上 下
89 / 122
第三章 泥塗れの龍と手負いの麒麟は

第二十七話 二六〇年 毒を持って

しおりを挟む
「もう会っていただけないのかと、不安に思っておりました」

「正直、そうしようかと悩んだわよ」

 そうは言うものの、黄皓の表情はそこまで険しいものではない。

「まったく、貴方達魏のお陰で私が伯約から睨まれる事になったわ。本当に迷惑な話よ」

「それは、魏の者としてお詫び致します」

「まぁ、貴方に言っても仕方の無い事なのだけど」

 嫌味は言っているが、黄皓の機嫌はさほど悪くない様だ。

「ところで、党均。今日はどんな要件なのかしら? 貴方のご主人様の鄧艾将軍がまた苦境なのかしら?」

 黄皓は先手を取るつもりで、党均に向かって言う。

「惜しいです。鄧艾将軍の苦境は黄皓様の予見通り。ですが、私のご主人様は鄧艾将軍ではなく、その上の司馬望将軍です」

 だが、党均はまったく意に介する事無く躱して応える。

 と言うより、この程度の嫌味で怯むと思われたのは心外であった。

 確かに党均は鄧忠や師纂の様な武勇には恵まれなかったが、しかしこの程度の嫌味に怯む様では商人も務まらない。

 いや、そうじゃない。黄皓の周りにはこの程度で怯む者しかいないのか。

 党均はふとそう考えた。

 本来であれば、黄皓は一介の宦官でしかない。

 しかし皇帝である劉禅から重用されている事もあり、黄皓は非常に劉禅に近しく、しかも政務に興味を示さない劉禅の代行を非公式に行う様になってからは、その権力や発言権は蜀でも屈指となっている。

 大将軍であり丞相も兼任する姜維が外征に出ている事が多い事も、黄皓の権勢を強める事になっていた。

 そして今も、黄皓と党均だけでなく同席している人物もいた。

 蜀の右将軍である閻宇だった。

 元々は蜀南部の統治を行っていた人物であり職務に対して忠実との評判の人物だったらしいのだが、繰り返し行われている割に成果の出ない姜維の北伐に対して批判的な人物でもあった。

 そこで閻宇は諸葛瞻らと共に協議の末に、時の権力者である黄皓に頼る事にしたのだった。

 そこへ党均がやって来たのだが、何を考えての事か黄皓は閻宇も同席させたのである。

「あら、そうだったの? てっきり鄧艾将軍が主と思っていたのだけど」

「鄧艾将軍に見出していただいたのは事実なのですが、雍州方面軍の司令官は司馬望将軍であり、全ての武将が司馬望将軍の、そして新帝である曹奐陛下の臣下です」

「……主を辱めぬその態度、一介の商人にしておくにはあまりに惜しい」

 閻宇も党均の淀みのない話し方に、何度も頷いてそう言う。

「でしょう? でもこの子、こう見えて意外と頑固で義理堅いのよねぇ。私が雇ってあげると言っているのに、断り続けているんですから」

 黄皓はにこやかに言う。

「軍に用立てはしていますが、僕は正式な武将や将軍と言う訳ではなく、本業は商人ですから。僕の理想は、魏や蜀といった垣根なく商売をする事です。その理想の為にも、本来であれば司馬望将軍を主とするのも抵抗はあったのですが、そうでなければ商売そのものが出来なくなりますので」

「まぁ、それは良いわ。本題に入りましょう。今日は何の用なのかしら」

「よもや兵を退けなどとは言うまいな」

 閻宇は脅す様に言うが、党均はきょとんとして首を傾げる。

「兵を退け? それは僕がお願いすると言うより、蜀の、いえ、内務を司る黄皓様達の方が真剣に考えるべき事なのでは?」

「あら、どういう事かしら?」

「以前も言った通り、姜維将軍は武断派のお人で、魏を大敵と見なしております。大勝利の後、大敵であった魏の民に対して寛容でいられましょうか。まして今回の戦では、劉禅陛下の皇后の従兄弟にもあたる夏侯覇将軍が討たれています。皇族の一員を殺した恨みなどと言う事で、魏で虐殺などが行われないかを心配しています」

「おそらく無いと思うが、それも戦場のならいだ。多少の事は仕方があるまい」

 閻宇がそう言うのに、党均は首を振る。

「その考えは漢より以前、秦の時代であればそれも通用したでしょうが、この三国の時代においてその様な前時代的な事を行っては、蜀の民が秦の暴政を真似ていると取られかねません。もしその様な蛮行を容認すると言うのであれば、それは秦の再来です。魏の民はそれこそかつての楚の如く、例え三戸になったとしても蜀を許す事は無くなるでしょう」

「これは党均の方に理があるわね。閻宇、口を慎みなさい」

 黄皓に言われ、閻宇は口を閉ざす。

 本来であれば右将軍の閻宇に対して、ただの宦官でしかない黄皓が口を挟む事の方が無礼であり許される行為では無いのだが、それでも従う他に無いほどに黄皓と閻宇では権力に差があるのだ。

「それだけではありません。姜維将軍が勝利したのであれば、さらなる勝利を求めて戦を続けていく事になるでしょう。その場合、北伐に反対されている方々はどうなるのでしょうか? おそらく国家の方針に逆らった者として降格は免れないでしょうし、軍の士気を下げる利敵行為と見なされれば死罪も大袈裟では無いでしょう。今はまだ、魏、蜀、呉の三国である方がそれぞれの国民の為には都合が良いと言うのが僕と司馬望、鄧艾の両将軍の考えです」

 本当にそう考えているのかはわからなかったが、党均はまるで今話を聞いてきたかの様に自信を持って黄皓に訴える。

 黄皓は言うに及ばずだが、閻宇としても北伐に反対の意見を持ちその事で行動している以上、党均の言っている様に降格処分は十分にありえる事は理解していた。

 蜀は人材不足であるとは言え、姜維は諸葛亮の厳格な法の裁きを知っている。

 もし模倣するのであれば、降格処分どころか官位剥奪も考えられる。

「もし一考していただけると言うのであれば、と言う事で司馬望将軍から謝礼の目録も預かってまいりました」

 党均は黄皓と閻宇が不安に揺れていると察し、欲の部分を刺激する。

 元々この離間の計は、黄皓が金銀などの財貨に対する執着心が決め手であった。

 恐らく姜維の話を持ち出さなくても、財貨の目録だけでなびく事は十分に考えられたのだが、黄皓も宦官の身でありながら蜀でこれだけの権力を手中に収めたある種の才能の持ち主である。

 財貨だけを奪われ、離間の計は失敗しましたと言う事にもなりかねない。

「雍州は都にも劣らぬほど豊かなところなのか? この目録を見るに、ここに記されている財貨はまるで国庫であるかと見紛うばかり。成都や洛陽であればともかく、ただの地方一州でこれほどの財貨を用意出来るとは思えぬ。黄皓殿、この者、信ずるに能わず」

 閻宇に疑いの目を向けられ、党均は驚いていた。

 と言っても、疑われた事に驚いている訳ではない。

 人の噂で聞いた閻宇と言う人物は、まともに字も読めず黄皓に取り入るしか能のない人物で、それだけで右将軍についたと言われているほどに人望も信用も無い人物として聞いていた。

 だが、実際にはそんな事も無いらしい。

「うーん、これは確かに閻宇が言う通り疑わしいわ。ねぇ、党均? 商人が取り扱う商品の目録を偽ると言うのはどうなのかしら? それで信用を落とした商人とはとても付き合えないと言うのが私の感覚なのだけど?」

 黄皓からも疑いの目を向けられるが、党均はこの時には離間の計が成った事を確信していた。

 閻宇にしても黄皓にしてもまだ党均から主導権を握ろうとしているらしいが、二人の興味が目録に移っているのは誰の目にも明らかである。

 そして、目録の品を手に入れる為には離間の計を成立させなければならない。

 まだ二人共その結論にまでは至っていないらしいが、それも時間の問題である。

「お答えします。口約束である事は事実です。そこに書かれている目録の品全てをこの場に持ち込む事は出来ませんでした。実際にこの場に用意出来ていない以上、偽りであるとのそしりは甘んじて受けます」

「党均。駆け引きをしている余裕は無いはずよ? 今私たちが問題にしているのはそこじゃない事くらい、貴方なら分かっているでしょう?」

 黄皓の表情が言葉以上に余裕を感じられなかったので、党均もこれ以上情報を隠す必要は無いと感じた。

「目録に記されている品の真贋についてですが、これには理由があります」

「何かしら? 聞いてあげるから言ってごらんなさい」

「元を正せば、この財貨。実は司馬仲達殿の時代にまでさかのぼります。雍州と言うところは、まず何よりも異民族対策を強いられる土地です。とは言え、出来る事なら戦いたくない。そこで司馬仲達殿は羌族への貢物として財貨を用意する事を考えました。そうして集めた財貨なのですが、先の戦いで郭淮将軍が羌族の大王であった迷当大王に捧げようとしましたが、配下の武将に暗殺されてしまい財貨を渡す事が出来なかったのです。雍州の司令官が変わってもこの習慣は受け継がれ、その結果がこの目録の品と言う事です」

 党均は説明を終えると、懐から腕輪や指輪、耳飾りと言った装飾品をいくつか取り出す。

「目録の品の全てを運ぶ事は出来ませんでしたので、この様なモノしかお見せする事が出来ません。もし真贋をお疑いとあらば、是非ともその手に収めて確認して下さい」

 党均はそう言って、黄皓に手渡す。

「僕の商いで取り扱うモノではありませんので、真贋に関しては少々自信が無いのですが、司馬望将軍から渡されたものなので間違いないとは思います」

 そう説明する党均だったが、黄皓も閻宇も手渡された装飾品に夢中で話をまったく聞いていなかった。

 偽物のはずがない。

 黄皓への買収は随分前から画策されていて、買収の為に見せる品はどれが良いか話し合った結果の貴重品である。

 これに関しては司馬望や鄧艾の他、杜預などの武将達だけではなく、鄧艾の妻や杜預の妻などにも意見をもらった上に真贋を鑑定してもらったモノであり、これなら間違いないと太鼓判をもらったほどの品だった。

 てっきり自分たちへの贈り物だと思っていた鄧艾や杜預の妻達から冷たい目を向けられたが、司馬望がなんとかとりなしてくれたと鄧艾は苦笑い気味に話していた。

「党均、これは……」

「どうぞ、お納め下さい。黄皓様への贈り物として持参した物なのですから」

 党均はにこやかに言う。

 目録の時点でほぼ落ちていたところ、実物を前に出されてそれをみすみす捨てる事など出来るはずがない。

「党均、貴方良い商人になるわよ。一度、魏に戻りなさい。決して悪いようにはしないから」

「はい。今後とも良い商いを行えたらと思います。司馬望将軍がおっしゃっていました。黄皓様はこのまま行けば、諸葛亮先生と同じように蜀史に名を刻まれるだろう、と」

 党均は確約を無理強いする事をせず、黄皓に言われるがままに屋敷から退出した。

 これから黄皓は閻宇と策謀について話し合う事だろう。

 正直に言えば、党均も黄皓の屋敷に長居するつもりは無かった。

 今回は黄皓を使っての離間の計の他、鄧艾から確認する様に頼まれていた事があったのである。

 これもまた、可能性で言えば前から鄧艾が気にしていた事ではあった。

「……あの御方の目には、一体何が見えているのだろう」

 鄧艾が生粋の武将で無い事は、雍州方面軍で知らない者はいないし本人も隠そうともしていない。

 それだけに視点が他の武将とは違う事がある。

 ひょっとすると、あの方の目にはもう蜀の滅ぶ未来も見えているのかもしれない。
しおりを挟む

処理中です...