元のライブハウスはいつも満員で、いままで話したことのない子たちが急に声をかけてきて一緒に写真を撮ったり、どの子も私の手を握って笑顔を向けてくれたりして、私はそんな日々がずっと続くのだと勘違いしていた。
高校卒業間際、ボーカリストがプロを目指そうと提案した。ギタリストもベーシストも反対した。私は迷っていた。リョウさんからも誘われていたけど、Moon Bulletで続けたい想いもあった。
けれど、私は怖じ気づいた。
ボーカリストはMoon Bulletのフロントマンというだけではなく、地元の星、皆の憧れでもあった。
私にとっては、月の女神アルテミス。
月のように美しくて、狩猟の神らしい攻撃性を持っていて、ひとりになると背中が寂しそうで、それがまた絵になっていて、格好良かった。
彼女を、手の届かない、遠い存在に感じてしまい、萎縮していた。
彼女の幼なじみだったギタリストもベーシストも離れて、私だけで彼女を支える自信がなかった。むしろ私のせいで可能性が閉ざされたら、いたたまれない。
体の良い言い訳を使った。
「友情ごっこでは済まされない」
本当の友情を信じられなかったくせに、一番卑怯な言葉を使った。
別のバンドに移ると言った私を、彼女は笑顔で見送った。彼女はその後も一人で歌い続けていて、時間が経てば経つほど、私のリズムは失われていった。
ノレなく、なって、いった。
ここ最近、着替えていない。ずっと同じスウェットを着ている。ベッドに横たわり、何もする気になれない。
私のスマホに着信が入った。
画面に表示された名前は、朝丘恵。
Moon bulletのベーシストだったアサちゃんだ。
私は通話状態にして、スマホを耳にあてた。ひんやりと冷たくて、少しだけ冷静になった。
「……もしもし」
「もしもし、リコ? 身体は大丈夫? ご飯食べてる? いま、どこ?」
「家……だけど」
「住所教えて、大至急!」
私はなんの疑問も持たず、どころか、そんな気力すらなくて、淡々と自分のマンションの住所と部屋番号を告げた。
「 適当になんか買っていくから、何か食べたいものある?」
「……牛丼」
よくライブ終わりに皆で食べていたっけ。あの味を、無性に思い出したかった。
「よし。いまから行くから。絶対に家にいてよ。動かないでよ」
アサちゃんは電話を切って、わずか30分で私の部屋にやってきた。手にはテイクアウトした牛丼の袋を持っていた。
私は違和感を覚えた。
平日の昼間だったのに、アサちゃんの格好はネルシャツにダメージジーンズだった。
「アサちゃん。いい会社に入ったんじゃなかったの?」
「うん。やめた」
「やめたって……なんで?」
「もっかい、カナちゃんと組みたくて」
私は唖然とした。アサちゃんは高校生のときから全国模試で5位とかとっちゃう才媛で、ご両親もバンド活動には反対していたのに。
「カナちゃんか……元気かな」
カナちゃんは、私のアルテミスーーボーカリストの名前だ。アサちゃんは、牛丼のパックを私の胸に突きつけた。
「いまは人の心配してる場合じゃないでしょ。さあ、食え」
「……うん」
ほろほろの牛肉に、あったかいお米。甘めのタレが、失いかけた食欲を取り戻させる。アサちゃんが私に訊く。
「おいしい?」
「おいしい。みんなで食べた、あの頃のままの味」
カウンターに並ぶ、四人の背中。俯瞰でなければ見えないはずの景色が、なぜかいつも頭に浮かぶ。私の思い出として残り続けている。
私が食事を終えるまで、アサちゃんは何も喋らなかった。ずっと私の顔を心配そうに眺めていた。事実、心配してくれていたのだと思う。ずっと私のことを気にかけていなかったら、私のバンド脱退なんて気づけない。
「……おかしいよね。なりたい職業になったのに、皆でやっていたときの自分が一番好きだった」
「私もそう。ずっと酒に溺れて、誤魔化して、誤魔化しきれなくなると、泣けてくるのよ」
「カナちゃんとはもう話したの?」
「まだ。手ぶらでは帰れないから」
アサちゃんは、両手にある十本の指を全部伸ばして、私に見せた。指の皮がざらついてボロボロになっていた。
「スタジオで猛練習。最低でもリコの代わりにリズムキープできるくらいにならんとね」
私はちょっとビックリした。アサちゃんって、こんな風に歯を見せて笑えるんだ、と。私の知っているアサちゃんは、皆がはしゃいでも、一人冷静だった。何事もデータ収集と自身の分析に基づいて話をして、同い年なのにお姉さん的ポジションを確立していた。
「なんかアサちゃん変わったね」
そう私が言うと、アサちゃんは「全然」と否定した。アサちゃんは言う。
「違うよ。これが本当の私」
とくん、とくん、と私の心臓が鳴る。頭の中で、しゃん、とハイハットを叩く私の映像が見える。だん、バスドラムを蹴り叩く私の意思が宿る。ああ、これは私の持っていたリズムだ。
私の待っていた未来だ。
「こないだヒカリから連絡もらったの」
アサちゃんは私にスマホを見せた。画面にはギタリストだったヒカリちゃんが男性と一緒に写っていた。ヒカリちゃんの腕には可愛らしい赤ちゃんが抱かれている。
「結婚して、子ども生まれたって」
「幸せそうだね」
「……だね。バンド解散して、心から笑えているのは、ヒカリだけかもね。リコは、これからどうする?」
アサちゃんに訊かれて、私は黙考した。
これから、か。
もしも、カナちゃんが、アサちゃんが、私を許してくれるならば。
今度こそ、自分の信じたいものを、心の底から、信じたい。
「とりあえず、私もリハビリが必要かな。一ヶ月も楽器に触らないなんて初めてだし」
「一緒に、くる?」
アサちゃんは私に手を差しのべる。
「一緒に行けるなら、どこまでも。もう二度と、繋いだ手を離したくない」
私はアサちゃんの手を握った。
私たちのアルテミスを、これ以上ひとりにはさせられない。
それにどうやら、私の鼓動は、明確にリズムを刻み始めている。
だんだん、だんだん、だんだんと。
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