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〔30〕許しによる出来事の終わりと、その人自身のはじまり。
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罰や復讐は、その活動によって対象をまた新たに意味づけてしまい、あるいはその対象を延々と追い回して、けっして対象をその活動のきっかけになった出来事から、解放させてくれるようなものとはならない。
では、一方で『許し』というものはなぜ、人を自らの行為=出来事から解放しうるものとなるのか?『許し』とは、一体何を目指しているものなのか?
「…許しというのは、活動から必ず生まれる傷を治すのに必要な救済策である…」(※1)と、アレントはまた新たに『許し』の意味を定義する。
「活動から必ず生まれる傷」とはまさしく『出来事』のことであるとすれば、それが必ずしも人の思い描いた通りの結果として生じないという意味において「傷」なのだ、と言える。そして、人の活動・行為・行動を「対象=他の人」へのはたらきかけとして考えるならば、その対象=他の人は、行為者の行為によって「傷つけられる」ことになり、「傷つけられた」人にとって、その行為者の行為は『罪』であると言える。
出来事は「ある関係の結果」である。しかしそれは必ずしも人の思い描いた通りの結果ではないばかりか、「その関係の本性=自然的実現」とは必ずしも言えないような結果でもある。ゆえにその関係においては、また別の出来事もまた起こりえただろうと考えられる限りで、しかしにもかかわらずそれが、「実際に起こった出来事」であるがゆえに、この出来事=傷は、その関係の本性=自然に対して不十分であり、過ちであり、罪となるのだ、と考えることができる。
そのような意味で、「…罪は日常的な出来事…」(※2)なのだ、と言える。言い換えれば「出来事とは、日常的な罪として生まれる」のだ。しかも人は、それを実際には「罪とは知らずに行なっている」のである。それどころか人はその出来事を、それが「その関係の本質=自然である」と、あるいは「その関係が持っている本質性=自然性が、その出来事として表現されたものである」というようにさえ思っている。その関係の本質性=自然性として見出された出来事は、その出来事が「本質的=自然的」であるがゆえに、その関係において「それ以外の出来事」を考えることができず、ゆえに「その出来事の中に、その出来事に関係する人と人=私とあなたとを閉じ込めてしまう」ことになる。
結果として、その出来事は、もはや新しい関係を生み出すことはない。その出来事を媒介として、人と人=私とあなたとが、その関係に閉じ込められている限り、「その人と人=私とあなたとの間」では、その出来事=傷=罪は、けっして「終わることはない」のである。
もし、新しい関係を絶えず生み出そうとすることが、現に生きている人の活動の本性そのもの、つまり、人が現に生きているということそのものだとすれば、もはや新しい関係を生み出すことができないということは、「もはや生きることができない」ということと同義なのだ、と言える。つまりそれは、「生きながら死んでいるのも同然だ」と言える。だから「罪の中を生きる」ということは、「死の中を生きる」のと同じことになるのである。
この人間の無間地獄を「終わらせる」ために、「…人間事象の領域で許しが果たす役割を発見したのは、ナザレのイエスであった…」(※3)と、アレントは言っている。
『許し』は、「人を出来事=罪から解放する」だけでなく、「出来事=罪を人から解放する」ということでもある。許しが、「…行なわれたところのもの(what)がそれを行なった者(who)のために許される…」(※4)ものとしてあるというのは、一方で、「行なわれたところのもの=出来事のために」ということでもあるのだ。
『出来事』は関係において生まれるものであり、関係する対象の「間」で、相互的に生まれるものである。つまり、出来事とは「関係する者同士の、そのどちらかに一方的に帰属するもの」ではないということを、『許し』は明らかにするのでもある。
この許しにおいて、人は出来事から解放され、かつ「それぞれの人と人」として解放される。そしてそれだけでなく、出来事は「人と人との間においてあるもの」として、その人と人との「間」に帰され、「出来事として解放される」のでもある。
こうして人は、その日常の中で、「…自分の行なう行為から絶えず相互に解放されることによってのみ、自由な行為者に留まることができ…」(※5)るようになるのであり、なおかつそれによって「…常に自ら進んで自分の心を変え、ふたたび出発点に戻ることによってのみ、なにか新しいことを始める大きな力を与えられる…」(※6)ことができるところとなる。
ただし、このような『解放』はもちろん、けっしてその出来事=罪を「なかったことにする」ようなものではない。イエスは、その『許し』に際して、何度もこう言っている。
「あなたの罪はゆるされた。もう二度と、罪を犯さないようにしなさい。」
『罪』は、たしかにあったのである。しかしそれは今、許されたのだ。だからもう、同じこと=罪を繰り返すようなことはするな。イエスの言いたいこととは、端的に言えばそういうことである。これにより『罪』は、そのように「許されること」によって、むしろけっして「忘れえないもの」となる。もし、許されることにおいて、その罪が「なかったことになる」のであれば、人は「その罪を忘れてしまうことになる」だろう。そしてそれを「忘れてしまったがゆえ」に、そこで何をしたのかがもはや思い出せず、結果としてまた「同じこと=罪を繰り返す」ことになるのである。
ところで、許されることによってその罪はもう「繰り返さない」のだとしても、人はまた「別の罪」を犯すことになるのではないだろうか?つまり「罪そのもの」は、その許しによって終わることがないのではないだろうか?
しかしだからこそ『罪』は、人がそれを「忘れないうちに許される必要がある」のだ、と言える。「忘れられた罪」は、人を「その中に閉じ込める」のだ。それこそが「罪そのもの」なのである。「罪の中を生きる」ということが「罪そのもの」なのであり、それはたしかに「許されえないこと」なのだ。その中において人はもはや、「何が罪なのだか、わからないまま生きる」ことになる。イエスはまさしくこのことを「終わらせることにした」のだった。そのことがまさに、彼の『許し』が果たす役割でもあったのである。
◎引用・参照
(※1)~(※6) アレント「人間の条件」第五章33 志水速雄訳
では、一方で『許し』というものはなぜ、人を自らの行為=出来事から解放しうるものとなるのか?『許し』とは、一体何を目指しているものなのか?
「…許しというのは、活動から必ず生まれる傷を治すのに必要な救済策である…」(※1)と、アレントはまた新たに『許し』の意味を定義する。
「活動から必ず生まれる傷」とはまさしく『出来事』のことであるとすれば、それが必ずしも人の思い描いた通りの結果として生じないという意味において「傷」なのだ、と言える。そして、人の活動・行為・行動を「対象=他の人」へのはたらきかけとして考えるならば、その対象=他の人は、行為者の行為によって「傷つけられる」ことになり、「傷つけられた」人にとって、その行為者の行為は『罪』であると言える。
出来事は「ある関係の結果」である。しかしそれは必ずしも人の思い描いた通りの結果ではないばかりか、「その関係の本性=自然的実現」とは必ずしも言えないような結果でもある。ゆえにその関係においては、また別の出来事もまた起こりえただろうと考えられる限りで、しかしにもかかわらずそれが、「実際に起こった出来事」であるがゆえに、この出来事=傷は、その関係の本性=自然に対して不十分であり、過ちであり、罪となるのだ、と考えることができる。
そのような意味で、「…罪は日常的な出来事…」(※2)なのだ、と言える。言い換えれば「出来事とは、日常的な罪として生まれる」のだ。しかも人は、それを実際には「罪とは知らずに行なっている」のである。それどころか人はその出来事を、それが「その関係の本質=自然である」と、あるいは「その関係が持っている本質性=自然性が、その出来事として表現されたものである」というようにさえ思っている。その関係の本質性=自然性として見出された出来事は、その出来事が「本質的=自然的」であるがゆえに、その関係において「それ以外の出来事」を考えることができず、ゆえに「その出来事の中に、その出来事に関係する人と人=私とあなたとを閉じ込めてしまう」ことになる。
結果として、その出来事は、もはや新しい関係を生み出すことはない。その出来事を媒介として、人と人=私とあなたとが、その関係に閉じ込められている限り、「その人と人=私とあなたとの間」では、その出来事=傷=罪は、けっして「終わることはない」のである。
もし、新しい関係を絶えず生み出そうとすることが、現に生きている人の活動の本性そのもの、つまり、人が現に生きているということそのものだとすれば、もはや新しい関係を生み出すことができないということは、「もはや生きることができない」ということと同義なのだ、と言える。つまりそれは、「生きながら死んでいるのも同然だ」と言える。だから「罪の中を生きる」ということは、「死の中を生きる」のと同じことになるのである。
この人間の無間地獄を「終わらせる」ために、「…人間事象の領域で許しが果たす役割を発見したのは、ナザレのイエスであった…」(※3)と、アレントは言っている。
『許し』は、「人を出来事=罪から解放する」だけでなく、「出来事=罪を人から解放する」ということでもある。許しが、「…行なわれたところのもの(what)がそれを行なった者(who)のために許される…」(※4)ものとしてあるというのは、一方で、「行なわれたところのもの=出来事のために」ということでもあるのだ。
『出来事』は関係において生まれるものであり、関係する対象の「間」で、相互的に生まれるものである。つまり、出来事とは「関係する者同士の、そのどちらかに一方的に帰属するもの」ではないということを、『許し』は明らかにするのでもある。
この許しにおいて、人は出来事から解放され、かつ「それぞれの人と人」として解放される。そしてそれだけでなく、出来事は「人と人との間においてあるもの」として、その人と人との「間」に帰され、「出来事として解放される」のでもある。
こうして人は、その日常の中で、「…自分の行なう行為から絶えず相互に解放されることによってのみ、自由な行為者に留まることができ…」(※5)るようになるのであり、なおかつそれによって「…常に自ら進んで自分の心を変え、ふたたび出発点に戻ることによってのみ、なにか新しいことを始める大きな力を与えられる…」(※6)ことができるところとなる。
ただし、このような『解放』はもちろん、けっしてその出来事=罪を「なかったことにする」ようなものではない。イエスは、その『許し』に際して、何度もこう言っている。
「あなたの罪はゆるされた。もう二度と、罪を犯さないようにしなさい。」
『罪』は、たしかにあったのである。しかしそれは今、許されたのだ。だからもう、同じこと=罪を繰り返すようなことはするな。イエスの言いたいこととは、端的に言えばそういうことである。これにより『罪』は、そのように「許されること」によって、むしろけっして「忘れえないもの」となる。もし、許されることにおいて、その罪が「なかったことになる」のであれば、人は「その罪を忘れてしまうことになる」だろう。そしてそれを「忘れてしまったがゆえ」に、そこで何をしたのかがもはや思い出せず、結果としてまた「同じこと=罪を繰り返す」ことになるのである。
ところで、許されることによってその罪はもう「繰り返さない」のだとしても、人はまた「別の罪」を犯すことになるのではないだろうか?つまり「罪そのもの」は、その許しによって終わることがないのではないだろうか?
しかしだからこそ『罪』は、人がそれを「忘れないうちに許される必要がある」のだ、と言える。「忘れられた罪」は、人を「その中に閉じ込める」のだ。それこそが「罪そのもの」なのである。「罪の中を生きる」ということが「罪そのもの」なのであり、それはたしかに「許されえないこと」なのだ。その中において人はもはや、「何が罪なのだか、わからないまま生きる」ことになる。イエスはまさしくこのことを「終わらせることにした」のだった。そのことがまさに、彼の『許し』が果たす役割でもあったのである。
◎引用・参照
(※1)~(※6) アレント「人間の条件」第五章33 志水速雄訳
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