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叙章 アガルタの記憶に徒花を
叙の六 闇の住人に血の洗礼を ①
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闇の中を駆ける。
ひたすら早く。
なによりも、誰よりも早く。
暗闇の中を疾走する影たちが、それぞれの意思の元で動き出す――街の雑踏など、何も気にすることなく暗躍を開始していた。
’三六年〇四月一八日(約束の日まで、あと二〇七日)
数時間前、倉田鞍馬は後をつける廣瀬遥夏にあっさりと撒かれていた。
市内を循環する乗り合いバスに飛び乗った遥夏を、特に焦る様子もなく見送る――遥夏の追跡を諦めたかのように見えた鞍馬は、不意にバスとは反対の方向へと駆け出した。
「なーんだ……バレてたのか」
ニット帽を目深に被った少年、ジュエルが慌てて彼の眼前へと立ちはだかる。
「ヴァグザの工作員……ついて来いよ!」
鞍馬は軽い身のこなしで跳躍すると、民家の塀から屋根伝いに繁華街の方へ向かった。
「ヒュー……ジャパニーズ忍者! 一度やりあってみたかったんだよね」
ジュエルも意気揚々とその後を追っていく。あっという間に、二人の姿は住宅街から消えていくのだった。
☆
海からの吹く風が、ほどよくそよぐ夜の港町。彼らの眼下には、鮮やかなネオンの明かりに照らされた歓楽街が広がる。
辺りは深々とした深い闇が覆い、なんの雑音もない……通常ではありえない静寂に包まれながら、その上空では異端者同士のつばぜり合いが、すでに始まっていた。
倉田鞍馬とその人影は、隣接するスナックビルのそれぞれの屋上に立つと視線を交差させる。
「さすがにしぶといね」
地上から二十メートル上空の、風の音以外なにも聞こえない空間に、少年のような高い声が響く。影の主が発した言葉は、相対する敵――陽之巫女の御庭番へと向けて発せらた。瞬くネオンの光に照らされたその姿は、ニット帽を目深に被った西洋人少年の姿を映し出す。
被っていたフードを外すと、鞍馬はジュエルの佇まいをまじまじと見つめる。淀みのない彼の双眸は、対峙する少年との間合いを人知れず測っていた。
鞍馬の外套は、すでに無数の切創痕でズタボロになり果て、ビル風にはためている。少年の手に握られたキラリと光る円盤状の獲物……チャクラムの攻撃を、幾度も紙一重で躱してきた痕跡であった。外套を脱ぎ捨ててもなお動きを見せず、淀みのない双眸で、目前の敵をしっかりと見据えている。
まだあどけなさが残る少年――ヴァグザ工作員のジュエルは、漆黒の空に滑り込ませるよう、何度目かのチャクラムを放った。
☆
神威市の駅前。中規模のビジネスビルが立ち並ぶ中に、東北海道地震で倒壊を免れたのが奇跡のような、ひときわ古めかしいビルがあった。壁のモルタルは所々剥がれ落ち、エレベーターもない。その最上階である、五階の一室――ドアのプレートには『池神探偵事務所』とある。
明かりもまばらで薄暗い事務所内は、スチール製の事務机とカウチソファーを囲むように、数十台のモニターが設置されており、神威市内全域の様子が映し出されていた。ソファーでは池神織子が寝ころび、ポテチをつまみにくつろぎながら、一台のモニターを見入っている。
「はっ!」
気合一閃。全身をバネにして、鞍馬は相手との距離を一気に縮めていく。ジュエルもとなりのビルの屋上から鞍馬に向かって飛び掛かっていった。互いの距離が肉迫するまでに接近したその時、少年はなにかに反応して身をよじる――鞍馬が背中から抜き出した青龍刀が、突然空を切った。
「あ、あっぶなー!」
間一髪でその一撃を躱したジュエルが、思わず口走る。抜き身の青龍刀は、闇夜に映える月の光を纏って青白く輝いていた。
「でも、むちゃくちゃ面白いよ! 忍者っ!」
これから始まる血の宴を想像してか、ジュエルの口元が醜悪に歪む。青龍刀が煌めき、突然闇の中から向かってきたチャクラムをはじき返した。
互いの影が、月光に照らされながら交錯していく。それはまさしく必殺の一撃――両断されたチャクラムが地に落とされた。
「だったら、これはどう?」
言うと、ジュエルは再びチャクラムを指先でクルクルと回し始める。それはいつしか、何十枚にも数を増やして空に消えた。数秒後、無数の鋭利な円盤が暗闇の中から次々と襲い、鞍馬は全身から鮮血を飛び散らせると周囲を朱色に染めていく……だがしかし、致命傷には至らない。
彼には、チャクラム一つ一つの軌道を読みながら、紙一重で急所だけを外すことが可能な動体視力を身に着けていた。
多少傷つこうが表情一つ変えない鞍馬は、ゆっくりとジュエルに近づいていく。微塵の恐れも抱いてはいないかのように……。
むしろ、焦慮に駆られたのはジュエルの方だった。それでもなお、不意を突いて正面からチャクラムを放つ。それらを冷静に見切っていく鞍馬は、闇の中から出現する円盤状の刃を、次々と薙ぎ払っていく。
最早、ジュエルに勝ち目はなかった。それでも僅かながらの“勝利”に執着し、少年はチャクラムを放ち続ける――切り傷で血みどろになりながらも、鞍馬はそのすべてを冷淡に避けては撃ち落としていった。
「だめだ、こりゃあ」
何十枚と青龍刀にはじかれたチャクラムは、無残にもすべて粉々に破壊された。銀色の欠片たちは、月の光に反射してキラキラと地上に降り注いでいく。それを自らの末路と重ねたジュエルは、鞍馬との距離を稼ぐため、高く飛んでその場から離脱していくのだった。
「やるじゃん! 御庭番くん」
その様子をモニター越しで観覧していた織子は、ソファーから起き上がるとやんややんやと拍手を送る。その時、モバイルギアのアラームがけたたましく鳴り響いた。
「おっといけねー、そろそろ行かないとニャ」
リモコンひとつですべてのモニターの電源を落とした織子は、スチール机に飾ってある池神剛志とのツーショット写真を手に取る。
「それじゃあ、またね。パパさん……オリコは、静ちゃんトコに行ってくるから」
写真立てを伏せて置くと、勢いよく事務所を飛び出していった。切れかかった蛍光灯が点滅を繰り返す中、織子は狭い階段を屋上に向かって駆け上がっていく。
「急がないと、せっかく開けた門扉が閉まっちまうべさ!」
モバイルギアを見ると、カウントダウンされたタイマーが十分前を示している。織子は階段を、猫のように軽快なステップで登りきった。
「いや、余裕で間に合ったかニャ?」
幸いにも鍵の壊れた扉を開き、貨物コンテナやドラム缶、古タイヤなどが乱雑に積まれた屋上へと辿り着く。外に出た途端、ビル風が織子のくせっ毛を揺らした。
「……誰ニャ?」
僅かに感じる何者かの気配……織子の『堕巫女』としての感が、危険を訴えかけてくる。気配を感じた方に視線を向けると、彼女がいる屋上とほぼ同じ高さの雑居ビルが見えた。感覚を研ぎ澄ませるために、彼女は完全に獣と化していく。
看板の照明でライトアップされた駅前のビル群は、夜とはいえそれなりに見通しが利く――向かい側の屋上から、鋭い殺気を送り続けてくる者たちを発見することなど、夜目の利く彼女には割と容易な作業であった。
「――⁉」
不意に、荒縄のようなものが向かって飛んで来る――と、瞬く間に織子の首や手足へと絡まった。強烈に締めつけてくるそれを、織子は咄嗟に鋭い爪で掻き切っていく。なにか生々しい物を切った感触と、流れ出る生暖かい液体……月明かりに照らされたのは、鮮血にまみれた織子の姿であった。
「……蛇?」
血に染まった指に絡みついていたのは、無残にも引きちぎられた蛇たちの残骸。織子は傷ついた場所を押さえつつ、向かい側のビルに蠢く影を睨んだ。夜戦の意思に呼応して瞳孔が狭まっていくのがわかる。
「もう、時間がニャいってのに!」
屋上から助走をつけて一気に跳躍――一瞬の浮遊感を味わった後、織子は向かいのビルの屋上に転がりながら着地していく。
「……蓮華たちと殺り合う、っぽい?」
着地するなり、織子はその声の主らを一瞥した。一人はターバンを頭に撒き、『ペラン』と呼ばれるガウンを身に纏った長身の男。瞳はなく白目は真紅に染まり、細長い指先にはコブラを模した笛が摘ままれている。
そして、もう一人……尋常ではない様子の男の傍らには、大きな木箱を背負った水縞蓮華の姿があった。
「亜瑠坐瑠の“くの一”が、オリコニャんかにニャんの用ニャのかニャ?」
そう問い掛けながら、織子は爪を長く伸ばして戦闘態勢を整える。
「これは三ケ月前にインドで拾った、蓮華に使役する蛇使いの『ドゥルーヴ』……池神織子には色々と聞きたいことがある感じ。だから、おとなしくついて来るっぽい?」
「やだね!」
先手必勝! 捨て台詞を吐くなり、織子はインド人に向けて鋭く伸びた爪を立てながら、飛び掛かっていくのだった。
ひたすら早く。
なによりも、誰よりも早く。
暗闇の中を疾走する影たちが、それぞれの意思の元で動き出す――街の雑踏など、何も気にすることなく暗躍を開始していた。
’三六年〇四月一八日(約束の日まで、あと二〇七日)
数時間前、倉田鞍馬は後をつける廣瀬遥夏にあっさりと撒かれていた。
市内を循環する乗り合いバスに飛び乗った遥夏を、特に焦る様子もなく見送る――遥夏の追跡を諦めたかのように見えた鞍馬は、不意にバスとは反対の方向へと駆け出した。
「なーんだ……バレてたのか」
ニット帽を目深に被った少年、ジュエルが慌てて彼の眼前へと立ちはだかる。
「ヴァグザの工作員……ついて来いよ!」
鞍馬は軽い身のこなしで跳躍すると、民家の塀から屋根伝いに繁華街の方へ向かった。
「ヒュー……ジャパニーズ忍者! 一度やりあってみたかったんだよね」
ジュエルも意気揚々とその後を追っていく。あっという間に、二人の姿は住宅街から消えていくのだった。
☆
海からの吹く風が、ほどよくそよぐ夜の港町。彼らの眼下には、鮮やかなネオンの明かりに照らされた歓楽街が広がる。
辺りは深々とした深い闇が覆い、なんの雑音もない……通常ではありえない静寂に包まれながら、その上空では異端者同士のつばぜり合いが、すでに始まっていた。
倉田鞍馬とその人影は、隣接するスナックビルのそれぞれの屋上に立つと視線を交差させる。
「さすがにしぶといね」
地上から二十メートル上空の、風の音以外なにも聞こえない空間に、少年のような高い声が響く。影の主が発した言葉は、相対する敵――陽之巫女の御庭番へと向けて発せらた。瞬くネオンの光に照らされたその姿は、ニット帽を目深に被った西洋人少年の姿を映し出す。
被っていたフードを外すと、鞍馬はジュエルの佇まいをまじまじと見つめる。淀みのない彼の双眸は、対峙する少年との間合いを人知れず測っていた。
鞍馬の外套は、すでに無数の切創痕でズタボロになり果て、ビル風にはためている。少年の手に握られたキラリと光る円盤状の獲物……チャクラムの攻撃を、幾度も紙一重で躱してきた痕跡であった。外套を脱ぎ捨ててもなお動きを見せず、淀みのない双眸で、目前の敵をしっかりと見据えている。
まだあどけなさが残る少年――ヴァグザ工作員のジュエルは、漆黒の空に滑り込ませるよう、何度目かのチャクラムを放った。
☆
神威市の駅前。中規模のビジネスビルが立ち並ぶ中に、東北海道地震で倒壊を免れたのが奇跡のような、ひときわ古めかしいビルがあった。壁のモルタルは所々剥がれ落ち、エレベーターもない。その最上階である、五階の一室――ドアのプレートには『池神探偵事務所』とある。
明かりもまばらで薄暗い事務所内は、スチール製の事務机とカウチソファーを囲むように、数十台のモニターが設置されており、神威市内全域の様子が映し出されていた。ソファーでは池神織子が寝ころび、ポテチをつまみにくつろぎながら、一台のモニターを見入っている。
「はっ!」
気合一閃。全身をバネにして、鞍馬は相手との距離を一気に縮めていく。ジュエルもとなりのビルの屋上から鞍馬に向かって飛び掛かっていった。互いの距離が肉迫するまでに接近したその時、少年はなにかに反応して身をよじる――鞍馬が背中から抜き出した青龍刀が、突然空を切った。
「あ、あっぶなー!」
間一髪でその一撃を躱したジュエルが、思わず口走る。抜き身の青龍刀は、闇夜に映える月の光を纏って青白く輝いていた。
「でも、むちゃくちゃ面白いよ! 忍者っ!」
これから始まる血の宴を想像してか、ジュエルの口元が醜悪に歪む。青龍刀が煌めき、突然闇の中から向かってきたチャクラムをはじき返した。
互いの影が、月光に照らされながら交錯していく。それはまさしく必殺の一撃――両断されたチャクラムが地に落とされた。
「だったら、これはどう?」
言うと、ジュエルは再びチャクラムを指先でクルクルと回し始める。それはいつしか、何十枚にも数を増やして空に消えた。数秒後、無数の鋭利な円盤が暗闇の中から次々と襲い、鞍馬は全身から鮮血を飛び散らせると周囲を朱色に染めていく……だがしかし、致命傷には至らない。
彼には、チャクラム一つ一つの軌道を読みながら、紙一重で急所だけを外すことが可能な動体視力を身に着けていた。
多少傷つこうが表情一つ変えない鞍馬は、ゆっくりとジュエルに近づいていく。微塵の恐れも抱いてはいないかのように……。
むしろ、焦慮に駆られたのはジュエルの方だった。それでもなお、不意を突いて正面からチャクラムを放つ。それらを冷静に見切っていく鞍馬は、闇の中から出現する円盤状の刃を、次々と薙ぎ払っていく。
最早、ジュエルに勝ち目はなかった。それでも僅かながらの“勝利”に執着し、少年はチャクラムを放ち続ける――切り傷で血みどろになりながらも、鞍馬はそのすべてを冷淡に避けては撃ち落としていった。
「だめだ、こりゃあ」
何十枚と青龍刀にはじかれたチャクラムは、無残にもすべて粉々に破壊された。銀色の欠片たちは、月の光に反射してキラキラと地上に降り注いでいく。それを自らの末路と重ねたジュエルは、鞍馬との距離を稼ぐため、高く飛んでその場から離脱していくのだった。
「やるじゃん! 御庭番くん」
その様子をモニター越しで観覧していた織子は、ソファーから起き上がるとやんややんやと拍手を送る。その時、モバイルギアのアラームがけたたましく鳴り響いた。
「おっといけねー、そろそろ行かないとニャ」
リモコンひとつですべてのモニターの電源を落とした織子は、スチール机に飾ってある池神剛志とのツーショット写真を手に取る。
「それじゃあ、またね。パパさん……オリコは、静ちゃんトコに行ってくるから」
写真立てを伏せて置くと、勢いよく事務所を飛び出していった。切れかかった蛍光灯が点滅を繰り返す中、織子は狭い階段を屋上に向かって駆け上がっていく。
「急がないと、せっかく開けた門扉が閉まっちまうべさ!」
モバイルギアを見ると、カウントダウンされたタイマーが十分前を示している。織子は階段を、猫のように軽快なステップで登りきった。
「いや、余裕で間に合ったかニャ?」
幸いにも鍵の壊れた扉を開き、貨物コンテナやドラム缶、古タイヤなどが乱雑に積まれた屋上へと辿り着く。外に出た途端、ビル風が織子のくせっ毛を揺らした。
「……誰ニャ?」
僅かに感じる何者かの気配……織子の『堕巫女』としての感が、危険を訴えかけてくる。気配を感じた方に視線を向けると、彼女がいる屋上とほぼ同じ高さの雑居ビルが見えた。感覚を研ぎ澄ませるために、彼女は完全に獣と化していく。
看板の照明でライトアップされた駅前のビル群は、夜とはいえそれなりに見通しが利く――向かい側の屋上から、鋭い殺気を送り続けてくる者たちを発見することなど、夜目の利く彼女には割と容易な作業であった。
「――⁉」
不意に、荒縄のようなものが向かって飛んで来る――と、瞬く間に織子の首や手足へと絡まった。強烈に締めつけてくるそれを、織子は咄嗟に鋭い爪で掻き切っていく。なにか生々しい物を切った感触と、流れ出る生暖かい液体……月明かりに照らされたのは、鮮血にまみれた織子の姿であった。
「……蛇?」
血に染まった指に絡みついていたのは、無残にも引きちぎられた蛇たちの残骸。織子は傷ついた場所を押さえつつ、向かい側のビルに蠢く影を睨んだ。夜戦の意思に呼応して瞳孔が狭まっていくのがわかる。
「もう、時間がニャいってのに!」
屋上から助走をつけて一気に跳躍――一瞬の浮遊感を味わった後、織子は向かいのビルの屋上に転がりながら着地していく。
「……蓮華たちと殺り合う、っぽい?」
着地するなり、織子はその声の主らを一瞥した。一人はターバンを頭に撒き、『ペラン』と呼ばれるガウンを身に纏った長身の男。瞳はなく白目は真紅に染まり、細長い指先にはコブラを模した笛が摘ままれている。
そして、もう一人……尋常ではない様子の男の傍らには、大きな木箱を背負った水縞蓮華の姿があった。
「亜瑠坐瑠の“くの一”が、オリコニャんかにニャんの用ニャのかニャ?」
そう問い掛けながら、織子は爪を長く伸ばして戦闘態勢を整える。
「これは三ケ月前にインドで拾った、蓮華に使役する蛇使いの『ドゥルーヴ』……池神織子には色々と聞きたいことがある感じ。だから、おとなしくついて来るっぽい?」
「やだね!」
先手必勝! 捨て台詞を吐くなり、織子はインド人に向けて鋭く伸びた爪を立てながら、飛び掛かっていくのだった。
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