後宮日和は、旬の野菜と木漏れ日の彼

乾為天女

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第34話 小さな嘘と小さな傷

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 朝一番の厨房は、いつも以上に慌ただしかった。

 雪の日が続いたせいで、外からの荷車が何日か遅れていた。その遅れを取り戻すように、今日一日で仕込みも配膳も詰め込まれている。帳面の端には「根菜多め」「乾物活用」と景衣の小さな文字。倉から運ばれてきた大きな籠の中には、ごろりと太った大根や芋が詰まっていた。

 「根菜は火の通りに時間がかかるから、いつもより早めに刻んで鍋に入れておきたいですね」

 みうが布巾で手を拭きながら言うと、晴矢は「任せろ」と笑って包丁を握り直した。

 「菜園の土を思い出しながら刻めば、手が勝手に動く」

 「勝手に動きすぎて指まで刻まないでくださいよ」

 「そんなへまは――」

 そこで一度、言葉を飲み込む。以前、忙しさに飲まれて包丁の刃を指先に当てたときの、あのひやりとした痛みが一瞬よぎったからだ。

 (今日は、大丈夫だ)

 そう自分に言い聞かせ、晴矢はまな板の上に並んだ大根を次々と輪切りにしていく。包丁の刃がまな板に当たる乾いた音が、忙しない厨房の中に一定のリズムを刻んだ。

     ◇

 「大鍋、もう一つ火に掛ける?」

 お咲が、かまどの前から声をかけてくる。

 「お願いします。根菜の煮込みを二つの鍋で回したいです」

 「了解。こっちはこっちで、湯気を増やしておくよ」

 お咲が火かき棒で薪を動かすと、ぱちん、と火の粉がはじける。湯気が立ちのぼり、厨房の空気はさらに熱を帯びていく。

 晴矢は、その熱気の中で刻む速度を自然と上げていった。

 「晴矢さん、そんなに急がなくても――」

 「陽だまりの角で温まってから持ち場に戻る人たちに、できるだけ早く温かい汁を出してやりたいんだ」

 言いながら、手は止まらない。輪切りにした大根を重ね、細かくさいの目にしていく。包丁の刃はまな板ぎりぎりを滑り、指先はそのすぐそばを押さえている。

 そのときだった。

 刃の先が、わずかに大根からそれた。

 「……っ」

 眉の端で、小さな痛みが跳ねた。

 親指の腹に、細い赤い線が浮かぶ。すぐさま血がにじみ、刃の先に一滴落ちそうになる。

 (まずい)

 晴矢は、反射的に手を引いた。包丁をまな板に置き、親指をぎゅっと握り込む。

 「どうしました?」

 すぐそばで野菜を洗っていたみうが顔を上げる。

 「いや、ちょっと包丁を落としそうになっただけだ。大根、少し飛んだかもしれない」

 自分でも驚くほど、声は平らだった。親指を反対の手で握り込んだまま、背中をみうのほうに向ける。

 「落としそうになったなら、少し休んでくださいよ」

 「大丈夫だ。指は無事だしな」

 嘘を混ぜた言葉が、平然と口から出てくる。

 (血が止まるまでの間くらい、黙っていれば隠し通せる)

 そう思いながら、晴矢はさっと布巾を掴んで指先を包み、その上から濡れていない布で覆った。

 みうは、納得しきれない顔をしながらも、洗い場へ戻っていく。

 「本当に危ないと思ったら、すぐ呼んでくださいね」

 「わかってる」

 返事だけは素直にしながら、晴矢は心の中で別の言葉をつぶやいた。

 (呼ぶほどのことじゃない)

     ◇

 血は、思ったよりもしぶとく止まらなかった。

 布巾を替えるたび、薄い赤がにじむ。切り口は深くはないが、指の腹の柔らかい部分は何度も鍋や器に触れる場所だ。このままでは仕事に支障が出る。

 「晴矢。さっきから布巾ばかり換えてないかい」

 お咲の目はごまかせなかった。

 「手を貸してごらん」

 「いや、大したことは――」

 「大したことがないなら、さっさと見せな」

 ぴしゃり、とした言葉に、晴矢は観念して布巾を外した。親指の腹に走る赤い線を見たお咲は、ふう、と短く息をつく。

 「これを『大したことない』なんて言葉で片付けたら、包丁に失礼だよ」

 「包丁に、ですか」

 「そうさ。刃物はね、きちんと向き合ってる相手には、そう簡単に噛みついたりしないのさ。急いでるときほど、『今切ってるのは何か』を意識しなきゃ」

 お咲は、手早く薬草の入った小さな壺を持ってきた。傷口を洗い、薬を塗り、布でしっかりと巻く。

 「今日は、重いものを持つ手は交代しな。刻むのも、あまり無理はさせないよ」

 「でも、今日の仕込みは――」

 「『大したことない』の繰り返しで、いつか本当に動けなくなったら、そのとき誰が困ると思う?」

 問われて、晴矢は言葉を失った。

 自分の体だけではない。鍋を待つ人たち。栄養の具合を気にして献立を組み立てるみう。菜園の畝の様子を見ながら、根菜の使い道を考えてくれる仲間たち。

 誰の名前を思い浮かべても、「大したことない」という言葉が喉につかえた。

 「……わかりました」

 ようやくそれだけ答えると、お咲は「よろしい」と頷いた。

 「そういう顔したときはね、誰かに『ちょっと手を貸してくれ』って言うんだよ。みうでも、愛祈でも、奈津海でも」

 「みうには、余計な心配をかけたくなくて」

 「心配をかけたくないなら、隠し事より先に『頼みごと』を覚えな」

 言い方は厳しいが、その声は不思議と刺さらない。薪の火と同じで、じんと内側に熱を残していく。

     ◇

 昼の配膳が一段落した頃、みうは洗い場の桶を片付けながら、ふと晴矢の手元に目をやった。

 指に巻かれた布は、先ほどよりも厚くなっている。動かすたびに、その布が少しだけ重そうに揺れる。

 「……やっぱり怪我してたんですね」

 言葉は、思った以上に冷静に出た。

 「お咲さんが処置してくれた。もう大丈夫だ」

 「『もう大丈夫』って言う前に、『切ってしまった』って教えてほしかったです」

 晴矢は、そこではじめてみうの顔を真っ直ぐ見た。

 みうの目の端には、うっすらと涙の跡があった。泣いていると気づくまでに、少し時間がかかったほど、表情はいつもと変わらない。

 「そんな顔をするほどの傷じゃない」

 「そうやって、すぐに軽く言うからです」

 みうは、布巾を強く握りしめた。濡れた布から、水滴がぽたりと落ちる。

 「前にも、陽苑に来たばかりのころ、大きな鍋をひとりで持ち上げて腰を痛めたことがありましたよね。あのときも、『一晩寝れば治る』って言って誰にも言わなかった」

 記憶の中の光景がよみがえる。

 夜中、ひとりで腰を押さえながら菜園の端に座っていたときの、土の冷たさ。そこへ、ふらりと通りがかったみうが、何も言わずに湯たんぽを置いていったこと。

 「あのときだって、本当は痛かったんですよね」

 「……まあ、痛くはあった」

 「今日も、本当は痛いんですよね」

 みうの声は、決して責めてはいない。ただ、指先の震えを隠そうともしない。

 「痛いなら、『痛い』って言ってください。怖いなら、『怖かった』って言ってください。そうじゃないと、私たちはどこまで手を伸ばせばいいか、わからないです」

 その言葉に、晴矢は胸の奥を掴まれたような感覚を覚えた。

 「……心配させたくなかったんだ」

 「心配しています」

 みうは、きっぱりと言った。

 「晴矢さんが『大したことない』って言うたびに、『本当はどれくらい痛いのかな』って考えるから、そのぶん余計に心配になります」

 視界の端が、少し滲む。

 自分の「大丈夫」が、相手の「不安」を増やしていたことに、今さら気づかされた。

 「……ごめん」

 ようやく、そう口にすると、みうは首を横に振った。

 「謝ってほしいわけじゃないんです」

 「じゃあ、どうすればいい」

 「次からは、最初に『切っちゃった』って言ってください」

 みうは、静かに言った。

 「『大したことない』って言葉を頭から外して、そのかわりに『手を貸して』って言葉を入れてください」

 その言い方があまりにも具体的で、晴矢は思わず笑いそうになった。

 「言葉を入れ替えるだけで、そんなに違うか」

 「はい。違います」

 みうは、まっすぐ頷く。

 「だって、『大したことない』って言われたら、私たちはそこで止まるしかないですけど、『手を貸して』って言われたら、そこから動けますから」

 言葉の重さが、すとんと胸に落ちた。

     ◇

 「……じゃあ、試しに今、言ってみるか」

 沈黙のあと、晴矢は小さく息を吐いた。

 「みう。手を貸してくれ」

 みうは、少しだけ目を瞬かせた。

 「何をすればいいですか」

 「包丁を握る役を、しばらく代わってくれないか。そのかわり、火加減と味見は引き受ける」

 「それなら、喜んで」

 顔に、ようやく柔らかな笑みが戻る。

 「それから……」

 晴矢は、言葉を探しながら続けた。

 「指がずきずきしてきたら、『痛い』って言う。怖くなったら、『怖い』って言う。そうしたら、笑ってくれ」

 「笑うんですか?」

 「俺が『大したことない』ってごまかしそうになったときに、ちゃんと気づけるように」

 みうは、少しのあいだ考え込み、それからこくりと頷いた。

 「わかりました。約束です」

 そう言って、みうはまな板の前に立つ。包丁を握る手は、決して力任せではない。ひとつひとつの大根を見て、その固さを確かめながら刃を進めていく。

 晴矢は、その横で鍋の火を見ながら、巻かれた指にじんわりとした痛みを感じていた。

 (痛い)

 心の中で、はっきりそう認める。

 (でも、その痛みを誰かと分け合えるなら、きっと前よりずっと楽だ)

 鍋から立ちのぼる湯気の向こうで、みうの横顔が揺れる。

 小さな嘘が残した小さな傷は、ここから少しずつ癒えていくのだろう。
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