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第一章 武勲までの長い道のり

第十三話 二四一年 蠢動する者あり

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 呉軍にとって、魏の孫礼の寡兵は想定外の強さを見せていた。

 諸葛恪軍が魏の文欽軍を戦っている間に、全琮軍は揚州に雪崩込んだ。

 大軍を有する呉軍は一気に突き破り、芍陂しゃくひの堤防を破壊し、食料庫を焼き払うところまでは上手く行っていた。

 その勢いのまま制圧するはずだったのだが、揚州太守として着任していた孫礼によって阻まれた。
 その兵数は少なく、一気に踏み潰すはずだったのだが、孫礼の率いる少数の揚州軍は想像を遥かに超える強さを見せ、全琮軍の足を止める活躍を見せた。

「とは言え、あと一戦に耐えれるかどうか。いかな猛将、勇兵と言えどこの数の差はどうする事もあるまい!」

 夜の幕舎でそう主張するのは顧承こしょうと言う武将で、呉で丞相を務めた顧雍こようの孫に当たる人物である。

 文官の家の出であるにも関わらず兵の指揮に才があり、武将として今回の戦いに参加している呉の若手の一人である。

「叔父上、明日にでも一気に打ち破りましょう。諸葛恪如きに遅れを取る訳にはいきません」

 そう主張するのは全琮の甥に当たる、全端ぜんたんだった。

 この全琮軍は総大将の全琮他、全端や全琮の息子で元服したばかりの全緒ぜんしょと言った全一族の他、顧承や張昭ちょうしょうの子である張休ちょうきゅうと言った呉の次時代を担う者達を中心に集められている。

 今回の作戦は魏の皇帝崩御の隙だけでなく、最前線である合肥に兵力が集中している状態を利用し、手薄な揚州を攻め、そこで混乱を招いているところで荊州を、そして蜀が北伐を始め、魏を大混乱に陥れると言う大規模な作戦だった。

 先手を取れたのは良かったが、ここで足止めを食らう事になるとは思ってもいなかった。

 とは言え、遅れは数日である。
 ここから巻き返しは十分に可能だ。

「明日の一戦で一気に抜く。皆もそのつもり……」

「報告! 北に怪しげな光を多数確認しました!」

 全琮が解散を宣言しようとした時、兵がそう報告してきた。

「北に光だと? まさか援軍がもう来たのか?」

 いかに魏の隙を突いたと言っても、魏で兵権を握る司馬懿はただの木偶ではない事は十分に承知している。

 全琮達は幕舎を出て兵の言う光を確認する。

 確かに少し離れたところに数百の光らしきモノが見える。

「張休、あれは何だと思う?」

「我が軍の者では無いとすると、魏の者と言う事。あの数を見る限りでは、この近辺の者達が夜にうろついている程度の事とは思えません。魏の援軍と言う事も十分に考えられます」

「早過ぎる気もするが、かつて魏には夏侯淵と言う速攻急襲を得意とする武将がいた。あるいはその類の者かもしれないと言う事か」

「考えられなくはないでしょう」

 全体的に若い全琮軍は、どうしてもその血気から勢いに委ねる傾向が強い。

 それが芍陂における武勲に繋がっているとも言えるのだが、一度策にハメられるとその勢いそのものが軍の瓦解を招く恐れもある。

 張休はそれを押さえる役割も担っていた。

「もしあれが魏の援軍の斥候であれば、我々の拠点の場所を押さえられた事になります。明日の決戦に際して横腹を突かれては厄介な事になりましょう」

 張休の言葉はもっともだった。

 全軍突撃をもってすれば、勇猛果敢な孫礼軍といえど一日で決着を付ける事は出来る自信が、全琮にはあった。

 しかし、その横から魏の援軍が突撃してきた場合、話は変わってくる。

「なれば、明日は魏の援軍の同行を見て動く事にしよう。援軍が来たところで、孫礼の軍が増強されるわけではない。援軍が来たら来たで一軍をもってそれを防ぎ、他で一挙に孫礼を撃破、返す刀で魏の援軍を討てばこちらが奴らの横腹を突く事も出来よう」

 その方針に全員が納得し、念のため夜襲に備えてその日の夜は休む事にした。

 そして翌日、全琮達の予想を裏切って魏軍は一切姿を見せなかった。
 魏の動きを見て対応しようとしていた全琮だったので、妙な肩透かしをくらった形になってしまい、孫礼軍に対して突撃のきっかけを失って一日を無駄にしてしまった。

 その日の夜、またしても妙な光は現れた。

 前日とほぼ同数の光が、前日よりやや西、孫礼の拠点近くに移動していた。

「……これはどう言う事だ? アレは魏の伏兵なのか、斥候なのか、それとも陽動なのか。一つ分かる事はこのまま手をこまねいていては、ただ日を無駄にして魏の援軍の到着を待ち、結果我々は勝機を失うと言う事」

 そう主張するのは中郎将の秦晃しんこうだった。

 彼もまた若手の勇将の一人なのだが、名門の生まれでない事からその位に対しての扱いが軽く、今回の戦で手柄を上げようと躍起になっていた。

「だが、軽々に動けぬ事も事実。下手をすれば敵の策にかかる事になる」

 慎重論を唱えるのは、それが役目である張休である。

「敵の策と言っても、今の奴らが少数である事は変わらない。何らかの策を弄したところで、我らの大軍で一気に踏みつぶせば済む事。違うか?」

 どうしても手柄を立てたい秦晃は、力押しを提案する。

「叔父上、乱暴ではありますが秦晃の言には一理ありと思われます。ここへ来て主導権を敵に渡すより、敵の策ごと踏み潰す事が我らにとっての上策ではありませんか?」

 全端も攻撃を主張するが、全琮は目を閉じ腕を組んだまま何も言おうとしない。

「将軍!」

「読めた! 敵の策、見破ったり! 皆、幕舎へ入れ!」

 謎の光を確認する為に外に出ていたのだが、全琮の声に全員が弾かれた様に声を上げて幕舎へと入っていく。

「魏にもよく知恵の回る者がいるようだが、相手が悪かったな。この全琮、幼き頃に鳳雛こと龐統ほうとうより、また関羽かんうとの戦いの折にはかつての大都督である呂蒙りょもう殿より兵法を学んできた。魏の知恵者も侮れぬが、先の二人ほどの者ではない」

 全琮は全員を安心させる様に、あえて大言を吐いてみせる。

「あの光、あれは魏の少数の伏兵である事は間違い無い。そして魏の援軍もそう遠く無いところまで来ている事も事実」

「では、あれはやはり斥候ですか?」

 張休の言葉に、全琮は首を振る。

「そう思わせる事があの兵の役割であった。事実、昨日は騙された。だが、近くまで来ている事は事実であっても、おそらくまだ二、三日かかる所にいる。その僅かな日数を稼ぐ為に、あからさまな斥候を装った動きを見せているのだ」

「小細工を弄するか、情けない」

「いや、それは違うぞ秦晃。優れた知恵者は実際の兵ではなく、その心をこそ攻める。我々は大丈夫であっても、兵達はもしかすると伏兵があるかも、魏の援軍が横腹を突いてくるかもと不安になるだろう。それだけで士気は落ち、本来の力を出せない事は何ら不思議ではない。魏の者はまさにそこを狙っての事だ」

 全琮はそう言うと、周囲を見る。

「だが、敵の策が分かった今、これ以上敵の小細工に付き合うつもりはない。明日、全軍で孫礼の軍を打ち破る!」

 全琮の宣言に、武将達の意気も上がる。

「その時に秦晃、その方は南西に配する」

「南西? 何故にその様な所に! 孫礼との戦いが始まれば、昨夜の別働隊も北西よりやって来るはず! 何故我をそこから外すのですか!」

 手柄を上げたい秦晃にとって、その機会を奪われるのかと焦ったが、全琮の考えはまったく違った。

「あの別働隊は、我らが孫礼に攻撃するしないに関わらず、明日は南西より攻撃を仕掛けてくる」

「何故そう断言出来るのですか! 将軍は千里眼をお持ちか?」

「口が過ぎるぞ、秦晃」

 頭に血が上っている秦晃をたしなめる様に顧承が言うが、それは逆効果でしか無かった。

「俺は根拠を聞いている! それがそこまで出過ぎた事か!」

「いや、秦晃の言う事はもっとも。だが、この全琮、敵の策を見破ったと言ったはず。このまま任につけと言うのは簡単だが、秦晃の迷いを払うとしよう」

 全琮は一触即発の空気を察し、手で周りを制して言う。

「先の別働隊だが、明日も行動せずに夜に光だけ現したとしよう。さすがに三日目ともなれば、我らとて如何に闇夜であっても斥候を出さない訳にはいかず、そうすると奴らも援軍がまだ到着していない事がバレる。それに対し、二日北から怪しげな光が現れたとあっては、本来であれば我ら呉軍は敵の援軍に備える意味も込めて北に警戒を強めない訳にはいかぬだろう。おそらく別働隊は今頃は光を灯した後、夜の闇に紛れて戦場を縦断して南に隠れているはず。我々は北から伏兵ありと思っているのだから、南への警戒は手薄。そこを攻められれば、我らはいよいよ敵の位置を見失い動くに動けなくなり、その結果敵の援軍の到着を許す事になる。それによって我々は北に魏の援軍、西に孫礼の軍、南に別働隊と、三方からの攻撃に備える必要が出てくると言う事になる。これが敵の描いた絵だ」

 全琮の語る敵の策の全容に、周りは感嘆の声をあげる。

「……何故にそこまでお見えになるのですか?」

 先ほどとは打って変わった口調で秦晃が尋ねる。

「一つには、この別働隊の行動があまりに唐突だった事。別働隊を用意出来るのであれば、伏兵を配する事は出来たはず。だが、あまりに少数故に断念したのであろう。一つは援軍が送られたと言う希望。今のままでは守りきる事は不可能。何としても援軍の到着まで持たせなければならないと言う希望から生まれた焦りが、この奇策を生んだのだろう。一つには自信。どの様な軍にも一人は慎重論を唱える者がいる。もちろんその者、その役割は必要なモノであり、極めて重要である。敵もその事を知っているのだろう。故にあえて罠である事を分かる様に匂わせ、足を止めに来たのだ。以上の事による配置だが、それでもまだ気に入らないかな?」

「十分に。大変失礼いたしました」

 秦晃は態度を改め、頭を下げる。

「では明日、存分に威を示してもらうぞ。皆も同様だ。明日は敵城を奪い、そこで祝杯を上げるぞ!」

 全琮の言葉に、全員が声を上げる。



 翌日には、士気の高まった呉軍による突撃が始まった。

 孫礼の軍も迎え撃つ為に布陣していたが、それは前日までより深くに引きこもった布陣であり、追い詰められているのが見て取れる状況だった。

 呉軍が孫礼軍に当たろうとした正にその時、南西より少数の歩兵部隊が突如現れて横槍を入れようとしてきた。

「全琮将軍の千里眼、恐るべしよ。皆の者、手柄と呼ぶには少数だが、敵の小細工を打ち破るぞ!」

 敵にとっては奇襲だったはずだが、全琮の読みによって秦晃の迎撃態勢は万全である。

 敵が少数でしかも歩兵であるとは言え、秦晃に油断は無い。
 もしこれが敵の精鋭であった場合、横槍を入れられては敗れる事は無いにしても被害は大きくなり、いずれ来る魏の援軍との戦いに支障が出る。

 それでなくても自らの才をひけらかす諸葛恪から、何を言われるか分かったものではない。

 秦晃は自分の軍を突撃する呉軍本体から切り離し、南西より現れた敵別働隊に対して盾を並べ、槍を出して針の壁を作る。

「皆の者、矢を放て!」

 秦晃は敵が矢の射程圏に入った事を確認して、一斉射撃を命じる。

 敵歩兵達は盾をかざして矢を防ぐが、それによって足を止める事になった。

 歩兵が槍兵に対して活路を見出すには、一気に突入して乱戦に持ち込むしか無い。

 そうなれば槍の長さが邪魔になって、陣は混乱する。

 それを狙っていたのだろうが、来る事が分かっている少数の歩兵隊など恐れる事は無い。

 実際に敵の歩兵隊は矢によって足を止められ、近づく事さえままならずなす術なく盾を捨てて逃げ出していった。

「はっはっは! 魏の者共の浅知恵よ! 恐るるべき何者もなし! あの程度討ったところで、何ら手柄にならぬ! このまま回り込み、孫礼軍の横腹を突く! 全琮大都督に遅れを取るな!」

 秦晃の檄で呉軍は奮起し、その士気はさらに上がる。

 この時、秦晃には魏の武将に対する侮りや侮蔑は無かった。
 むしろよくやったとさえ思った。

 兵数は少なく、まともにぶつかって勝ち目が無い事は分かった事だろう。

 それ故に知を絞り、勇を尽くし、武を示した。

 だが、それでもこの戦の帰結はやむを得ない事だろう。
 ここまで見事に策を看破されては、もはや打つ手無しだ。
 あとは華々しく散り、武名だけでも残させてやるべきだろう。

 そんな勝利を確信した秦晃の元に、そして同じように思っていた呉軍の元に、想像もしていなかった凶報が飛び込んできた。

「魏の、魏の援軍が北東より現れました! 我が軍の後背より突撃してきます!」

 その一報は、まさに戦局を覆すものだった。
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