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〔2〕一般に認識され解釈されている世界や歴史は、現に生きている者の経験を拡大・系列化したものである。

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 たとえばもし、『世界』を一般的に考えられているように、「経験的な人間社会の、最大限に拡大された状態に対する認識と解釈する」ならば、あるいはまた、もし「世界史」を、「最大限に拡大された人間社会=世界における経験的な出来事の総体を、系列化=物語化したものとして解釈する」ならば、それが『解釈』である限りは、「それとは別の世界」が、あるいはまた「それとは別の世界史」が、それに対して想定されうることを否定できないだろう。そのような「別の世界」あるいは「別の世界史」は、「その世界」あるいは「その世界史」に対して、「この世界」として、あるいは「この世界の歴史」として、代替可能なものとして存在しうるだろう。それが『解釈』ならば、「そのように見直せばいい」だけのことなのだから。
 しかし、むしろ「経験の拡大=系列化」において成立する「世界」もしくは「世界史」なるものは、そのような「別の世界」あるいは「別の世界史」を対象として、それをも含めたものとして「無際限に拡大=包摂」し、それをも含めたものとして「系列化=物語化」し、その上でそれらを「一般的な世界」または「一般的な世界史」というように「一般化して成立しうるもの」なのだ、とも言える。それが「一般的な意味」での『世界(グローバル=インターナショナル)』であり『歴史(ヒストリー)』として認識されているだろう。
 一方、そのような一般的な意味での『世界』や『歴史』が、経験的なものの拡大=系列化である以上は、「現に生きている人々との共有」を前提にしたものであるというにとどまり、その存続は、「現に生きている人々=私たちの生存の、無際限な延長」に依存せざるをえないものになってしまうとも考えられる。それは、「それに含まれるものの延長」として成り立つものだからであり、その無際限な拡大=系列化においてのみ成立するものなのだから。
 『世界』や『歴史』の一般化は、そのような「経験の延長」においてなされているものだと言える。その『世界』や『歴史』の中に含まれている、私たちの個々の一生もまた、「人々の一般的な生涯」に含まれるものとして「一般化されている」のだ。

 また、「現に生きている人々一般の世界」において、無際限に延長されているところの「私たち人間一般の一生の長さ」は、「その世界の歴史の長さと一致しているもの」として見出される。「世界の滅亡」とは、「私たちの生涯の終わり」と同義なのである。だから「私たち」は、自分の目の黒いうちにはそのようなことが起こらないように、「何とかこの世界を延長しよう」と四苦八苦しているわけだ。このような苦労は、「私たちの経験=出来事の総体として見出されている、この世界あるいはその歴史」が、維持され存続されている限りにおいて報われるものだと、「私たち」には感じられている。「それに含まれるものとしての私たちの一生」が、その中で延長されている限りは、「私たちは、その世界を共有し続けることができる」と考えられている。
 それはそれでたしかに「現に生きている人々」にとっては意味のあることだろう。しかし、そのような『世界』は、あたかも「私たちの誕生によって創造され、私たちの死によって滅亡するもの」であるかのように見なされている。あたかもそこでは「私たち」が、その世界の創造者すなわち『神』にでもなったかのようだ。もちろん「私たち」は、そのような傲慢なことは言わない。そのようなことはそれこそ「神に任せて」しまえばいい。もし仮に「神は死んだ」のだ、としても、その代わりはいくらでもいるのだ。そのような「代替可能な一般性に、世界の超越性を還元させること」によってこそ、「私たちは、私たちの個々の一生を超越して、『人間一般』あるいは『一般的人間』として生き長らえることができる」のだから。
 延長=拡大=系列化に基づく「私たちの世界」は、現に生きている人々である「私たちのためにある世界」である。過去も未来も「現に生きている現在の延長=拡大」である限りにおいて考えられているものである。要するに、「私たちにとって、現に生きていることが全て」なのだ。あるいは、「生きている間が全て」なのである。
 一般的な人々=私たち人間は、「この世界に現に生きている者である限りにおいて、この世界を共有している」と言うことができる。ここには、拡大と言いながら限定があり、包摂と言いながら排除がある。その判断の規準は言うまでもなく「現に生きていること」なのである。

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