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第38話 それぞれの未来地図
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陽苑食堂が始まってから、三度目の開店日だった。
朝の空気には、もう「初日」のぎこちなさはない。かまどの火は決まった順番で灯り、菜園から運ばれてくる籠も、誰がどこへ何を運ぶか、自然と手が伸びるようになっていた。
「根菜の鍋、今日は少し多めに仕込んでおくか」
晴矢が、まな板の上の大根を見下ろしながら言う。
「この前、『もう一杯食べたいけど列が長いから我慢する』って顔をして帰っていった人がいたからな」
「顔を覚えてるんですね」
みうは、桶から葱を取り出しながら微笑んだ。
「覚えてる、つもりだ」
晴矢は、輪切りにした大根を重ねていく。包丁の音には、初日の張りつめた硬さはなく、代わりに一定の落ち着いたリズムがあった。
「今日も、あの人みたいに『もう一杯』って顔をする人がいたら、その分の鍋も残しておきたい」
「じゃあ、私も茶葉を少し多めに用意しておきます。緊張して喉が渇く人もいますから」
「緊張してるのは、こっちかもしれんがな」
そう言いながらも、晴矢の手の動きは迷いがない。鍋の順番、火の強さ、湯気の上がる高さ。体が覚え始めた仕事に、心だけが少し先を見ようとしている。
◇
昼の慌ただしさを越え、陽苑食堂の一日は、穏やかな茶の香りを残しながら終わりに近づいていた。
最後の客を見送ったあと、みうは入口の札を裏返す。
『本日の陽苑食堂は、これにて閉じます』
札を掛け直した途端、背後から「ふう」と長い息が聞こえた。振り向くと、柱にもたれかかった愛祈が、頭の後ろで手を組んでいる。
「門の前にいたときより、足が疲れるとは思わなかったな」
「列の番、お疲れさまです」
みうが笑うと、愛祈も口元だけで笑い返した。
「でもまあ、悪くない疲れだ。今日、一番後ろでそわそわしてた少年、見たか」
「少し大きめの上着を着ていた子ですか? お父さんと一緒に来ていた」
「ああ。鍋を受け取るとき、手が震えてた。こぼさないかひやひやしたが、最後はきちんと飲み干してたな」
愛祈は、遠くを見るような目つきになった。
「次に来たときは、列の真ん中くらいで落ち着いて並べるかもしれん」
「そのときも、愛祈さんが列を見ているんですね」
「……さあな」
言葉とは裏腹に、愛祈の視線は陽苑の奥へと向いていた。鍋のある場所、洗濯場のある場所、陽だまりの角。自分が守るべきものが、以前よりも増えたことを、その目は知っている。
◇
夕方。
厨房の熱が少し落ち着いたころ、敏貴は帳面の山を抱えて陽苑に現れた。
「おい、晴矢。少し時間をくれないか」
「今なら鍋も空だし構わないが……その山は何だ」
晴矢が眉を上げると、敏貴は腕に抱えた帳面を、どさりと卓の上に置いた。
「陽苑食堂に関わる出入りの帳簿だ。食材の量、客の人数、使った薪の数。今日までの分を一度整理しておきたい」
「もう、そんなに溜まったのか」
「溜まるとも。数字は溜まるのが仕事だ」
敏貴は、紙の束を一冊開き、素早く目を走らせた。
「陽苑の負担になりすぎていないか、他の部署に無理をさせていないか、見ておきたい。今はうまく回っていても、見えないところで綻びが出ているかもしれんからな」
「そこまで考えているのか」
「ここを『見世物』で終わらせる気はない」
敏貴の声には、少しだけ熱が宿っていた。
「後宮だけが賑やかになっても意味がない。王宮の倉、町の市場、農地の収穫。その流れの中に、陽苑食堂をきちんと組み込まないと……いずれ誰かが無理をすることになる」
晴矢は、卓の端に腰を下ろした。
「お前は、どこまで見ている」
「どこまで、というと」
「陽苑の鍋の数か。後宮全体の薪の数か。それとも、その先か」
敏貴は、少しだけ視線を宙に浮かせた。
「……本当は、王宮全体の金の流れを整えたい」
吐き出された言葉は、思った以上に静かだった。
「誰がどこでどれだけ働いて、どれだけの支度が必要で、どれだけの礼が支払われているのか。全部を一枚の紙に書き出して、偏りを少しずつならしていきたい」
「ずいぶん大きな紙が必要だな」
「紙を増やせばいい」
敏貴は、ためらいなく言った。
「一枚で足りないなら、十枚。十枚で足りないなら、百枚。数字を並べていけば、きっと見えてくるものがある」
晴矢は、その横顔を見つめた。
目の下には薄い隈がある。帳面を追い続けた者の目だ。それでも瞳の奥は濁っていない。遠くを見据えた光が、しっかりと宿っている。
「……それが、お前の未来地図か」
「未来地図?」
「みうが言っていた。『陽苑料理帳みたいに、この先のことも紙に書いてみたい』って」
敏貴は、少しだけ口元をゆるめた。
「そうか。なら、そうかもしれん」
彼は、目の前の帳面を一冊、晴矢のほうへ押し出した。
「お前の鍋も、この地図の一部だ。自覚しておけ」
「急に重くするな」
そう言いながらも、晴矢は帳面に視線を落とした。そこには、陽苑の名と共に、何本もの細い線が引かれている。倉へ、菜園へ、洗濯場へ、門へ。陽苑から伸びる線は、思ったよりも多かった。
◇
一方そのころ、洗濯場では、奈津海が夕焼け色の空を背に、濡れた布をたたんでいた。
若い侍女が二人、桶を抱えて彼女のそばに駆け寄る。
「奈津海さーん。今日の客席の布、全部戻しました」
「ご苦労さま。ほつれはなかった?」
「端っこが少しほぐれてるのが三枚だけでした」
「三枚なら上等ね。明日、縫い直しておくわ」
奈津海は、布を指先で撫でながら言った。布の手触りで、その日の陽苑食堂の様子が少しだけ分かる。よく使われた椅子の布は、温かい人の気配を宿している。
「奈津海さんって、すごいですよね」
若い侍女のひとりが、ぽつりと言った。
「人がたくさん出入りしても、足を滑らせる人も、布につまずく人もほとんどいなくて」
「それは、みんなが気をつけて歩いてくれてるからよ」
「でも、奈津海さんが『ここは危ない』ってまず印をつけてくれてるから、安心して歩けるんだと思います」
言われて、奈津海は少しだけ黙り込んだ。
「……もしも」
「え?」
「もしも、ここじゃないどこかに住むことになったら、って考えることがあるのよ」
若い侍女たちは顔を見合わせた。
「ここじゃないどこか、ですか」
「そう。川沿いの町でも、城下のはずれでもいい。旅の人や、一人で来た人が、ひと晩だけ腰を下ろせる小さな宿」
奈津海は、干し場の向こうに広がる空を見上げた。
「洗濯場みたいに、濡れたものを乾かして、冷えた人を温めて。『ここを立つときは、少し身軽になっていきなさい』って送り出せる場所」
「……素敵です」
侍女のひとりが、目を輝かせた。
「その宿、お手伝いしてみたいです」
「まだ、『もしもの話』よ」
奈津海は、苦笑しながら首を振る。
「今はここで、足を滑らせる人を出さないのが先。陽苑食堂だって、始まったばかりなんだから」
そう言いながらも、その声にはほんの少しだけ、遠い場所への憧れが混じっていた。
◇
記録室では、景衣が灯りに照らされた机の上で筆を滑らせていた。
「陽苑食堂 第三開店日 記録」
静かな部屋に、紙の擦れる音だけが響く。
「客数、二十三名。うち、王宮関係者五名。王都の町からの者十八名」
淡々と数字を記しながら、その端に小さな文字で一行を書き添える。
『昼下がり、窓際の席で、父と娘が同じ鍋からよそわれた汁を分け合っていた』
その光景を思い出すと、胸の奥が少し温かくなる。
扉の外から、控えめなノックの音がした。
「景衣さん、起きてますか」
みうの声だ。
「起きています。どうぞ」
扉が少しだけ開き、みうの顔がのぞく。手には、湯気の立つ茶碗が一つ。
「差し入れです。今日の甘い茶、最後の一杯」
「ありがとうございます」
景衣は筆を置き、茶碗を受け取った。湯気から立ちのぼる香りは、陽苑の厨房と同じだ。
「……景衣さんにも、未来地図ってありますか」
みうの問いに、景衣は一瞬だけ瞬きをした。
「未来地図?」
「はい。敏貴さんや奈津海さんと話していたら、みんな少しずつ『この先の自分』のことを考えているみたいで」
みうは、言いながら自分の手元を見つめた。
「私には、まだはっきりした地図がなくて。でも、なくてもいいのか、作ったほうがいいのか、よくわからなくて」
景衣は、茶碗を両手で包み込んだ。表面に揺れる湯気を、しばらくじっと見つめる。
「……私は、しばらく『答えを出さない』ことにしています」
「答えを、出さない?」
「はい」
景衣は、小さく笑った。
「今、この場所で記録を取り続けることが、嫌いではありませんから」
彼は、机の上に置かれた陽苑料理帳を指先でなぞった。
「陽苑の鍋の匂い、洗濯場の布の手触り、門前の足音。そういったものを紙に写していく仕事は、思っていたよりずっと、自分に合っている気がするのです」
「じゃあ、ここに残るってことですか」
「『今は』、そうですね」
景衣は、はっきりとした言葉でそう言った。
「未来のある日に『別の場所へ行きたい』と思ったなら、そのときはそのときで新しい地図を描けばいい。紙はいくらでも用意できますから」
みうは、その言葉を静かに飲み込んだ。
「……紙がいくらでもあるなら、地図を間違えても描き直せますね」
「ええ。間違えた線の上から、新しい線を引けばいい」
景衣は、茶碗を机の端に置き、筆を持ち直した。
「みうさんの地図も、きっとまだ途中です。途中の地図は、見慣れてくると面白いですよ」
「途中の地図、ですか」
「道がどこで途切れるか、どこで急な坂があるか。全部わからないからこそ、陽苑の鍋みたいに、その日その日を確かめながら進める」
みうの胸の中に、ふわりと灯りがともったような感覚が広がった。
「……私、もう少し『今』のページを埋めてから、地図のことを考えてみます」
「それが良いと思います」
◇
夜。
陽苑料理帳の前に、みうはひとりで座っていた。
今日の料理は、すでに書き込んである。「根菜と豆の汁」「青菜のおひたし」「芋饅頭」「陽だまりの甘い茶」。食べた人のひと言も、いくつか。
『列の並び方まで、ここは優しい』
『鍋の湯気を見ていたら、長く眠っていた夢を少し思い出した』
ページの下のほうには、まだ余白が残っている。
「……未来のことまで書くには、ちょっと狭いかな」
みうは、筆の先を見つめながら呟いた。
それでも、何か一言だけでも残したくなって、こっそり欄に小さく文字を走らせる。
『きょう、陽苑のみんなの未来地図の話を聞いた。答えがはっきりしている人もいれば、「今はまだ」と笑う人もいる。どの地図も、陽苑から線が伸びていた』
書き終えてから、みうは少し迷い、行を変えた。
『自分の地図には、まだはっきりした線がない。でも、陽苑の鍋の前に立つと、「ここから描いてもいいのかもしれない」と思える』
筆を置くと、胸の奥に柔らかな重みが残った。
陽苑の屋根の上には、静かな星空が広がっている。
それぞれが胸に抱いた未来地図は、まだ完成にはほど遠い。けれど、そのどの地図にも、小さく「陽苑」の文字が記されている。そんな確信だけは、不思議とはっきりしていた。
朝の空気には、もう「初日」のぎこちなさはない。かまどの火は決まった順番で灯り、菜園から運ばれてくる籠も、誰がどこへ何を運ぶか、自然と手が伸びるようになっていた。
「根菜の鍋、今日は少し多めに仕込んでおくか」
晴矢が、まな板の上の大根を見下ろしながら言う。
「この前、『もう一杯食べたいけど列が長いから我慢する』って顔をして帰っていった人がいたからな」
「顔を覚えてるんですね」
みうは、桶から葱を取り出しながら微笑んだ。
「覚えてる、つもりだ」
晴矢は、輪切りにした大根を重ねていく。包丁の音には、初日の張りつめた硬さはなく、代わりに一定の落ち着いたリズムがあった。
「今日も、あの人みたいに『もう一杯』って顔をする人がいたら、その分の鍋も残しておきたい」
「じゃあ、私も茶葉を少し多めに用意しておきます。緊張して喉が渇く人もいますから」
「緊張してるのは、こっちかもしれんがな」
そう言いながらも、晴矢の手の動きは迷いがない。鍋の順番、火の強さ、湯気の上がる高さ。体が覚え始めた仕事に、心だけが少し先を見ようとしている。
◇
昼の慌ただしさを越え、陽苑食堂の一日は、穏やかな茶の香りを残しながら終わりに近づいていた。
最後の客を見送ったあと、みうは入口の札を裏返す。
『本日の陽苑食堂は、これにて閉じます』
札を掛け直した途端、背後から「ふう」と長い息が聞こえた。振り向くと、柱にもたれかかった愛祈が、頭の後ろで手を組んでいる。
「門の前にいたときより、足が疲れるとは思わなかったな」
「列の番、お疲れさまです」
みうが笑うと、愛祈も口元だけで笑い返した。
「でもまあ、悪くない疲れだ。今日、一番後ろでそわそわしてた少年、見たか」
「少し大きめの上着を着ていた子ですか? お父さんと一緒に来ていた」
「ああ。鍋を受け取るとき、手が震えてた。こぼさないかひやひやしたが、最後はきちんと飲み干してたな」
愛祈は、遠くを見るような目つきになった。
「次に来たときは、列の真ん中くらいで落ち着いて並べるかもしれん」
「そのときも、愛祈さんが列を見ているんですね」
「……さあな」
言葉とは裏腹に、愛祈の視線は陽苑の奥へと向いていた。鍋のある場所、洗濯場のある場所、陽だまりの角。自分が守るべきものが、以前よりも増えたことを、その目は知っている。
◇
夕方。
厨房の熱が少し落ち着いたころ、敏貴は帳面の山を抱えて陽苑に現れた。
「おい、晴矢。少し時間をくれないか」
「今なら鍋も空だし構わないが……その山は何だ」
晴矢が眉を上げると、敏貴は腕に抱えた帳面を、どさりと卓の上に置いた。
「陽苑食堂に関わる出入りの帳簿だ。食材の量、客の人数、使った薪の数。今日までの分を一度整理しておきたい」
「もう、そんなに溜まったのか」
「溜まるとも。数字は溜まるのが仕事だ」
敏貴は、紙の束を一冊開き、素早く目を走らせた。
「陽苑の負担になりすぎていないか、他の部署に無理をさせていないか、見ておきたい。今はうまく回っていても、見えないところで綻びが出ているかもしれんからな」
「そこまで考えているのか」
「ここを『見世物』で終わらせる気はない」
敏貴の声には、少しだけ熱が宿っていた。
「後宮だけが賑やかになっても意味がない。王宮の倉、町の市場、農地の収穫。その流れの中に、陽苑食堂をきちんと組み込まないと……いずれ誰かが無理をすることになる」
晴矢は、卓の端に腰を下ろした。
「お前は、どこまで見ている」
「どこまで、というと」
「陽苑の鍋の数か。後宮全体の薪の数か。それとも、その先か」
敏貴は、少しだけ視線を宙に浮かせた。
「……本当は、王宮全体の金の流れを整えたい」
吐き出された言葉は、思った以上に静かだった。
「誰がどこでどれだけ働いて、どれだけの支度が必要で、どれだけの礼が支払われているのか。全部を一枚の紙に書き出して、偏りを少しずつならしていきたい」
「ずいぶん大きな紙が必要だな」
「紙を増やせばいい」
敏貴は、ためらいなく言った。
「一枚で足りないなら、十枚。十枚で足りないなら、百枚。数字を並べていけば、きっと見えてくるものがある」
晴矢は、その横顔を見つめた。
目の下には薄い隈がある。帳面を追い続けた者の目だ。それでも瞳の奥は濁っていない。遠くを見据えた光が、しっかりと宿っている。
「……それが、お前の未来地図か」
「未来地図?」
「みうが言っていた。『陽苑料理帳みたいに、この先のことも紙に書いてみたい』って」
敏貴は、少しだけ口元をゆるめた。
「そうか。なら、そうかもしれん」
彼は、目の前の帳面を一冊、晴矢のほうへ押し出した。
「お前の鍋も、この地図の一部だ。自覚しておけ」
「急に重くするな」
そう言いながらも、晴矢は帳面に視線を落とした。そこには、陽苑の名と共に、何本もの細い線が引かれている。倉へ、菜園へ、洗濯場へ、門へ。陽苑から伸びる線は、思ったよりも多かった。
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一方そのころ、洗濯場では、奈津海が夕焼け色の空を背に、濡れた布をたたんでいた。
若い侍女が二人、桶を抱えて彼女のそばに駆け寄る。
「奈津海さーん。今日の客席の布、全部戻しました」
「ご苦労さま。ほつれはなかった?」
「端っこが少しほぐれてるのが三枚だけでした」
「三枚なら上等ね。明日、縫い直しておくわ」
奈津海は、布を指先で撫でながら言った。布の手触りで、その日の陽苑食堂の様子が少しだけ分かる。よく使われた椅子の布は、温かい人の気配を宿している。
「奈津海さんって、すごいですよね」
若い侍女のひとりが、ぽつりと言った。
「人がたくさん出入りしても、足を滑らせる人も、布につまずく人もほとんどいなくて」
「それは、みんなが気をつけて歩いてくれてるからよ」
「でも、奈津海さんが『ここは危ない』ってまず印をつけてくれてるから、安心して歩けるんだと思います」
言われて、奈津海は少しだけ黙り込んだ。
「……もしも」
「え?」
「もしも、ここじゃないどこかに住むことになったら、って考えることがあるのよ」
若い侍女たちは顔を見合わせた。
「ここじゃないどこか、ですか」
「そう。川沿いの町でも、城下のはずれでもいい。旅の人や、一人で来た人が、ひと晩だけ腰を下ろせる小さな宿」
奈津海は、干し場の向こうに広がる空を見上げた。
「洗濯場みたいに、濡れたものを乾かして、冷えた人を温めて。『ここを立つときは、少し身軽になっていきなさい』って送り出せる場所」
「……素敵です」
侍女のひとりが、目を輝かせた。
「その宿、お手伝いしてみたいです」
「まだ、『もしもの話』よ」
奈津海は、苦笑しながら首を振る。
「今はここで、足を滑らせる人を出さないのが先。陽苑食堂だって、始まったばかりなんだから」
そう言いながらも、その声にはほんの少しだけ、遠い場所への憧れが混じっていた。
◇
記録室では、景衣が灯りに照らされた机の上で筆を滑らせていた。
「陽苑食堂 第三開店日 記録」
静かな部屋に、紙の擦れる音だけが響く。
「客数、二十三名。うち、王宮関係者五名。王都の町からの者十八名」
淡々と数字を記しながら、その端に小さな文字で一行を書き添える。
『昼下がり、窓際の席で、父と娘が同じ鍋からよそわれた汁を分け合っていた』
その光景を思い出すと、胸の奥が少し温かくなる。
扉の外から、控えめなノックの音がした。
「景衣さん、起きてますか」
みうの声だ。
「起きています。どうぞ」
扉が少しだけ開き、みうの顔がのぞく。手には、湯気の立つ茶碗が一つ。
「差し入れです。今日の甘い茶、最後の一杯」
「ありがとうございます」
景衣は筆を置き、茶碗を受け取った。湯気から立ちのぼる香りは、陽苑の厨房と同じだ。
「……景衣さんにも、未来地図ってありますか」
みうの問いに、景衣は一瞬だけ瞬きをした。
「未来地図?」
「はい。敏貴さんや奈津海さんと話していたら、みんな少しずつ『この先の自分』のことを考えているみたいで」
みうは、言いながら自分の手元を見つめた。
「私には、まだはっきりした地図がなくて。でも、なくてもいいのか、作ったほうがいいのか、よくわからなくて」
景衣は、茶碗を両手で包み込んだ。表面に揺れる湯気を、しばらくじっと見つめる。
「……私は、しばらく『答えを出さない』ことにしています」
「答えを、出さない?」
「はい」
景衣は、小さく笑った。
「今、この場所で記録を取り続けることが、嫌いではありませんから」
彼は、机の上に置かれた陽苑料理帳を指先でなぞった。
「陽苑の鍋の匂い、洗濯場の布の手触り、門前の足音。そういったものを紙に写していく仕事は、思っていたよりずっと、自分に合っている気がするのです」
「じゃあ、ここに残るってことですか」
「『今は』、そうですね」
景衣は、はっきりとした言葉でそう言った。
「未来のある日に『別の場所へ行きたい』と思ったなら、そのときはそのときで新しい地図を描けばいい。紙はいくらでも用意できますから」
みうは、その言葉を静かに飲み込んだ。
「……紙がいくらでもあるなら、地図を間違えても描き直せますね」
「ええ。間違えた線の上から、新しい線を引けばいい」
景衣は、茶碗を机の端に置き、筆を持ち直した。
「みうさんの地図も、きっとまだ途中です。途中の地図は、見慣れてくると面白いですよ」
「途中の地図、ですか」
「道がどこで途切れるか、どこで急な坂があるか。全部わからないからこそ、陽苑の鍋みたいに、その日その日を確かめながら進める」
みうの胸の中に、ふわりと灯りがともったような感覚が広がった。
「……私、もう少し『今』のページを埋めてから、地図のことを考えてみます」
「それが良いと思います」
◇
夜。
陽苑料理帳の前に、みうはひとりで座っていた。
今日の料理は、すでに書き込んである。「根菜と豆の汁」「青菜のおひたし」「芋饅頭」「陽だまりの甘い茶」。食べた人のひと言も、いくつか。
『列の並び方まで、ここは優しい』
『鍋の湯気を見ていたら、長く眠っていた夢を少し思い出した』
ページの下のほうには、まだ余白が残っている。
「……未来のことまで書くには、ちょっと狭いかな」
みうは、筆の先を見つめながら呟いた。
それでも、何か一言だけでも残したくなって、こっそり欄に小さく文字を走らせる。
『きょう、陽苑のみんなの未来地図の話を聞いた。答えがはっきりしている人もいれば、「今はまだ」と笑う人もいる。どの地図も、陽苑から線が伸びていた』
書き終えてから、みうは少し迷い、行を変えた。
『自分の地図には、まだはっきりした線がない。でも、陽苑の鍋の前に立つと、「ここから描いてもいいのかもしれない」と思える』
筆を置くと、胸の奥に柔らかな重みが残った。
陽苑の屋根の上には、静かな星空が広がっている。
それぞれが胸に抱いた未来地図は、まだ完成にはほど遠い。けれど、そのどの地図にも、小さく「陽苑」の文字が記されている。そんな確信だけは、不思議とはっきりしていた。
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