一陣茜の短編集【ムーンバレット】

一陣茜

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044 アイデンティファイ

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「あ」と「い」、あなたはどちらが好きだと思いますか。答えられる範囲で良いので、是非とも教えてはくれないでしょうかーーこのような厄介な質問を僕がされているのには、理由がある。

 実のところ、最初の質問はもう少し単純明快だった。

「A」と「B」、あなたはどちらが好きだと思いますか。答えなさい。

 僕は「A」を選んだ。アルファベットの最初の一文字で、トランプではエース、ACEと装飾してやれば、第一流、第一人者になる。スポーツ選手ならチームの主力選手と評されて、敵チームからは怖れられる。電流の単位アンペアや、面積の単位アールでもあるけれど、そのあたりは僕の脳からすっぽり抜けていた。血液型のA型なんてもってのほかだ。

 対して「B」は、アルファベットの二文字目で、たとえばBクラス、B級グルメなどのように、メジャーよりもマイナーなモノに贈られる称号だと、少なくとも僕は思ってしまったのだ。

「じゃあ、とりあえずAで」

「なんですか、その保留するような態度は。あなたには誇り、自尊心、自負心、矜持がないのですか?」

「よくわかりません。このような質問がまだ続くんですか?」

「続きます」

「いつまで?」

「世間がマツケンサンバのメロディーラインを忘れるまで」

 ほぼ一生だった。

 なんせイントロからして永遠に心に刻まれている。どれだけ月日が経っても、誰かがリバイバルして、必ず息を吹き返す。どんなゾンビよりゾンビらしい。いま思えば恥ずかしい話だが、ウォーキングデッドの主演は暴れん坊将軍だと信じて疑わない自分が、僕の過去には確かに存在していたのである。

 適当でも、答えは明確にしよう。

 僕は質問に答えた。

「では、Aです」

 質問者は僕の答えに納得していないようだった。質問者は質問を続ける。

「ある国と、ある国では、ヤクソクという言葉が、読み方も、意味も同じなのに、なぜ争い続けると思いますか?」

「おそらく、あくまで僕の考えですが、キムチの臭さと納豆の臭さが因果関係にあるのではないかと思います。ある人にとっては好きな食べ物かもしれませんが、必ずしも全ての人に受け入れられるとは限りませんから」

「しかしふたつを合わせることで納豆キムチチャーハンという傑作が生まれる矛盾を、あなたはどうお考えですか?」

「あなたはふたつを合わせると言いましたが、それは僕に対するミスリードです。そもそもチャーハンという第三勢力なくして、その奇跡の構造改革は成り立たない」

「どうやら、ただの幼稚園児ではないようですね」

「僕は高校生です」

 めちゃくちゃ下に見られていた。

 178センチ65キロの幼稚園児は、この世にいないーーという証明は完全にできないけれども、僕の生きてきた中で見かけた経験はない。いい加減、僕からも質問をして、相手を困らせてみよう。

「逆に訊きますけど、あなたはAとB、どちらが好きなんですか?」

「どちらも嫌いです」

「なぜ?」

「もっと無限の選択肢を与えてくれたら、好きな文字が見つかるからです」

「有限性の否定は、この質問そのものの根底を揺るがしかねない。あなたは質問の提示者として、それでいいのですか?」

「良いのです。私はいま、聞き手であって聴き手ではありません」

「そういうの、自分勝手って言うんです」

「自分らしく生きる人を、あなたは格好悪いと言うつもりですか?」

「格好悪く格好良いことを言わないでください」

「ごめんなさい」

 質問者は謝罪した。なぜだか僕のほうが悪いみたいになった。

 正直な人は嫌いじゃない。嫌いじゃないけど、好きじゃない。これでないなら、もう一方の思想なのね、という短絡的思考で生きられたのなら、それは誰かにとっては幸せなのかもしれないけれど、僕が幸福と思うかは、人知れず誰にもわからない。

 もっとシンプルにまとめると。

 嫌いではない。

 イコール、好き、にはならない。

 嫌い以上にすごく嫌いという可能性も存在し得るのだから。

「ごめんなさいーーきっと私の質問の仕方が悪かったのですね」

 どうやら僕に対する謝罪ではなく、質問者は自省をしていただけだった。全然正直な人ではなく、ある意味正直者だった。

 質問者はついに、この質問に行き着いた。

「あ」と「い」、あなたはどちらが好きだと思いますか。答えられる範囲で良いので、是非とも教えてはくれないでしょうか。

 厄介な質問である。あなたは文系と理系、どちらが好きですか、と質問されるほうが、まだ気が楽かもしれない。この範囲までが文系です、ここからは理系です、みたいな決定権を僕にくれるならば答えられます、と答えられるから。

「あ」は口を広く開き、舌を低く下げ、その先端を下歯の歯茎に触れる程度の位置におき、声帯を振動させて発する。

「い」は唇を平たく開き、舌の先を下方に向け、前舌面を高めて硬口蓋こうこうがいに接近させ、声帯を振動させて発する。

 チャットの途中で「言葉で説明するほうが楽だから電話していい?」と言える人間は、自分のしている行動の難解さに気づけていないのかもしれない。脳から発している電気信号は明らかに言葉のほうが多い。

 文字ならば「あ」「い」。

 これで済む。神経質にならずに済む。ただし文字と文字を結合させるとなると、一気に難易度が跳ねあがる。

 どうやって答えるべきか、僕は悩む。質問者は僕の答えの中から、ひとつの解答を奪いとった。窃盗行為を働いた。

「あ、と、い、を合わせて、あいそう、みたいな一休さん的な解答は求めていないので、悪しからず」

「いけず」

「い、に行けず。あ、でよろしいのですね」

「言い直します。意地悪」

「い、じわる。い、でよろしいのですね」

「アカン」

「あ、完」



【完】



「勝手に終わらせないでください」

「あなたが、あ、と、い、どちらが好きなのか明確にすれば、こんなことになりませんでした。先生の次回作にご期待ください、みたいな週刊誌漫画の打ち切りコメントを添えられる展開にはなりませんでした」

「それって、そんなに大事なことなんですかね?」

「あ、と、い、には死活問題です」

 僕はまだ質問の意図を掴み損ねているのかもしれない。 

「全てのスワンは白い」という命題は、古来かなり多くの人に当たり前のように支持されていたが、ある日を境に覆された。人知れず、オーストラリアには黒いスワンが存在していたのである。だから、「あ、と、い、のどちらが好きですか?」という命題は、大体の人にとって面倒くさくてどうでもいい質問だと思っていても、いずれ何かの発見がきっかけで覆される可能性は、充分に秘めている。

「あ」と「い」の間に、実は小さな「ぅ」が存在していて、僕たちが「あ」だと思っていた「あ」は、実は「い」に含まれている「あ」に過ぎず、これからは「あ」と「い」をそもそも分ける必要はないーーなんて暴論はさすがに僕も望んでいない。

「あ」は「あ」のままでいさせてやりたいし、「い」は「い」のままに生きるほうが良いに決まっている。

「つまり、意のままに生きる、と。い、が好きですか?」

「かもしれません。いーっと睨むこともできるし、いい、と褒めることもできるし、ヤの力を借りれば、イヤと拒絶することもできるし、ルさんにお越し頂ければ、僕は此処に居ることができて、誰かに要ると思われるかもしれませんから」

「必要とは限らなくても?」

「自由で、

「私どもとしましては、あっと言わせてみたかったのですがね」

「びっくりしたのは確かです。私ども、というと、あなたみたいなのが他にもまだいるんですか?」

「あなたが、い、と答えたので、い、がしました。だから、います」

「では、あなたは、い、だったんですか?」

「そうです。私は、い、です」

「でも、あなたが、い、だったとして、僕が、あ、であるとは限りませんよね?」

「その通りです。ただ、え、ではありません。え、とあなたが意味深に驚くのを見ると不愉快だからです」

「じゃあ、僕はなんだったら許されるんですか?」

 許すとか許さないとか、許されるとか許されないとか関係はなくて、と質問者は前置いて、僕に言う。

「そ、のままでいてください」

  

【アイデンティファイ・了】   
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