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「好き」という言葉
結局、櫂理君の問い掛けに答えは何も出せなかった。
でも、本心はちゃんと伝えられたと思う。
その甲斐あってか。気まずさはなくなり、いつもの日常が戻ってきた。
そして今。
私は、櫂理君の部屋で体温計と睨めっこをしている。
「38度2分。……うん。これは絶対無理だね」
「やだ。俺は行く」
赤ら顔で呼吸が乱れているにも関わらず。未だベッドから起き上がろうとする櫂理君の体を、私は無理矢理押さえ付けた。
「だめ。ちゃんと熱あったでしょ。今日のお出掛けは中止です」
「熱なんて、解熱剤とエナジードリンクぶち込んどきゃ何とかなるだろ」
「お願いだから、そんな荒技はやめて。とにかく、絶対安静だからね!」
それでも尚、駄々をこねる彼の言い分を一刀両断すると、ようやく諦めてくれた櫂理君は、渋い顔で布団の中に潜った。
「……ふう。やっと大人しくなった……」
一旦部屋を出ると、肩の力が一気に抜け落ち、思わず独り言が漏れ出る。
確かに、彼がここまで抵抗するのも無理はない。
櫂理君と映画を観る約束をしてから、今日までずっと心待ちにしていたのは、側から見てもよく伝わってきたから。
だけど、病気ではどうしようもない。
おそらく昨日雨に濡れて、そのまま放置していたのが原因だと思う。ああ見えて、櫂理君は私よりも免疫力が弱いから。
それでも、これ程の高熱はかなり久しぶりかもしれない。
何はともあれ、今日は一日櫂理君の看病に徹しようと。そう心に決めると、飲み物を用意するため、足早に一階のリビングへと向かう。
それから、キッチンで朝食の準備をしているお母さんに事情を説明すると、早速病院へ行くことになった。
また抵抗されるかと思いきや。お出掛け中止宣言をしてから、櫂理君は私達の言うことを素直に聞き入れてくれて。
お母さんに連れられ、お医者さんに診てもらった結果はただの風邪。そう連絡を受けると、ひとまず感染症じゃないことにホッと胸を撫で下ろす。
そして、キッチンへと向かい、櫂理君のためにお粥を用意することにした。
「櫂理君具合はどう?食べれそう?」
病院から戻り、ベッドで横になる彼の元に出来立ての卵粥を届けると、櫂理君は弱々しい目を向けてきた。
「莉子が食べさせてくれるなら」
だけど、表情とは裏腹に。言葉にはやけに力がこもっていて、私は彼の要求に応じると、お盆をシェルフの上に置く。
そして、スプーンでお粥を掬い、軽く冷ますと、おもむろに櫂理君の口元に運んだ。
「……ん。美味しい」
朧げな目をしながらも、嬉しそうに食べてくれる櫂理君。
その姿が母性本能を大いにくすぐられ、不謹慎だと思いつつも、悶えずにはいられなかった。
それから、あっという間にお粥を平らげた彼に薬を手渡すと、心なしか朝よりも顔が赤くなっているような気がして。確認のため額を触ってみると、焼けるような熱さに思わず手を引っ込めてしまった。
「これ絶対熱上がってる。早く横にならないと」
これだけ熱いと、本当にただの風邪なのか些か不安になるけれど。とりあえず今は寝ることしか出来ないので、私はお盆を持って部屋を出ようとした時だった。
「莉子の手、冷たくて気持ちいいから、もう少し額触って……」
櫂理君に弱々しく服の裾を掴まれ、子犬顔でねだられてしまい、その破壊力に私はついお盆を落としそうになる。
懐かしい。
まるで幼い櫂理君を見てるみたい。
あの頃も、こうして熱を出すと、よく「額を触って欲しい」とねだられたっけ。
高熱のせいか、普段の荒さが削り取られ、今目の前に映る姿は、純粋だった幼少期そのもの。
そんな彼にダメなんて当然言えるはずもなく。
私はお盆をシェルフの上に置くと、櫂理君の額に再び手を当てた。
「……冷え◯タ貼ろっか?」
なんなら、そっちの方がより効能的だと思うけれど、どうやら、それはお気に召さないらしく。一向に私の手を離そうとしない。
「莉子の手の方が冷たくて、温かいから」
……うーん。どっちだろう?
真面目に質問しようとしたけれど、櫂理君の満足気な表情を見ていると、どうでも良くなってきた。
「……熱い」
次第に、手からじんわりと伝わってくる櫂理君の汗。
よく見ると、顔まわりや首元にも滲み出ていて、なんだか寝心地が悪そう。
「櫂理君、汗拭いてあげようか?」
それから、何気なく提案してみると、櫂理君は躊躇いもなくパジャマのボタンを外し始めた。
そして、着ていたシャツまでも脱ぎだし、あっという間に厚い胸板が露わになる。
「……え、えっと……」
どうしよう。
自分で言っときながら、なんだか凄く恥ずかしくなってきた。
というか、まさか上着まで脱ぐとは思わなかった。
高校生になってから初めて見る、櫂理くんの体。
幼い頃とは違う、引き締まった「男性」の体温を間近に感じて、心臓が耳のすぐそばで鳴り始めた。
「どうした?」
すると、なかなか動こうとしない私を、きょとんとした目で見てくる櫂理君。
いつもと違い、下心が微塵も感じられないので、益々窮地に追い込まれる。
とにかく、このまま放置したら逆効果なので、私は持ってきたタオルを手に取り、震える手で櫂理君の体を拭き始めた。
こんなに男の人の体をまじまじと見たのは初めてかもしれない。
子供の時は、一緒によくお風呂に入ったりしていたのに。
日頃から鍛えているからか、あの頃とは比べものにならないぐらい逞しい筋肉質の体。
腹筋も綺麗に割れていて、まさか細身の服の下に、こんな立派なものが隠れていたとは知らなかった。
それに、熱のせいで頬が赤く、虚な目をこちらに向けてくる姿が、なんだか凄く艶めかしい。
おかしいな。
さっきまで幼少期の櫂理君だったのに。
今では大人の色気を無自覚にこれでもかと振り撒かれ、平静を装うのにもそろそろ限界を迎えてくる。
「莉子、好きだよ……」
「へ!?」
すると、なんの前触れもなく突然告白をされ、思わず素っ頓狂な声を発してしまった。
「これからも、ずっと好きだから」
しかし、激しく動揺する私にはお構いなしと。櫂理君は穏やかに口元を綻ばせると、私の頬を優しく指でなぞり、視線を合わせてくる。
その熱のこもった純粋な瞳が、あまりにも真っ直ぐ綺麗で。
まるで妖術にでもかかったように、私の心は射すくめられ、動けなくなる。
だめだ。
このままじゃ取り込まれてしまう。
そんな危機感が襲い、私は無理やり視線を逸らすと、止めていた手を無心で動かした。
それから、一通り体を拭き終えると、櫂理君に服を着させ、逃げるように部屋から出て行った。
結局また何も答えられなかった。
「好き」という言葉は、私たちの間では日常茶飯事だったはずなのに。
それなのに、なんで私はその「好き」が言えなかったんだろう。
いまだ鳴り止まない鼓動を手で押さえ、私は扉の前で力なく座り込む。
ここ最近、これまで簡単に出来たことが、出来なくなっているような気がする。
私だって櫂理君のことが大好きなのに。
最後に彼に「好き」と言ったのがいつだったのか、思い出せない。
しばらくその場で留まっていると、ようやく心拍数が落ち着き始め、私はゆっくりと立ち上がり自分の部屋に戻る。
とにかく、落ち着かないと。
せっかく戻ってきた日常なのに、また私のせいで壊すことはしたくない。
◇◇◇
「ねえ、莉子。櫂理にうどん食べられるか聞いてきてくれる?」
正午を迎え、リビングでぼんやりテレビを見ていると、お昼の準備に取り掛かろうとしているお母さんからそう言われ、私は少し躊躇いがちに返事をした。
朝もお粥はしっかり食べてたし、多分大丈夫だと思うけど、一応確認しようと。二階へ上がり、櫂理君の部屋の扉を軽くノックしてみたけれど、一向に反応がない。
おそるおそる扉を開けると、ベッドから静かな寝息が聞こえてきて、私は物音を立てないように彼の側まで近寄った。
……可愛い。
また幼い櫂理君に戻っている。
先程の暴力的なまでの色気とは裏腹に。今度は長いまつ毛を落とした無垢な寝顔が目前に映り、つい頬が緩んでしまう。
このまま引き返そうとしたけれど、この寝顔をもう少し見ていたくて、私は近くにある椅子に腰を下ろす。
このまま、ずっと”可愛い弟”ならよかったのに……。
心の中でそう呟くと、櫂理君の細い髪に手をそっと伸ばした。
”弟”ならここまで悩むことはないし、さっきみたいに「好き」と言われても全然平気。
さっきの告白だって笑って受け流せたはずだし、家族として迷わず「好き」と言えたのに。
いつの間に、心の中はこんなに複雑に絡まってしまったんだろう。
現状維持でこれまでの関係が保たれているけれど、この選択が正しいとは思わない。
”ねえ。
私は、どうしたいの?”
心の片隅にいるもう一人の自分が問い掛けてくる。
でも、やっぱりその先の答えは見つからなくて。
毎度このパターンに嫌気がさしてくるけれど、今ならはっきりと言える。
「櫂理君、大好き」
どうせ届かないと分かっているから、簡単に口に出せる。
これが家族としての愛なのか、女としての恋なのか。
自分でも正体のわからない曖昧な言葉を、こんな時しか伝えられないなんて。
つくづく私は臆病者だ。
それからリビングに戻ると、しばらくして櫂理君が二階から降りてきて、一瞬ヒヤッとした。
だけど、今起きたばっかりな表情を見る限り、独り言を聞かれた心配はなさそう。
櫂理くんはいつもの調子でうどんを啜り、なんなら朝よりも明らかに食欲が増している。
その凄まじい回復力に驚かされながらも、私はホッと胸を撫で下ろした。
それから、私たちは何事もなかったかのように、たわいもない会話を交わし、いつも通りの日常を迎えた。
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