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第8話 八方ブスの張り紙騒動
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陽苑の廊下の角には、一枚の板が掛けられている。
行事の知らせや当番の表、なくし物のお知らせ。紙が重なり合うその板は、陽苑で働く者たちの「今」が集まる場所だった。休憩に向かう女官たちは、そこを一度のぞいてから茶を飲みに行くのがいつもの流れだ。
「……ねえ、見た?」
その朝、最初に声を上げたのは若い女官だった。廊下の真ん中で足を止め、掲示板の一角を指さす。
「何あれ。誰が貼ったの?」
「知らない。でも、字はやたらと勢いがあるよね」
二人の視線の先には、新しい紙が一枚、真ん中近くに貼られていた。太い筆で、大きくこう書かれている。
『八方ブスに注意』
意味を考える前に、その言葉の強さが胸に刺さる。周囲にいた女官たちも、つられるように足を止め、その紙を見つめた。
「……これって、どういう意味?」
「八方美人なら聞いたことあるけど」
「『ブス』って、さすがにひどくない?」
ひそひそ声が、廊下の片側からもう片側へと流れていく。誰かが紙をはがそうと手を伸ばしかけて、慌てて引っ込めた。
「でも、勝手にはがしたら、それはそれで怒られそうだし……」
「規則とか、あるのかな」
そんな噂の渦が、洗濯を終えて休憩に向かっていた奈津海の耳にも届いた。
「何騒いでるの」
桶を片手に通りかかると、女官のひとりが気まずそうに道を開ける。
「あ、奈津海さん。あの、その……掲示板、見ました?」
「掲示板?」
奈津海は首をかしげ、視線をそちらに向けた。一瞬で、その紙が目に飛び込んでくる。
『八方ブスに注意』
太い筆跡。真ん中を少しだけ外した場所に貼られているのが、余計に目立った。
「……」
胸の奥が、きゅっと縮む。
(誰か、何かやらかした? それとも——)
ここ最近、自分が何度「顔がこわい」と言われたか、指折り数えられるほどだ。洗濯場で、廊下で、まかないの席で。「真剣なだけですよ」と笑い飛ばしてきたけれど、心のどこかでは引っかかっていた。
(もしかして、私のこと?)
そう思ってしまった瞬間、紙の文字が、自分に向けられた矢印のように見えてくる。
「……休憩室、行ってくる」
奈津海は、桶を少し強く抱え直し、掲示板から視線をそらした。ひそひそ声が背中を追いかけてくる気がして、歩幅は自然と大きくなる。
その頃、厨房では、みうが配膳用の盆を整えていた。昼の献立を書いた紙を一枚ずつ確認し、菜園から届いた野菜の名前が間違っていないか、慎重に目を通す。
「……あれ?」
配膳当番の女官が、戸口のところで立ち止まった。
「みうさん、掲示板見ました?」
「掲示板ですか?」
「うん。あんな言い方、ちょっとひどいですよね」
みうは、盆の上の器を見つめたまま首をかしげた。
「何か、貼ってあったんですか?」
「『八方ブスに注意』って。誰かの悪口なんじゃないかって、みんな言ってます」
その言葉が、みうの胸に重く落ちた。
(八方……)
みうは、自分がどれだけあちこちの部署に顔を出しているかを、知っている。配膳係として、陽苑だけでなく周囲の部屋へも足を運ぶ。洗濯場、警備の詰所、事務室。あいさつをしながら、つい余計なひと言を添えてしまうことも多い。
(もしかして、私のことを……)
あちこちに顔を出しては笑っているだけで、肝心な時に何もできない。そんなふうに思われているのではないか。誰かを困らせたことがあったのではないか。
胸が、きゅっと苦しくなった。
「……とりあえず、配膳に行ってきますね」
みうは笑顔を作ろうとしたが、頬の筋肉が少しぎこちなかった。
掲示板の紙一枚が、陽苑の空気を少しだけ重くする。笑い声の合間に、探るような視線が混じり始めた。
昼前、菜園から戻ってきた晴矢も、その紙を目にした。
「……八方ブス?」
桶を抱えたまま立ち止まり、紙の文字をじっと見つめる。言葉の意味はなんとなく想像できる。しかし、それをあえてここに書いて張り出す理由がわからなかった。
そこへ、ちょうど通りかかった愛祈が立ち止まる。
「お、ようやく気づいたか」
「知っていたんですか」
「朝の見回りの時にはもう貼ってあった。誰が貼ったのかは、まだ見てないがな」
愛祈は紙に近づき、腕を組んだ。
「『八方ブス』か。字面だけ見ると喧嘩を売ってるとしか思えんが……」
「意味、どう取ればいいんでしょう」
「八方美人の反対、ってところか? どこから見ても愛想のない奴、みたいな」
その説明に、晴矢の胸が少しざらついた。
「それを『注意』しろ、と。誰に向けての話なんでしょう」
「そこが問題だ」
愛祈は、廊下の向こうをちらりと見やった。休憩室に向かう女官たちが、わざと掲示板から目を逸らすように歩いていく。
「誰も自分のことだとは言わないが、誰も『自分のことじゃない』とも言い切れない。妙に後味の悪い張り紙だな」
「……はがしたほうがいいんじゃないですか」
「勝手にはがしたら、『図星の奴がやった』って噂されるぞ」
愛祈の言葉に、晴矢は言葉を失った。紙一枚で、人の心はこんなにも揺れるのか。
「誰か、落とし物のお知らせでも重ねて貼ってくれないかな」
「上書きしても、噂は残る。そういうものだ」
愛祈は小さく息を吐き、紙を指先で軽く叩いた。
「こういう妙な火種は、放っておくと面倒なことになる。事務室にも一度知らせておいたほうがいいな」
その日の夕方、事務室の机の上には、掲示板の張り紙がそっくりそのまま置かれていた。
「……字は、誰かが意識して崩しているね」
敏貴は、眼鏡越しに紙を覗き込みながら言った。
「普段からこういう字を書く人の筆跡ではない」
「わざと、ですか」
晴矢が問うと、敏貴はうなずいた。
「気づかれたくないけれど、読んでほしい。そんな感じかな」
「厄介ですね」
「厄介だけど、だからこそ放っておけない」
敏貴は、机の端に積んであった紙束に目をやった。
「この紙、見覚えがある気がするんだ」
そう言って、一枚の帳簿を開く。端に余白が多い紙が数枚挟まれていた。その質感が、張り紙とよく似ている。
「王宮の書庫に眠っていた古い本を写すために、最近この紙を何束か下ろしてきたんだ。礼儀作法の本だったかな」
「礼儀作法……」
愛祈が眉をひそめた。
「その礼儀作法の本に、『八方ブスに注意』なんて言葉が?」
「確認してみよう」
敏貴は立ち上がり、棚から鍵束を取り出した。
「書庫は一人じゃ退屈だろう。ついでに運ぶのを手伝ってくれないか」
「俺たちを荷物持ち扱いか」
愛祈は苦笑しながらも、先に立って扉を開けた。
王宮の書庫は、ひんやりとした空気に満ちていた。背の高い本棚がいくつも並び、古い紙の匂いが静かに漂う。
「礼儀作法の本は……この辺りだね」
敏貴が指先で背表紙をなぞり、一冊を抜き出した。布張りの表紙に、かすれた金文字が残っている。
『婦徳筆記』
「いかにも古そうな名前だな」
愛祈が半分あきれた声を出す。敏貴は本を机に置き、慎重にページをめくっていった。
「『起床の心得』『歩き方』『言葉の選び方』……お、ここだ」
指が止まった先に、小さな見出しがあった。
『八方ブスの戒め』
三人は顔を見合わせる。
「本当に書いてあるとはな」
愛祈が思わず笑い、すぐに真面目な顔に戻る。
「何て書いてある?」
敏貴は声に出して読み上げた。
「『八方ブスとは、己が機嫌の悪さを八方にまき散らし、目に入る人ごとに不快の種を投げることなり』……ふむ」
「……外見の話じゃないんですね」
晴矢がぽつりと言った。
「『顔かたちの美しさを言うにあらず、どの方角から見られても不機嫌なる様を戒むる言葉なり』」
敏貴は続けて読み、ページの端に小さな線が引かれているのに気づいた。
「ここ、最近誰かが読んだんだろう。新しい線だ」
「誰がこの本を? 書庫の出入りは決まっているはずだ」
「書記官と、礼儀作法係の女官、それから――」
敏貴は顎に手を当てた。
「陽苑の中で『古い言葉を調べていた』って話をしていた人は、いなかったかな」
晴矢と愛祈は顔を見合わせる。ふと、みうの姿が頭に浮かんだ。
「……みうが、最近言ってました」
晴矢が口を開いた。
「『昔の言葉には、心をまっすぐにさせる力がある気がします』って。札に書く言葉の幅を増やしたいから、本を探していると」
「みうさんが?」
愛祈は、目を丸くした。
「だが、あいつがこんな乱暴な張り紙を?」
「いや、みうが張り紙をしたとは限らない」
敏貴は首を振った。
「本を読んだ誰かが、面白半分で写しただけかもしれない。文の続きにもこうある」
敏貴は、指で文章を追っていく。
「『互いに顔見合わせて笑ひ合ひ、己を省みるべき戒めとして掲ぐるはよし。ただし、誰か一人を指す文言として用ふるべからず』」
「……なるほど」
愛祈の口元に、皮肉ではない笑みが浮かんだ。
「この本を書いた人が、今の騒ぎを見たら頭を抱えそうだな」
「本来は、『自分たちで気をつけようね』って笑い合うための言葉、ってことですか」
晴矢が、本の活字を見つめる。
「それを、誰か一人を指す悪口みたいに掲示板に貼ったから、こんなことになっている」
「つまり、張り紙をした本人も、意味をちゃんと知らなかった可能性が高い」
敏貴は本を閉じた。
「まずは、掲示板から紙を外そう。その上で、『この言葉は本来こういう意味です』ってきちんと伝えるのがいいと思う」
「誰にだ?」
「掲示板をいつも見ているみんなに、だよ」
その夕方、休憩室の前の廊下に、人だかりができた。
掲示板の前には、八方ブスの張り紙をはがした跡と、その隣に新しく貼られた紙が一枚。
『本日の読み合わせ
「八方ブス」は、顔立ちのことではなく、
どの方角にも不機嫌を向けてしまう人のこと。
一人を指して使ってはいけません――婦徳筆記より』
その下に、小さくこう書き添えられていた。
『誰もどこから見ても不機嫌な人にはなりたくないね。
だから、疲れたら休憩室で一息ついてください。 陽苑 事務』
「……敏貴さん、やるわね」
紙を見上げながら、奈津海がぽつりとつぶやいた。昼前に見た張り紙が頭をよぎり、胸の奥がまだ少しざわつく。
(自分のことだって、決めつけてたのは私のほうか)
そこへ、隣から遠慮がちな声がした。
「奈津海さん」
みうだった。昼の配膳のときから、なんとなく互いに視線を外してきた相手。今日に限って、言葉を交わすタイミングを逃していた。
「その……さっきは、休憩室に顔を出さなくてごめんなさい」
「こっちこそ。洗濯場にお茶を持っていこうと思ったけど、行きづらくて」
二人は顔を見合わせ、同時に苦笑した。
「みう、もしかして、自分のことだと思ってた?」
「……はい。奈津海さんは?」
「……まあ、少し」
言葉を重ねるうちに、肩の力が抜けていく。掲示板の新しい紙が、さっきより少し優しく見えた。
「本当の意味がわかって、よかったですね」
「うん。でも」
奈津海は、掲示板から目を離さないまま言った。
「本来の意味も、ちょっと耳が痛いわ」
「八方に不機嫌をまき散らす、でしたっけ」
「そこそこ心当たりがあるから、余計に」
二人は同時に笑った。
「じゃあ、わたしたち、八方ブスにならない練習をしましょうか」
「どうやって?」
「まず、疲れたらちゃんと休憩室に来ること」
みうは、掲示板の紙の一文を指さした。
「『疲れたら休憩室で一息ついてください』って。これ、わたしたちへの宿題みたいなものですよね」
「勝手に宿題にしないで」
そう言いながらも、奈津海の声は柔らかかった。
少し離れたところで、その様子を愛祈と晴矢が眺めていた。
「やれやれ。紙一枚でこれだけ揺れるとはな」
「でも、本来の意味を知ったうえで笑い合えるなら、まだいいほうですよね」
「そうだな」
愛祈は、掲示板の新しい紙を見上げる。
「誰もどこから見ても不機嫌な人にはなりたくない。警備としても、気をつけておくか」
「愛祈さん、十分笑ってますよ」
「それは仕事中に緩みすぎって意味か?」
二人の軽口に、晴矢の口元にも笑みが浮かんだ。
その夜、事務室の机の上には、はがした張り紙と礼儀作法の本が並んでいた。
「面白半分で写しただけ、かもしれないけど」
敏貴は、本の背表紙を指で撫でた。
「言葉は、誰かの胸に刺さることもある。だからこそ、どう貼るか、どう伝えるかも一緒に考えたいね」
「次からは、『八方ブス』じゃなくて」
みうが、札用の小さな紙を手の中でくるりと回した。
「『八方、おだやかでありたい』とかなら、どうでしょう」
「それもまた、ずいぶん難しい宿題だね」
敏貴はくすりと笑い、それでもその言葉をどこか気に入ったようにうなずいた。
「十年計画の余白に、こっそり書いておこうかな」
陽苑の掲示板から、乱暴な言葉は消えた。その代わりに、「本日の読み合わせ」と題した紙が、ときどき貼られるようになる。
そこに書かれるのは、古い本から拾ったひと言や、菜園の札に書ききれなかった小さな願い。通りかかるたびに、誰かがふっと笑ったり、ほんの少しだけ背筋を伸ばしたりする。
誰もどこから見ても不機嫌な人にはなりたくない——そんなささやかな共通認識が、陽苑の空気を、少しずつ柔らかくしていった。
行事の知らせや当番の表、なくし物のお知らせ。紙が重なり合うその板は、陽苑で働く者たちの「今」が集まる場所だった。休憩に向かう女官たちは、そこを一度のぞいてから茶を飲みに行くのがいつもの流れだ。
「……ねえ、見た?」
その朝、最初に声を上げたのは若い女官だった。廊下の真ん中で足を止め、掲示板の一角を指さす。
「何あれ。誰が貼ったの?」
「知らない。でも、字はやたらと勢いがあるよね」
二人の視線の先には、新しい紙が一枚、真ん中近くに貼られていた。太い筆で、大きくこう書かれている。
『八方ブスに注意』
意味を考える前に、その言葉の強さが胸に刺さる。周囲にいた女官たちも、つられるように足を止め、その紙を見つめた。
「……これって、どういう意味?」
「八方美人なら聞いたことあるけど」
「『ブス』って、さすがにひどくない?」
ひそひそ声が、廊下の片側からもう片側へと流れていく。誰かが紙をはがそうと手を伸ばしかけて、慌てて引っ込めた。
「でも、勝手にはがしたら、それはそれで怒られそうだし……」
「規則とか、あるのかな」
そんな噂の渦が、洗濯を終えて休憩に向かっていた奈津海の耳にも届いた。
「何騒いでるの」
桶を片手に通りかかると、女官のひとりが気まずそうに道を開ける。
「あ、奈津海さん。あの、その……掲示板、見ました?」
「掲示板?」
奈津海は首をかしげ、視線をそちらに向けた。一瞬で、その紙が目に飛び込んでくる。
『八方ブスに注意』
太い筆跡。真ん中を少しだけ外した場所に貼られているのが、余計に目立った。
「……」
胸の奥が、きゅっと縮む。
(誰か、何かやらかした? それとも——)
ここ最近、自分が何度「顔がこわい」と言われたか、指折り数えられるほどだ。洗濯場で、廊下で、まかないの席で。「真剣なだけですよ」と笑い飛ばしてきたけれど、心のどこかでは引っかかっていた。
(もしかして、私のこと?)
そう思ってしまった瞬間、紙の文字が、自分に向けられた矢印のように見えてくる。
「……休憩室、行ってくる」
奈津海は、桶を少し強く抱え直し、掲示板から視線をそらした。ひそひそ声が背中を追いかけてくる気がして、歩幅は自然と大きくなる。
その頃、厨房では、みうが配膳用の盆を整えていた。昼の献立を書いた紙を一枚ずつ確認し、菜園から届いた野菜の名前が間違っていないか、慎重に目を通す。
「……あれ?」
配膳当番の女官が、戸口のところで立ち止まった。
「みうさん、掲示板見ました?」
「掲示板ですか?」
「うん。あんな言い方、ちょっとひどいですよね」
みうは、盆の上の器を見つめたまま首をかしげた。
「何か、貼ってあったんですか?」
「『八方ブスに注意』って。誰かの悪口なんじゃないかって、みんな言ってます」
その言葉が、みうの胸に重く落ちた。
(八方……)
みうは、自分がどれだけあちこちの部署に顔を出しているかを、知っている。配膳係として、陽苑だけでなく周囲の部屋へも足を運ぶ。洗濯場、警備の詰所、事務室。あいさつをしながら、つい余計なひと言を添えてしまうことも多い。
(もしかして、私のことを……)
あちこちに顔を出しては笑っているだけで、肝心な時に何もできない。そんなふうに思われているのではないか。誰かを困らせたことがあったのではないか。
胸が、きゅっと苦しくなった。
「……とりあえず、配膳に行ってきますね」
みうは笑顔を作ろうとしたが、頬の筋肉が少しぎこちなかった。
掲示板の紙一枚が、陽苑の空気を少しだけ重くする。笑い声の合間に、探るような視線が混じり始めた。
昼前、菜園から戻ってきた晴矢も、その紙を目にした。
「……八方ブス?」
桶を抱えたまま立ち止まり、紙の文字をじっと見つめる。言葉の意味はなんとなく想像できる。しかし、それをあえてここに書いて張り出す理由がわからなかった。
そこへ、ちょうど通りかかった愛祈が立ち止まる。
「お、ようやく気づいたか」
「知っていたんですか」
「朝の見回りの時にはもう貼ってあった。誰が貼ったのかは、まだ見てないがな」
愛祈は紙に近づき、腕を組んだ。
「『八方ブス』か。字面だけ見ると喧嘩を売ってるとしか思えんが……」
「意味、どう取ればいいんでしょう」
「八方美人の反対、ってところか? どこから見ても愛想のない奴、みたいな」
その説明に、晴矢の胸が少しざらついた。
「それを『注意』しろ、と。誰に向けての話なんでしょう」
「そこが問題だ」
愛祈は、廊下の向こうをちらりと見やった。休憩室に向かう女官たちが、わざと掲示板から目を逸らすように歩いていく。
「誰も自分のことだとは言わないが、誰も『自分のことじゃない』とも言い切れない。妙に後味の悪い張り紙だな」
「……はがしたほうがいいんじゃないですか」
「勝手にはがしたら、『図星の奴がやった』って噂されるぞ」
愛祈の言葉に、晴矢は言葉を失った。紙一枚で、人の心はこんなにも揺れるのか。
「誰か、落とし物のお知らせでも重ねて貼ってくれないかな」
「上書きしても、噂は残る。そういうものだ」
愛祈は小さく息を吐き、紙を指先で軽く叩いた。
「こういう妙な火種は、放っておくと面倒なことになる。事務室にも一度知らせておいたほうがいいな」
その日の夕方、事務室の机の上には、掲示板の張り紙がそっくりそのまま置かれていた。
「……字は、誰かが意識して崩しているね」
敏貴は、眼鏡越しに紙を覗き込みながら言った。
「普段からこういう字を書く人の筆跡ではない」
「わざと、ですか」
晴矢が問うと、敏貴はうなずいた。
「気づかれたくないけれど、読んでほしい。そんな感じかな」
「厄介ですね」
「厄介だけど、だからこそ放っておけない」
敏貴は、机の端に積んであった紙束に目をやった。
「この紙、見覚えがある気がするんだ」
そう言って、一枚の帳簿を開く。端に余白が多い紙が数枚挟まれていた。その質感が、張り紙とよく似ている。
「王宮の書庫に眠っていた古い本を写すために、最近この紙を何束か下ろしてきたんだ。礼儀作法の本だったかな」
「礼儀作法……」
愛祈が眉をひそめた。
「その礼儀作法の本に、『八方ブスに注意』なんて言葉が?」
「確認してみよう」
敏貴は立ち上がり、棚から鍵束を取り出した。
「書庫は一人じゃ退屈だろう。ついでに運ぶのを手伝ってくれないか」
「俺たちを荷物持ち扱いか」
愛祈は苦笑しながらも、先に立って扉を開けた。
王宮の書庫は、ひんやりとした空気に満ちていた。背の高い本棚がいくつも並び、古い紙の匂いが静かに漂う。
「礼儀作法の本は……この辺りだね」
敏貴が指先で背表紙をなぞり、一冊を抜き出した。布張りの表紙に、かすれた金文字が残っている。
『婦徳筆記』
「いかにも古そうな名前だな」
愛祈が半分あきれた声を出す。敏貴は本を机に置き、慎重にページをめくっていった。
「『起床の心得』『歩き方』『言葉の選び方』……お、ここだ」
指が止まった先に、小さな見出しがあった。
『八方ブスの戒め』
三人は顔を見合わせる。
「本当に書いてあるとはな」
愛祈が思わず笑い、すぐに真面目な顔に戻る。
「何て書いてある?」
敏貴は声に出して読み上げた。
「『八方ブスとは、己が機嫌の悪さを八方にまき散らし、目に入る人ごとに不快の種を投げることなり』……ふむ」
「……外見の話じゃないんですね」
晴矢がぽつりと言った。
「『顔かたちの美しさを言うにあらず、どの方角から見られても不機嫌なる様を戒むる言葉なり』」
敏貴は続けて読み、ページの端に小さな線が引かれているのに気づいた。
「ここ、最近誰かが読んだんだろう。新しい線だ」
「誰がこの本を? 書庫の出入りは決まっているはずだ」
「書記官と、礼儀作法係の女官、それから――」
敏貴は顎に手を当てた。
「陽苑の中で『古い言葉を調べていた』って話をしていた人は、いなかったかな」
晴矢と愛祈は顔を見合わせる。ふと、みうの姿が頭に浮かんだ。
「……みうが、最近言ってました」
晴矢が口を開いた。
「『昔の言葉には、心をまっすぐにさせる力がある気がします』って。札に書く言葉の幅を増やしたいから、本を探していると」
「みうさんが?」
愛祈は、目を丸くした。
「だが、あいつがこんな乱暴な張り紙を?」
「いや、みうが張り紙をしたとは限らない」
敏貴は首を振った。
「本を読んだ誰かが、面白半分で写しただけかもしれない。文の続きにもこうある」
敏貴は、指で文章を追っていく。
「『互いに顔見合わせて笑ひ合ひ、己を省みるべき戒めとして掲ぐるはよし。ただし、誰か一人を指す文言として用ふるべからず』」
「……なるほど」
愛祈の口元に、皮肉ではない笑みが浮かんだ。
「この本を書いた人が、今の騒ぎを見たら頭を抱えそうだな」
「本来は、『自分たちで気をつけようね』って笑い合うための言葉、ってことですか」
晴矢が、本の活字を見つめる。
「それを、誰か一人を指す悪口みたいに掲示板に貼ったから、こんなことになっている」
「つまり、張り紙をした本人も、意味をちゃんと知らなかった可能性が高い」
敏貴は本を閉じた。
「まずは、掲示板から紙を外そう。その上で、『この言葉は本来こういう意味です』ってきちんと伝えるのがいいと思う」
「誰にだ?」
「掲示板をいつも見ているみんなに、だよ」
その夕方、休憩室の前の廊下に、人だかりができた。
掲示板の前には、八方ブスの張り紙をはがした跡と、その隣に新しく貼られた紙が一枚。
『本日の読み合わせ
「八方ブス」は、顔立ちのことではなく、
どの方角にも不機嫌を向けてしまう人のこと。
一人を指して使ってはいけません――婦徳筆記より』
その下に、小さくこう書き添えられていた。
『誰もどこから見ても不機嫌な人にはなりたくないね。
だから、疲れたら休憩室で一息ついてください。 陽苑 事務』
「……敏貴さん、やるわね」
紙を見上げながら、奈津海がぽつりとつぶやいた。昼前に見た張り紙が頭をよぎり、胸の奥がまだ少しざわつく。
(自分のことだって、決めつけてたのは私のほうか)
そこへ、隣から遠慮がちな声がした。
「奈津海さん」
みうだった。昼の配膳のときから、なんとなく互いに視線を外してきた相手。今日に限って、言葉を交わすタイミングを逃していた。
「その……さっきは、休憩室に顔を出さなくてごめんなさい」
「こっちこそ。洗濯場にお茶を持っていこうと思ったけど、行きづらくて」
二人は顔を見合わせ、同時に苦笑した。
「みう、もしかして、自分のことだと思ってた?」
「……はい。奈津海さんは?」
「……まあ、少し」
言葉を重ねるうちに、肩の力が抜けていく。掲示板の新しい紙が、さっきより少し優しく見えた。
「本当の意味がわかって、よかったですね」
「うん。でも」
奈津海は、掲示板から目を離さないまま言った。
「本来の意味も、ちょっと耳が痛いわ」
「八方に不機嫌をまき散らす、でしたっけ」
「そこそこ心当たりがあるから、余計に」
二人は同時に笑った。
「じゃあ、わたしたち、八方ブスにならない練習をしましょうか」
「どうやって?」
「まず、疲れたらちゃんと休憩室に来ること」
みうは、掲示板の紙の一文を指さした。
「『疲れたら休憩室で一息ついてください』って。これ、わたしたちへの宿題みたいなものですよね」
「勝手に宿題にしないで」
そう言いながらも、奈津海の声は柔らかかった。
少し離れたところで、その様子を愛祈と晴矢が眺めていた。
「やれやれ。紙一枚でこれだけ揺れるとはな」
「でも、本来の意味を知ったうえで笑い合えるなら、まだいいほうですよね」
「そうだな」
愛祈は、掲示板の新しい紙を見上げる。
「誰もどこから見ても不機嫌な人にはなりたくない。警備としても、気をつけておくか」
「愛祈さん、十分笑ってますよ」
「それは仕事中に緩みすぎって意味か?」
二人の軽口に、晴矢の口元にも笑みが浮かんだ。
その夜、事務室の机の上には、はがした張り紙と礼儀作法の本が並んでいた。
「面白半分で写しただけ、かもしれないけど」
敏貴は、本の背表紙を指で撫でた。
「言葉は、誰かの胸に刺さることもある。だからこそ、どう貼るか、どう伝えるかも一緒に考えたいね」
「次からは、『八方ブス』じゃなくて」
みうが、札用の小さな紙を手の中でくるりと回した。
「『八方、おだやかでありたい』とかなら、どうでしょう」
「それもまた、ずいぶん難しい宿題だね」
敏貴はくすりと笑い、それでもその言葉をどこか気に入ったようにうなずいた。
「十年計画の余白に、こっそり書いておこうかな」
陽苑の掲示板から、乱暴な言葉は消えた。その代わりに、「本日の読み合わせ」と題した紙が、ときどき貼られるようになる。
そこに書かれるのは、古い本から拾ったひと言や、菜園の札に書ききれなかった小さな願い。通りかかるたびに、誰かがふっと笑ったり、ほんの少しだけ背筋を伸ばしたりする。
誰もどこから見ても不機嫌な人にはなりたくない——そんなささやかな共通認識が、陽苑の空気を、少しずつ柔らかくしていった。
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華やかな王宮の大聖堂で交わされたのは、愛の誓いではなく、冷たい拒絶の言葉だった。
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そんな折、隣国の公爵アレクサンダーが彼女の前に現れる。「君の目はまだ死んでいないな」――その言葉に、彼女の中で何かが目覚める。彼はレイチェルに自由と新たな未来を提示し、密かに王宮からの脱出を計画する。
レイチェルが去ったことで、王宮は急速に崩壊していく。聖女ミレイユの策略が暴かれ、アルフォンスは自らの過ちに気づくも、時すでに遅し。彼が頼るべき王妃は、もはや遠く、隣国で新たな人生を歩んでいた。
「お願いだ……戻ってきてくれ……」
王国を失い、誇りを失い、全てを失った王子の懇願に、レイチェルはただ冷たく微笑む。
「もう遅いわ」
愛のない結婚を捨て、誇り高き未来へと進む王妃のざまぁ劇。
裏切りと策略が渦巻く宮廷で、彼女は己の運命を切り開く。
これは、偽りの婚姻から真の誓いへと至る、誇り高き王妃の物語。
昼休みは紙月堂で――元会社員と元同僚がつくる、ひと息つける文具店
乾為天女
キャラ文芸
星見商店街のいちばん端にある古びた文具店「紙月堂」。祖父の店を継いだ元会社員・奏斗は、静かな店内で帳簿と在庫を整えながら、「本当にやっていけるのか」という不安を誰にも言えずにいる。
そんな奏斗の前に、元同僚の璃音が昼休みの紙コップコーヒーをぶら下げて現れる。彼女の「ここ、仕事に疲れた人がひと息つける場所にしようよ」という思いつきから、紙月堂には、ノートに悩みや今日の「ここまで」を書き残していく常連たちが少しずつ集まり始める。
商店街の若手連絡係を名乗る青年、早朝から和菓子を仕込み続ける職人、仕事を辞めたいと言いながらも踏み出せない会社員、数字に追われる店主たち。奏斗は帳簿をつける手を止め、彼らの言葉をノートに記し、連絡のためのファイルを整え、「話を並べておく人」としての役割を引き受けていく。
やがて商店街全体を揺らす大きな方針変更が持ち上がり、紙月堂は、働き方に悩む人と店を守りたい人たちの小さな会議室になる。一杯のコーヒーと一枚のメモから始まった場所は、「もう少し続けてみよう」と思える明かりを、それぞれの帰り道に灯せるのか――。
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