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その大地、徐州

国を割る国 8

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「おやっさんを疑うワケじゃないですけど、本当に大丈夫だったんですか?」

 張遼は陳珪に尋ねる。

 陳珪は徐州軍の中では通称『おやっさん』で通っており、張遼や高順などは陳珪をそう呼んでいる。

 陳宮はあまりその呼び方を気に入っていないらしく、陳珪をそう呼ぶ度に苦い表情を浮かべていた。

 高順などはそれが気に入っているせいもあって、呂布軍の中でも陳珪との距離が近い。

 一方、陳珪を『おやっさん』と呼ぶ事が気に入らないと思っているのは陳宮以外にも、魏続や成廉と言った文官を下に見ている者達がいた。

 今回の策についても魏続は気に入らないようだったが、だからと言って陳珪がどの様な策を用いようとしているかが分からないので、表立って反対する事も出来ずにブツブツと文句を言うくらいしか出来なかった。

 張遼としては徐州の太守が呂布である以上、呂布軍だとか徐州軍だとかで揉めない様にしていきたいと考えているのだが、曹性や宋憲などは賛同してくれているものの、呂布軍側も徐州軍側も中々歩み寄ろうと行動する事はもちろん、その心がけすら持とうとしていない。

 今回張遼が陳珪の同行者に選ばれたのも、そう言う事情からだろうと張遼は思っていた。

「大丈夫、とは?」

 陳珪は張遼の質問の意図が分からないと言う様に、首を傾げる。

「いや、何の策かは知らないですが楊奉将軍と韓暹将軍の両将軍は元々黄巾党の一員だった武将。おやっさんはそもそも会ってもらえないかもしれないと思いまして」

「ふーむ。文遠君なら分かっていると思ったのですが、そこから分かっていないみたいですなぁ」

「そう、それ。おやっさんもアネさんも何をどう考えて、何をしようとしてるんです?」

「いやいや、大した事ではなく、誰でも思いつく事ですよ。だから陳宮軍師もすぐに許可してくれたワケですからね。袁術軍の十万と言っても、袁術軍は長く大きな戦を行っていません。大軍を率いて戦った経験のある武将と言えば、反董卓連合に加わった袁術自身と、今回の楊奉と韓暹の両将軍くらい。だったら、その二人を袁術軍から離反させてしまおうと言う事ですよ」

 さも当然と言わんばかりに陳珪は言うが、張遼は唖然とする。

「……正気ですか?」

「もちろん。成功する見込みもあるから、私もこうやって老骨に鞭打っているわけですから」

「いや、おやっさん、そんなに歳じゃないでしょう。そんな事より、離反させるって言っても、おやっさん手ぶらじゃないですか。こう言うとなんですけど、あの二人は元黄巾党で漢軍の中でも評判があまり良くなかったですよ? そんな奴らに手ぶらって」

「はっはっは、それは大丈夫。とびきり高価なお宝を交渉材料にする予定ですから」

 陳珪は余裕の表情である。

 確かに袁術軍十万の内、楊奉と韓暹が離反すれば大幅な戦力低下となる。

 しかし、陳珪や陳宮が思うほど簡単に事が運ぶものなのだろうか、と張遼は不安になる。

「で、俺は何をする為におやっさんと一緒に行くんですか?」

「そりゃ、交渉が上手くいかなかった時に私を守ってもらう為ですよ」

「……守るって言っても、どれくらいの規模から?」

「最悪、袁術軍十万から守ってもらう事になりますかねぇ」

「無茶言わないで下さいよ。呂布将軍ならともかく、俺には無理ですから」

「はっはっは。まあ、そうならない様に努力しますので」

 陳珪は朗らかに笑うが、張遼としては不安を煽られただけだった。

 よくよく考えてみると、陳珪は楊奉と韓暹に離反を勧める事に失敗するとは思っていない様に見えるのだが、説得以前に会えるかどうかも怪しい。

 何しろこちらは徐州側からの使者であり、しかも張遼は楊奉と韓暹とは面識があるのだから誤魔化しようがない。

 そんな不安を抱えていた張遼だったが、袁術軍の陣営に到着すると当然の事ながら兵士達に止められる。

 そこで陳珪は身分を隠す事なく、『徐州からの使者で、楊奉将軍と韓暹将軍にお会いしたい』とまで兵士に伝えた。

 今にも槍を構えた兵士達から囲まれるかと張遼は思っていたのだが、兵士達は徐州からの使者である陳珪と張遼を自分達の将である楊奉と韓暹のところまで案内までしてくれた。

「……おやっさん、どうなってるんです?」

 張遼はあまりにも不可解なので陳珪に尋ねる。

「袁術軍も郝萌からの情報を待っているんですよ。だから我々はこちらからも『待ち人』扱いなのですよ」

 陳珪が笑いながら説明する。

 郝萌が呂布軍側に寝返っている事は、まだ袁術軍には伝わっていない。

 陳珪はその事を最大限に利用しているのだ。

 大した度胸だなぁ。

 張遼も胆力はある方だと思っていたが、陳珪も相当な胆の太さである。

「しっかし、おやっさんもアネさんも、よく分かりますよね。どんな頭の中をしているのか、気になるところですよ」

「いやいや、私など陳宮軍師などと比べるとただの老いぼれですよ。陳宮軍師が言うには、曹操はさらに上だとか。それに、私からすれば将軍達の身体能力の方が不思議です。馬に乗った状態で槍を振るい、さらにはそれで戦闘まで行うと言うのは正気の沙汰とは思えないですよ」

 そういうものだろうか、と張遼は首を傾げる。

 以前張遼が陳宮に個人的に話をしていた時に、軍師と武将では別の生き物だと話した事があった。

 張遼が陳珪や陳宮の頭の中が理解出来ない様に、陳珪には張遼や呂布の様な馬術や戦闘技術などが信じられないと言う。

 張遼などはちょっと頑張れば出来る様になると思うのだが、同じように陳珪などは少し考えれば分かると思うらしい。

「文遠君も、策略や謀略と言うモノを知った方が良い。今後、一流の武将となるのであれば切っても切れないモノだからねぇ」

「好きじゃないんですよ、そう言うの」

 張遼の理想は、やはり呂布奉先なのである。

 呂布はちょっとやそっとの策略などは、力だけで粉砕してしまえる実力があった。

 そんな呂布の副将として常に傍らにいた張遼なので、いずれは自分もそうなりたいと言う想いがあるのだ。

「いやいや、謀略家になれと言っている訳ではなく、武将としての幅を広げた方が良いと言う話だよ。単純な戦闘能力の高さで張飛が上と見るか、それとも関羽の方が上と見るか。そう言う話だと言う事は分かるかい?」

「ああ、それなら分かります」

 関羽から手ほどき、と言うのは相当厳しかったが、それを受けていた張遼は関羽自身から自分に匹敵する武将として名を上げたのが呂布と張飛だった。

 だが、関羽や呂布と比べて張飛は将として見れば明らかに格下だと、張遼は思う。

 そんな事を口にすれば張飛の蛇矛が振り回される事になりそうだったので言った事は無かったが、そう言う例えが出てきたと言う事は陳珪も同じ様に思っていたと言う事だ。

「勉強はしているんですけどね、アネさんがアレなんで」

「まぁ、あの人はねぇ」

 陳珪も苦笑いしている。

 陳宮の優秀さは誰もが認めるところではあるのだが、とにかく人使いが荒いと言うか人の使い方が下手と言うか、呂布軍の中でも評判が非常に悪い。

 能力は高いのだが、やはり陳宮が女性であると言う事も反感を招いている一因でもあるのだが、陳宮は頑ななまでに態度を軟化させようとしない。

 兵士達に案内されて、陳珪と張遼は楊奉と韓暹の天幕に案内される。

「どうも、徐州から参りました。陳珪と申す者です」

 陳珪は相変わらず身分を偽る様な事はなく、楊奉と韓暹に名乗る。

 楊奉が手振りで兵を下がらせると、陳珪と張遼を天幕の中に招く。

 面識のある張遼だったが、この時の楊奉と韓暹をすぐに当人達だと記憶と結びつける事が出来なかった。

 あまりにも雰囲気が違ったのだ。

 長安で会った時から粗野な雰囲気はあったが、今の二人はさらにみすぼらしさも目に付く。

 鎧の傷みや汚れも目に付き、その表情からも疲れた様子がアリアリと浮かんでいる。

 呂布陣営にいる張遼が言えた義理ではないのだが、楊奉と韓暹は長安に残った漢軍の武将だったはずだ。

 あからさまに落ちぶれている様子から見ても、何かしら失敗して袁術軍に流れ着いたものの、そこでも末端の扱いを受けているのだろう。

「郝萌の使いか。準備は整ったのか?」

 楊奉が陳珪に尋ねる。

「郝萌の使い? 私は呂布将軍の手の者。この者を見たらお分かりでしょう」

 陳珪はそう言って、張遼の方を見る。

「……張遼か!」

 韓暹が先に気付いて剣に手をかける。

「お二方には帰順をお勧めに参ったのですよ」

 陳珪は物怖じする事なく、淡々と話す。

「帰順だと? 馬鹿な。我らは十万の大軍を持って攻め込んでいるところ。降伏するべきはそちらではないか」

 韓暹に出遅れたせいか、それとも多少なりとも器に差があったのか、楊奉は座ったまま陳珪に向かって言う。

「はっはっは。十万とは片腹痛い。相手は天下無双の呂布将軍ですぞ? それに小沛にはあの劉備三兄弟もいる。此度の戦、百戦して一勝たりとも得られない負け戦。袁術軍の身なりだけの武将モドキならばともかく、歴戦の将軍であるお二方に分からないはずはありますまい」

 陳珪は言葉巧みに言う。

 確かに呂布の武勇は桁外れであり、あの得体の知れない劉備はともかく、関羽と張飛が万夫不当の豪傑である事は広く知られている事でもある。

 兵力に差があるからと言って、それほどの化物と戦いたいと思う者は、よほど手柄に目が眩まない限りは多くないだろう。

「お二方であれば、呂布将軍が戦った反董卓連合がどうなったかお分かりでしょう。その後の賊軍との戦いや、徐州小沛で曹操と戦った結果がどうなったのかもご存知のはず。呂布将軍はいずれの戦も大軍を相手に少数で戦い、その結果が今の武名となっています。さて、此度の袁術軍の中に呂布将軍と戦える豪傑はいますかな?」

 陳珪の言葉に、二人は早くも心を動かされている。

 長安での戦いの際には呂布の元で戦った二人だが、あの時は徐栄が四天王に敗れて以降はにらみ合いだった。

 にも関わらず、呂布の圧倒的な存在感は充分過ぎるほどに伝わってきた。

 はっきり言ってしまえば、二人共今回の戦については反対だったのだが袁術軍の末端の立場では意見も出せない。

 彼らは呂布の強さも、曹操の強さも身を持って知っている。

 まだ長安で漢軍の武将だった頃、帝が都から脱出すると言う騒ぎが起きた時に追跡の任を受けたのが楊奉と韓暹だったのだが、その時に帝救護に現れた曹操に完膚なきまでに叩きのめされた。

 そこからかろうじて逃げ延びる事が出来た為、今に至っている。

 どちらかと戦えと言われても嫌だったのだが、それでも呂布の方には郝萌と言う内通者がいるので、仕掛けがあるだけこちらの方がマシだと思っていたのだが、その目論見も外れたらしい。

「言葉だけならば十万であろうと百万であろうと勝利する事は出来よう。だが、実際に勝利するのは至難の技。特に戦場に出ない文官とあれば尚の事。呂布一人で十万を撃退出来る訳でも無いだろう」

 それでも楊奉は言葉をひねり出す。

 その反論はほぼ内通に賛同しているのと同じなのだが、口にしている楊奉はその事に気付いていない。

「難しい話ではないですよ。袁術軍は本拠地の守備兵を減らしてまで遠征軍を組織したが、これがすでに早計。この徐州ですら十万の兵を相手にであれば五年は戦い続ける事は出来ますし、守るのが規格外の猛将呂布とあれば二十万の兵で攻められても落ちる事はありますまい。それほど長期の兵を袁術軍はいつまでも維持出来ますかな?」

「それは……」

「まだあります。この戦が本格的に始まったところを見計らって、江南の孫策が袁術の本拠地寿春を攻める手筈になっています。その知らせが入り次第、袁術は許昌攻めを中断して寿春に引き返すでしょう。皇帝が率先して戦場から引き返したと知られて、それでも徐州攻めを続けると思いますか? そして、その時の殿軍が誰になるか。そこをよくお考え下さい」

「見返りはあるのだろうな」

 韓暹が承諾の条件の話を切り出す。

「それはもう、この世に二つとない宝をご用意しております」

 陳珪が言うと、楊奉と韓暹は次の言葉に集中する。

「楊奉将軍と韓暹将軍、あなた方ご両名の命です。もしこのまま徐州軍と戦うと言うのであれば、お二方は先鋒に当てられるでしょう。その時のお相手は、この張遼になるか、あるいは曹操軍を焼き払った神算鬼謀の軍師陳宮になるか、はたまた呂布将軍自らが直接出てくるか。ですが、こちら側に付くと言うのであれば、必勝の策がございます。強制も強要もしませんので、どちらかお好きな方をご自由にお選び下さい」

 おやっさんも結構悪い人だな。

 いかにも好々爺に見える陳珪だが、徐州の重臣である。

 一筋縄ではいかない人物である事を、張遼は改めて思い知らされていた。
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