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洛陽動乱
陳宮公台伝 異伝 4
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「とは言ったものの」
曹操は振り返る。
「何か?」
陳宮が不思議そうに言う。
何か、どころではない。
陳宮は曹操の考えに賛同し、県令の職をその場で辞して、そのまま曹操と同行しているのである。
中牟県の者達はさぞかし困るだろうと思ったのだが、次期県令の育成は済んでいると言う事で、自分が抜けても問題ないと陳宮は言っていた。
どちらかといえば、堅苦しい県令がいなくなった事を喜んでいるかも知れない、と陳宮はクスリともせずに言う。
冗談のつもりなのかもしれないが、もしそうだったら表情はもう少し和らげないと何の効果も無い。
むしろ笑えない分、逆効果である。
「それで、このまま故郷へ急ぐのですか? 曹操殿」
「いや、途中で父の友人の呂伯奢のところで休ませてもらいましょう。一気に駆け抜けるには、まだ距離があります」
「分かりました」
相変わらず陳宮が何を考えているのか分かりづらい。
「ところで、呂伯奢殿と言うのはどう言う人物で?」
陳宮としては、曹操の父親の知り合いなど赤の他人でしかないので気になるのは分かる。
地元では富豪として知られる曹家であり、呂伯奢は父である曹嵩と商売を行っている商人である。
中々の大商人であり、その財力は地元では有名だった。
だが、信用出来るかどうかと言う点では、曹操にとっても問題だ。
呂伯奢はあくまでも曹嵩の知り合いであって、曹操の知り合いではない。
今から訪ねるのが親族である夏侯惇や曹仁であれば曹操も絶対の信頼を置けるのだが、商人として実績を上げている駆け引き上手の呂伯奢を盲目的に信じる事は難しい。
董卓からの手配書が曹操より先にここまで届いていたのだから、この先にも当然出回っていると考えるべきであり、商人である呂伯奢は理ではなく利を重視して動くと思った方が良い。
曹操はそう言う事を陳宮に言う。
「商人、ですか」
陳宮は眉を寄せる。
何か商人に嫌な思い出でもあるのだろうか。
呂伯奢の家は通りに面した所にあり、かなりの大邸宅だった。
都にも建てられそうなくらいの財力を感じさせる館だったが、あえて郊外に建てているのは、おそらく中央とのつながりより税収による損失の方が大きいと判断しての事だろう。
「突然押しかけて良かったかなぁ」
「何を今更。それは向かう前に気をつけるような事でしょう」
呂伯奢の家の門の前で呟く曹操に、陳宮は呆れて言う。
一応呂伯奢邸の周囲を見回してみるが、この近辺に伏兵の様子は無い。
しかし、呂伯奢邸は大きく広い。使用人なども多そうだった。
「こんばんは、夜分申し訳ありません」
曹操はそう声をかけると、邸宅から一人の使用人と思われる若い娘が顔を出す。
「はい、どちら様でしょうか」
「譙郡の曹嵩の息子、曹操です。呂伯奢様にお会いする為に参りました。呂伯奢様はご在宅でしょうか」
「はい。取り次ぎますので、少々お待ち下さい」
少女は疑う様子も無く、屋敷の中へ行く。
まだお尋ね者としての手配は、ここまで届いていないのかも知れない。
もし届いていて演技しているのであれば大したモノだと思うが、今の少女はそんな事は考えてもいないような反応だった。
しばらく待つと、初老の男性がやってくる。
「これは曹操殿、お久しぶりです」
「こちらこそ、ご無沙汰しております。家主自らにお出迎えしていただけるとは」
「いやいや、儂など一介の商人。官位にある曹操様は目上にも当たるお方ですので」
見るからに人の良さそうな翁と言った風貌の男性、呂伯奢は曹操の手を取って言う。
「ご立派になられて。もう曹家の阿瞞とは言えませんなぁ」
「無駄に歳を重ねただけですよ」
まるで孫と祖父の会話の様に、呂伯奢と曹操は語り合う。
「ところでこの度は、この翁に嫁の紹介ですかな?」
呂伯奢は曹操の後方に控える陳宮を見ながら、曹操に尋ねる。
「いえ、彼女は私が故郷へ帰るところ、色々と協力してくれた女性です。妻ではありません」
「陳宮と申します。以後、お見知りおきを」
陳宮は呂伯奢に向かって頭を下げる。
「これは失礼しました。呂伯奢です。こんなあばら屋ですが、どうぞくつろいで下さい」
呂伯奢は陳宮に向かって言う。
この豪邸があばら屋だったら、宮廷でもない限りまともな家ではない事になりそうだが、呂伯奢なりに遠慮の言葉だったと思うのだが、これはもう嫌味でしかない。
そう言う感覚とはズレているのだ。
呂伯奢の案内で曹操と陳宮は、客間へ通される。
「ちょうど酒を切らしていましてな。ちょっと買ってきます。家の者達には食事の用意をさせますので、どうかしばらくお待ち下さい」
呂伯奢の申し出に、曹操は首を振る。
「そこまでのもてなしは不要です。急な訪問に対し、一晩の宿を貸していただけるだけで十分なのですから」
「いやいや、曹家の孟徳様をもてなさなかったとあっては、この呂伯奢、客の扱いを知らぬ不届き者となります。なにとぞ、ごゆっくり」
呂伯奢はそう言うと、二人を客間に残して去っていく。
曹操が口を開こうとするのを陳宮は制し、呂伯奢が出て行った扉に耳を当てて聞き耳を立てる。
「……疑わしいですか?」
曹操は陳宮に尋ねる。
「私の目には、呂伯奢が嘘をついている様には見えませんでしたが」
「ええ、私の目にもあの方が嘘をついて騙そうとしている様には見えませんでした」
呂伯奢が戻ってこない事を確認して、曹操に向かって陳宮が言う。
「だからこそおかしいのです。私は貴公の手配書が届いてから、すぐに周辺にも手配書を配りました。地理的に考えても、この呂伯奢邸であれば貴公の手配書は届いていなければおかしいのです。それなのに家主にそれを知った気配が無い」
陳宮の言葉に、曹操は警戒を強める。
「家人の中に情報を握りつぶした者がいる、と言う事ですね。原因次第では致命傷になると言うわけですか」
「主に対する忠誠心過剰か、己の欲の為に報告の義務を怠ったのか、それが独断なのか、それとも主以外の総意なのか。どちらにしても、この家の中には曹操殿を害そうと考えている輩がいる事は確かです」
曹操と陳宮は、お互いに剣に手をかける。
客間を抜けると、現時点で家人がもっとも多く集まっている場所である調理場を目指す。
そこからは刀を研ぐ音と、数人の家人の声が聞こえる。
「まずは縛ってからじゃないか?」
「いや、結局は殺すんだから、さっさとした方が良い」
調理場からそんな声が聞こえてくる。
「呂伯奢は商人としてはともかく、人を使うのはそこまで上手く無いみたいだ」
曹操が小声で陳宮に言う。
「中の様子は分からないが、おそらく五人前後。まだ調理師だけみたいなので、先手を取れば一気に制圧出来そうですが」
「私の武芸の心配なら無用です」
「戦力として期待しています」
曹操と陳宮は頷き合うと調理場に飛び込み、剣を抜いて調理中だった家人達を切り捨てる。
「うわっ、何だ?」
家人の生き残りが発する事が出来た、唯一の言葉だった。
調理場にいた家人は六人だったが、曹操と陳宮で全て切り捨てる事に成功した。
六人の家人はそれぞれに肉きり包丁を持っていた。
「陳宮殿、これをどう見る?」
曹操は吊るされている大猪を見ながら、陳宮に尋ねる。
「……先程の会話は、我々では無く、この猪の話だったのですか?」
陳宮は僅かに眉を寄せ、自分が切り殺した家人達を見下ろす。
「……いや、おかしくないですか、曹操殿」
「おかしい、とは?」
「既に縛って、しかも屠殺も済み、血抜きを終えた猪の捌き方について、縛るのが先かどうかの相談など必要でしょうか? それに調理している全員がそれぞれ大きな肉きり包丁を持っている事も不自然です。確かに解体は手間がかかるでしょうが、全員で出来る作業では無い以上、分業するべきです」
陳宮の答えに、曹操は頷く。
「私もそう考えました。今から確認する事は出来ませんが、状況から考えるに身を守る為の正当防衛……、にしてはやり過ぎたかもしれませんが、後手に回ったのでは我々もこの猪と同じだったでしょう」
曹操は切り捨てた家人達を調べる。
「曹操殿? この上、何を? さすがの呂伯奢も、この状況を見て曹操殿を庇い立てするとは考えにくいのですが」
「いえ、確たる証拠を見せれば、呂伯奢も考えてくれるでしょう。それに、私なりに考えあっての事」
そう言いながら、曹操は家人達の死体を調べている。
「ありました。確たる証拠です」
曹操が家人の死体から取り出したのは、陳宮が配らせたと言う曹操の手配書だった。
「呂伯奢がコレを知っていたかどうか。知っていたのであれば、呂伯奢も切り捨てる必要があるでしょうが、知らなければこちらから呂伯奢に詰め寄ることが出来ます」
「盗人猛々しいにもほどがあるのでは?」
「そこを悩む余裕が無いのですよ」
そう答える曹操だが、その口調は冷静で余裕はたっぷり感じ取れる。
「……ありました。陳宮殿、これに見覚えは?」
曹操は家人の一人の懐から、一枚の手配書を見つけて陳宮に見せる。
「私が配らせた手配書ですね。これが届いていたのに、家主の呂伯奢殿は何も知らなかったと言う事ですか」
「あの方の限界でしょうね。算盤だけで人を思う様には動かせないモノです」
曹操は手配書を懐に入れながら、思案する。
「では、曹操殿。この後、屋敷を制圧する為にどう動きますか?」
「それは特に必要ありません。罪状を読み上げれば、家人は納得するでしょう。この者達は呂伯奢ではなく、しかも家主に黙っていたと言う事は私を討つなり捕らえるなりした後には、全てを呂伯奢のせいにしようとしていたのでしょうから」
たかが一家人がそこまで考えるものか、と陳宮は思ったのだがすぐに曹操の真意を理解した。
曹操は呂伯奢を丸呑みするつもりなのだ。
現時点では、呂伯奢は曹操にとって父親の知人でしかない。
だが、呂伯奢個人はともかく彼の財を見逃す手は無い。
曹操の実家も富豪なのだが私設で集めるとなると、軍とは金のかかるモノであり、金はいくらあっても使い道はあるのだから困るものではないのだ。
そう考えると、曹操の手ではやはりぬるいのではないか、と陳宮は考えた。
曹操は呂伯奢と言う人物を信用しているようだが、陳宮は呂伯奢と言う人物を曹操と同じように手放しに信用する事は出来ない。
商人には商人の戦い方がある事を、陳宮は知っている。
武将の信頼の仕方と商人の信用とは、まったく違うのだ。
曹操であればその事も知っているはずだが、曹操としてはあったばかりの陳宮より父の知人として付き合いのあった呂伯奢の方を信頼しているのかも知れない。
それは油断ではないか。
ここで曹操を失うような事があっては、陳宮の行動も無に帰す事になる。
独断であったとしても、ここは動くべき時だ。
曹操は振り返る。
「何か?」
陳宮が不思議そうに言う。
何か、どころではない。
陳宮は曹操の考えに賛同し、県令の職をその場で辞して、そのまま曹操と同行しているのである。
中牟県の者達はさぞかし困るだろうと思ったのだが、次期県令の育成は済んでいると言う事で、自分が抜けても問題ないと陳宮は言っていた。
どちらかといえば、堅苦しい県令がいなくなった事を喜んでいるかも知れない、と陳宮はクスリともせずに言う。
冗談のつもりなのかもしれないが、もしそうだったら表情はもう少し和らげないと何の効果も無い。
むしろ笑えない分、逆効果である。
「それで、このまま故郷へ急ぐのですか? 曹操殿」
「いや、途中で父の友人の呂伯奢のところで休ませてもらいましょう。一気に駆け抜けるには、まだ距離があります」
「分かりました」
相変わらず陳宮が何を考えているのか分かりづらい。
「ところで、呂伯奢殿と言うのはどう言う人物で?」
陳宮としては、曹操の父親の知り合いなど赤の他人でしかないので気になるのは分かる。
地元では富豪として知られる曹家であり、呂伯奢は父である曹嵩と商売を行っている商人である。
中々の大商人であり、その財力は地元では有名だった。
だが、信用出来るかどうかと言う点では、曹操にとっても問題だ。
呂伯奢はあくまでも曹嵩の知り合いであって、曹操の知り合いではない。
今から訪ねるのが親族である夏侯惇や曹仁であれば曹操も絶対の信頼を置けるのだが、商人として実績を上げている駆け引き上手の呂伯奢を盲目的に信じる事は難しい。
董卓からの手配書が曹操より先にここまで届いていたのだから、この先にも当然出回っていると考えるべきであり、商人である呂伯奢は理ではなく利を重視して動くと思った方が良い。
曹操はそう言う事を陳宮に言う。
「商人、ですか」
陳宮は眉を寄せる。
何か商人に嫌な思い出でもあるのだろうか。
呂伯奢の家は通りに面した所にあり、かなりの大邸宅だった。
都にも建てられそうなくらいの財力を感じさせる館だったが、あえて郊外に建てているのは、おそらく中央とのつながりより税収による損失の方が大きいと判断しての事だろう。
「突然押しかけて良かったかなぁ」
「何を今更。それは向かう前に気をつけるような事でしょう」
呂伯奢の家の門の前で呟く曹操に、陳宮は呆れて言う。
一応呂伯奢邸の周囲を見回してみるが、この近辺に伏兵の様子は無い。
しかし、呂伯奢邸は大きく広い。使用人なども多そうだった。
「こんばんは、夜分申し訳ありません」
曹操はそう声をかけると、邸宅から一人の使用人と思われる若い娘が顔を出す。
「はい、どちら様でしょうか」
「譙郡の曹嵩の息子、曹操です。呂伯奢様にお会いする為に参りました。呂伯奢様はご在宅でしょうか」
「はい。取り次ぎますので、少々お待ち下さい」
少女は疑う様子も無く、屋敷の中へ行く。
まだお尋ね者としての手配は、ここまで届いていないのかも知れない。
もし届いていて演技しているのであれば大したモノだと思うが、今の少女はそんな事は考えてもいないような反応だった。
しばらく待つと、初老の男性がやってくる。
「これは曹操殿、お久しぶりです」
「こちらこそ、ご無沙汰しております。家主自らにお出迎えしていただけるとは」
「いやいや、儂など一介の商人。官位にある曹操様は目上にも当たるお方ですので」
見るからに人の良さそうな翁と言った風貌の男性、呂伯奢は曹操の手を取って言う。
「ご立派になられて。もう曹家の阿瞞とは言えませんなぁ」
「無駄に歳を重ねただけですよ」
まるで孫と祖父の会話の様に、呂伯奢と曹操は語り合う。
「ところでこの度は、この翁に嫁の紹介ですかな?」
呂伯奢は曹操の後方に控える陳宮を見ながら、曹操に尋ねる。
「いえ、彼女は私が故郷へ帰るところ、色々と協力してくれた女性です。妻ではありません」
「陳宮と申します。以後、お見知りおきを」
陳宮は呂伯奢に向かって頭を下げる。
「これは失礼しました。呂伯奢です。こんなあばら屋ですが、どうぞくつろいで下さい」
呂伯奢は陳宮に向かって言う。
この豪邸があばら屋だったら、宮廷でもない限りまともな家ではない事になりそうだが、呂伯奢なりに遠慮の言葉だったと思うのだが、これはもう嫌味でしかない。
そう言う感覚とはズレているのだ。
呂伯奢の案内で曹操と陳宮は、客間へ通される。
「ちょうど酒を切らしていましてな。ちょっと買ってきます。家の者達には食事の用意をさせますので、どうかしばらくお待ち下さい」
呂伯奢の申し出に、曹操は首を振る。
「そこまでのもてなしは不要です。急な訪問に対し、一晩の宿を貸していただけるだけで十分なのですから」
「いやいや、曹家の孟徳様をもてなさなかったとあっては、この呂伯奢、客の扱いを知らぬ不届き者となります。なにとぞ、ごゆっくり」
呂伯奢はそう言うと、二人を客間に残して去っていく。
曹操が口を開こうとするのを陳宮は制し、呂伯奢が出て行った扉に耳を当てて聞き耳を立てる。
「……疑わしいですか?」
曹操は陳宮に尋ねる。
「私の目には、呂伯奢が嘘をついている様には見えませんでしたが」
「ええ、私の目にもあの方が嘘をついて騙そうとしている様には見えませんでした」
呂伯奢が戻ってこない事を確認して、曹操に向かって陳宮が言う。
「だからこそおかしいのです。私は貴公の手配書が届いてから、すぐに周辺にも手配書を配りました。地理的に考えても、この呂伯奢邸であれば貴公の手配書は届いていなければおかしいのです。それなのに家主にそれを知った気配が無い」
陳宮の言葉に、曹操は警戒を強める。
「家人の中に情報を握りつぶした者がいる、と言う事ですね。原因次第では致命傷になると言うわけですか」
「主に対する忠誠心過剰か、己の欲の為に報告の義務を怠ったのか、それが独断なのか、それとも主以外の総意なのか。どちらにしても、この家の中には曹操殿を害そうと考えている輩がいる事は確かです」
曹操と陳宮は、お互いに剣に手をかける。
客間を抜けると、現時点で家人がもっとも多く集まっている場所である調理場を目指す。
そこからは刀を研ぐ音と、数人の家人の声が聞こえる。
「まずは縛ってからじゃないか?」
「いや、結局は殺すんだから、さっさとした方が良い」
調理場からそんな声が聞こえてくる。
「呂伯奢は商人としてはともかく、人を使うのはそこまで上手く無いみたいだ」
曹操が小声で陳宮に言う。
「中の様子は分からないが、おそらく五人前後。まだ調理師だけみたいなので、先手を取れば一気に制圧出来そうですが」
「私の武芸の心配なら無用です」
「戦力として期待しています」
曹操と陳宮は頷き合うと調理場に飛び込み、剣を抜いて調理中だった家人達を切り捨てる。
「うわっ、何だ?」
家人の生き残りが発する事が出来た、唯一の言葉だった。
調理場にいた家人は六人だったが、曹操と陳宮で全て切り捨てる事に成功した。
六人の家人はそれぞれに肉きり包丁を持っていた。
「陳宮殿、これをどう見る?」
曹操は吊るされている大猪を見ながら、陳宮に尋ねる。
「……先程の会話は、我々では無く、この猪の話だったのですか?」
陳宮は僅かに眉を寄せ、自分が切り殺した家人達を見下ろす。
「……いや、おかしくないですか、曹操殿」
「おかしい、とは?」
「既に縛って、しかも屠殺も済み、血抜きを終えた猪の捌き方について、縛るのが先かどうかの相談など必要でしょうか? それに調理している全員がそれぞれ大きな肉きり包丁を持っている事も不自然です。確かに解体は手間がかかるでしょうが、全員で出来る作業では無い以上、分業するべきです」
陳宮の答えに、曹操は頷く。
「私もそう考えました。今から確認する事は出来ませんが、状況から考えるに身を守る為の正当防衛……、にしてはやり過ぎたかもしれませんが、後手に回ったのでは我々もこの猪と同じだったでしょう」
曹操は切り捨てた家人達を調べる。
「曹操殿? この上、何を? さすがの呂伯奢も、この状況を見て曹操殿を庇い立てするとは考えにくいのですが」
「いえ、確たる証拠を見せれば、呂伯奢も考えてくれるでしょう。それに、私なりに考えあっての事」
そう言いながら、曹操は家人達の死体を調べている。
「ありました。確たる証拠です」
曹操が家人の死体から取り出したのは、陳宮が配らせたと言う曹操の手配書だった。
「呂伯奢がコレを知っていたかどうか。知っていたのであれば、呂伯奢も切り捨てる必要があるでしょうが、知らなければこちらから呂伯奢に詰め寄ることが出来ます」
「盗人猛々しいにもほどがあるのでは?」
「そこを悩む余裕が無いのですよ」
そう答える曹操だが、その口調は冷静で余裕はたっぷり感じ取れる。
「……ありました。陳宮殿、これに見覚えは?」
曹操は家人の一人の懐から、一枚の手配書を見つけて陳宮に見せる。
「私が配らせた手配書ですね。これが届いていたのに、家主の呂伯奢殿は何も知らなかったと言う事ですか」
「あの方の限界でしょうね。算盤だけで人を思う様には動かせないモノです」
曹操は手配書を懐に入れながら、思案する。
「では、曹操殿。この後、屋敷を制圧する為にどう動きますか?」
「それは特に必要ありません。罪状を読み上げれば、家人は納得するでしょう。この者達は呂伯奢ではなく、しかも家主に黙っていたと言う事は私を討つなり捕らえるなりした後には、全てを呂伯奢のせいにしようとしていたのでしょうから」
たかが一家人がそこまで考えるものか、と陳宮は思ったのだがすぐに曹操の真意を理解した。
曹操は呂伯奢を丸呑みするつもりなのだ。
現時点では、呂伯奢は曹操にとって父親の知人でしかない。
だが、呂伯奢個人はともかく彼の財を見逃す手は無い。
曹操の実家も富豪なのだが私設で集めるとなると、軍とは金のかかるモノであり、金はいくらあっても使い道はあるのだから困るものではないのだ。
そう考えると、曹操の手ではやはりぬるいのではないか、と陳宮は考えた。
曹操は呂伯奢と言う人物を信用しているようだが、陳宮は呂伯奢と言う人物を曹操と同じように手放しに信用する事は出来ない。
商人には商人の戦い方がある事を、陳宮は知っている。
武将の信頼の仕方と商人の信用とは、まったく違うのだ。
曹操であればその事も知っているはずだが、曹操としてはあったばかりの陳宮より父の知人として付き合いのあった呂伯奢の方を信頼しているのかも知れない。
それは油断ではないか。
ここで曹操を失うような事があっては、陳宮の行動も無に帰す事になる。
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