新説 鄧艾士載伝 異伝

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第二章 血と粛清の嵐の中で

第十九話 二五四年 新帝擁立

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 司馬師の処断は苛烈を極めた。

 合肥新城から戻った司馬孚や雍州から戻った司馬昭が助命嘆願したにも関わらず、司馬師は李豊だけでなく張緝や夏侯玄とその三族、さらには張緝の娘である皇后すらも死に至らしめた。

 その上で皇帝である曹芳を廃立し、曹髦を立てたのである。



「いささか強引に過ぎるのではないか、子元よ」

 叔父である司馬孚が、険しい表情で司馬師に尋ねる。

「確かにそう映るかもしれません。叔父上もそう思われたからこそ、俺に諫言しに来たのでしょう?」

「いや、諫言と言うより、兄の言葉を覚えているかを確認に来たと言うべきだろう」

「もちろん。忘れた事などありません」

 司馬師は頷いて言う。

「ですが、叔父上。今の魏を見るに、全て慎重に行っていたのでは手遅れになります。全責任は俺が負います。たとえ董卓の再来と言われても構いません。俺は父の愛した魏には強くあって欲しい。その為であればどの様な悪評も被ります。今であれば、魏はまだ立て直せるのです」

 司馬師の熱い言葉に、司馬孚は黙って聞き入る。

「子元の言葉、真の忠節による言葉であると信じているぞ。だが、それでも形を見るに司馬家の権力の占有であると見られ、魏を私物化すると言われるだろう」

「分かっております。ですが、今は呉も蜀も政変が起きたばかり。大規模な兵力を向ける事が出来ない今を逃しては、魏の立て直しの機会は失われます。まして曹芳の発言力が強くなってしまっては、魏は内側から蝕まれます」

「分かった。子元、お前を信じているぞ」

「ありがとうござ……」

「ただし、これ以降私を頼る事は出来ない事は心せよ」

「叔父上の期待は裏切りません。いずれ魏の重臣として叔父上の力をお借り出来る時まで、尽力致します」

 司馬師はそう言うと、司馬孚と別れる。

 そのすぐ後に、新帝となった曹髦に呼び出される事になった。
 それは司馬師だけでなく、文武百官をまとめて呼び出したのである。

「朕が新帝、曹髦である」

 玉座から曹髦は宣言する。

 まだ年若く、十代前半の幼さも残す少年であるにも関わらず、曹髦はすでに帝王の威光を身にまとっていた。

「大将軍、司馬子元。前に出よ」

「御意」

 司馬師は曹髦の前に跪く。

「皆も分かっている通り、朕はこの通り年若く勉学の最中にある。子元、貴君には大将軍としての責務もあろうが、朕の師父として魏への忠節を今、この場で皆に聴かせる為にも宣言してもらいたい。臣に二心無く、朕の即位に含むところが無いと」

 曹髦はまっすぐに司馬師を見て言う。

 だが、その言葉に文武百官は息を飲む。

 今この場で衛兵以外に帯剣を許されているのは、大将軍である司馬師のみである。

 皇帝とは言え少年である曹髦が、剣を持った年長の司馬師に向かって威圧的な態度を取っている。
 下手をすれば、切り捨てられかねない状況において、曹髦は一切怯えを見せずに司馬師に言っているのだ。

「無論。この司馬師、陛下に対し粉骨砕身の忠誠を誓い、魏に全てを捧げる所存。どうか陛下も魏の為、より良く大きく、強い皇帝とお成り下さい」

「よくぞ申した、子元、我が師父よ。その言葉、信じておるぞ」

 そう言うと曹髦は改めて司馬師に軍権を委ねる事を宣言する。

 しかし、司馬師は大将軍として激務であり師父として曹髦の近くにいる事が出来ないと言う事もあって、曹髦の元には王沈おうしん裴秀はいしゅう、鍾会の他、司馬孚の息子である司馬望しばぼうなどが近くに仕える事となった。

 誰もが一流の知識人であり、司馬望は父譲りの謙虚さもありながら目立たないなりに軍才にも優れたと言われる人物でもあり、石苞と共に皇帝の警護も務める事も出来るほどである。

 また、これまで閑職にあって存在感を消していた荀彧の息子の荀顗じゅんぎも取立て、曹髦の近くに仕えさせた。

 誰を見ても司馬師の息のかかった者と言えなくもないのだが、そこで取り立てられた者達はまだ若いなりにも能力に優れた者である事は誰もが認めるところである。

 一見すると順調に政変が行われたかに見えたが、司馬孚が予見した通り、万人に認められるものでは無かった。

 毌丘倹からの弾劾状が届き、淮南の地で反旗を翻したのである。



「……毌丘倹、か。無いとは言わないが、もっとも厄介なところもっとも厄介な時に動いたな」

 この時の司馬師は以前の戦で左目下に出来た瘤が痛み、それを切開手術したばかりだったのだが、そんな中で武将や参謀を集めて対策を練る事に迫られた。

 当代の名将として名高い毌丘倹だが、淮南の地は彼の出身地でもある。

 元は荒地であった淮南だが、今では魏の生産拠点として機能するほどに豊かな地になった。

 それだけに毌丘倹に奪われるのは大きな問題になったのである。

 しかもその名声や人望だけでなく、戦上手としての実績も十分にあり、さらにその配下として赴任していた文欽さえもそれに参加したと伝えられた。

 その兵力は六万。

 以前合肥新城での戦いの際に司馬孚が残していった兵力でもあったのだが、謀反を起こしたのが人望厚い毌丘倹であった事から、それに追従する形となった。

 さらに大きな問題は、淮南の地が呉と隣接していると言う事である。

 今の呉は先年丞相であり大将軍も兼ねた諸葛恪が孫峻そんしゅんによって殺害され、今ではその孫峻が専横を極めて国内が荒れていると言う。
 それ故にそう簡単に呉が動くとも思えないが、速やかに毌丘倹の乱を鎮圧させなければ呉が動く事は十分過ぎるほどに考えられる。

 と、言うより、確実に動く。

 毌丘倹はそれをこそ狙っているはずであり、魏に歯向かうにしては六万と言う兵力はあまりにも少ないが、勝機が無いかと言えばそうでもない。

 まず短期間にこの乱を鎮圧させる為には大軍で一気に押し潰す必要があるのだが、そもそもその大軍を動かすと言う事が、すでにある程度の時間を要するのである。

 毌丘倹が急いだ理由もここにある。

 名将とも言われる人物なだけあって、毌丘倹は大軍と戦う事の難しさをよく知っているが、その大軍を用意する事もまた難しいと言う事もよく知っている。

 狙いは他の地での暴動、あるいは賛同者が現れる事。

 各地で司馬一族に対する反旗が上がれば、大軍を擁すると言ってもそれぞれに当たる必要があり、そうなると大軍の利点はなくなる。

 と言うより、そもそも大軍ですら無くなるのである。

 そこまで戦略は読めているのだが、有効な手立てを立てる事も厳しい手だった。

「取り急ぎ先鋒隊を淮南に向かわせる必要があるが、我こそはと言う者はおるか」

 司馬師は各武将を見るが、誰も答えようとしなかった。

 先鋒隊にはそれほどの数は出せないものの、相手は戦上手の毌丘倹と猛将文欽である。

 そう簡単に勝てる相手では無い事は、誰もが知っている事だった。

「大将軍、僕に一人推挙したい武将がいます」

 司馬師の幕僚の中でも年少の参謀である鍾会が、挙手して発言する。

「ほう、士季には豪傑に知り合いがおるか。して、誰を推挙する」

「今回の先鋒隊の武将には、鄧艾将軍しかいないと思われます」

 鍾会の言葉に、末席で参加している鄧艾は首を傾げる。

 鄧艾は司馬師直属の武将ではあるものの、その階級は高くないどころかかなり低位であり、一隊を率いる事はあっても先鋒の一軍を任されるほどの将軍位ではない。

「士載だと? 随分と妙なところを推挙してきたな。どう言う理由で士載を挙げた?」

 司馬師が問うのと同じ質問を、鄧艾も思い浮かべていた。

 何しろ鄧艾と鍾会には、ほとんど接点が無い。

 また、鄧艾は司馬師からは高く評価されているものの、まだ一般的には魏の国内ですらその名はほとんど知られていない。

 一方の鍾会はその生まれから名門であり、幼い頃よりその能力を評価され、すでにある程度の勢力を持っている。
 司馬師、司馬昭からも評価され、皇帝の近くにつく事も許されたほどの人物である。

「謀反人である毌丘倹の地盤は淮南であり、出身地と言う事もあって人心はなびくかも知れません。ですが、今の豊かな淮南の地を作った一因は運河を作られた鄧艾将軍の手によるもの。その鄧艾将軍であれば毌丘倹になびく人心を留め置く事が出来るかも知れません。また、度重なる戦の経験もある鄧艾将軍であれば、本隊の到着まで戦線を膠着させて待つ事も出来るでしょう。他に理由が無い訳ではありませんが、淮南の人心を掴めると言う一点において、鄧艾将軍以上に適任の武将はいないと思います」

 鍾会はすらすらと理由を述べる。
 弁舌の才にも優れているらしい。

「と、言う事だが、士載よ。いかがする?」

「私にその様な大任が務まりますかは、正直なところ不安が残ります」

「心配するな。本隊はこの俺が率いる」

 司馬師が自身の胸を叩いて言う。

「大将軍が? 傷に触りますので、別の誰かにおまかせになられた方が」

 司馬昭が止めようとするが、司馬師は首を振る。

「此度の反乱、一地方の反乱と言う規模のものではない。打つ手を誤ると魏の屋台骨を揺るがしかねない大事だ。俺が直接指揮を取る」

 司馬師が自ら本隊を率いるとして、今回の戦の陣営が決められた。

 先鋒は鄧艾であり、その後に司馬師の本隊が続く。
 本隊には参謀である鍾会や王基おうきの他多数の武将や参謀も含まれたが、その中に同等の名声と実績を誇る諸葛誕も入っていた。

「諸葛誕というのはどうでしょうか」

 その人事に意を唱えたのは司馬昭だった。

「何か不服がおありですか?」

 諸葛誕は不満そうに尋ねる。

「諸葛誕将軍は毌丘倹とは旧知であり、文欽とは共に曹爽によって取り上げられた経歴のある将軍。もしやと言う事にも備えるべきであり、今回は別の者で良いのでは?」

「何を言われる。この諸葛誕に二心ありと疑うか?」

「子尚、それは無用の誤解を招く。公休は道理を知りわきまえておる。毌丘倹の如き近視眼ではなく、魏の為に尽力する名将。その様な安い手を使わずとも栄華を極められる人材。非礼を詫びよ」

「失礼した。あくまでも備えと思っての発言だったが、他意は無かった。許されよ」

 司馬昭は頭を下げるものの、そこに感情は見えず、淡々と決められた事を行っている様に見えたと言う事もあって、諸葛誕は眉を寄せる。

 しかし、形だけとは言え司馬昭が頭を下げたのであれば、気に入らないと言っても諸葛誕はそれを受け入れない訳にはいかない。
 まして司馬師が十分に立ててくれた後と言う事もあり、諸葛誕は不満を飲み込む事にした。



「まぁ、戦から戻ったばかりだと言うのに、また戦なのですかぁ? 私、ちょっとお兄様に一言言ってきますぅ」

「待て待て。これは魏に関わる大事なんだ。いかに身内と言っても、口を出していい事じゃ無い」

 戻ったばかりだった鄧艾と杜預だったが、またしても出征と言う事で家族に一言だけでもと、鄧艾と杜預は家族の元に向かったのだが、そこにいたのは杜預の妻である司馬氏だけだった。

「ところでウチの身内は?」

「あ、お姉さまなら……」

 言いかけて司馬氏は、慌てて口を両手で塞ぐ。

「……何か隠してる?」

 杜預の言葉に、司馬氏は両手で口を塞いだまま首を振る。

「何か隠してるけど、言いたくないそうです」

「みたいですね。では一つだけ。ウチの妻から口封じされていると言う事ですね?」

 鄧艾の言葉に、司馬氏は大きく頷く。

「……余計な事をしていなければ良いのですが」
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