暁の世界、願いの果て

蒼烏

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第2章 日常讃歌・相思憎愛

第4話 芽吹く力

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「先生」

 今まで発言する事のなかった工藤が声を上げる。
 皆が次の言葉を紡げずにいたところに工藤が声を上げた事で、注目が集まる。

「何ですか……えっと、申し訳ない君の名前は……」
「工藤です。それで先生、このまま何もしないでいるのもあれですよね?校舎の中に入らないで外を確認するのはどうですか?あそこで木になってる、多分作業員だったものの持ち物にスマホでもあれば、連絡が取れるんじゃないですか?」

 工藤が指差す先には欅の木の伐採のために訪れていた、が欅の木の周りに生えていた。
 
「いや……でも……人の物を勝手に使ってしまうのは……」
「そんなこと言ってられる場合じゃないじゃないですか!それには生きてるんですか!?」

 元々人間であった霊樹を生きていると考えるか、死んでいると考えるか。
 安部は人として捉えており、それはこの場にいる者の殆どが人か或いはまだ何らかの意思や戻ることもあり得るのでは、そう思っているのである。
 ただ1人、既に死んだとして捉え、その考えに何も感じていないのが工藤である。

「ちょっと!工藤くんそれは言い過ぎ!まだ分かんないじゃん!」
仁代じんだい……いいよ俺が取ってくる。そういうのは俺の役目だもんな……」

 仁代真理じんだいまりが工藤を止めようとするも、工藤は薄らと笑いながら真理を見るだけだ。
 その目を見て真理はを感じる。
 皆んなを助けようとか、自分が率先して役目を負うとか、そう言った感情が感じられない。およそ、今この状況で浮かべる様なたぐいの感情ではない色が浮かんでいる。
 普段から目立つ真理は周囲からの視線をいつも集めている。それは良いものもあれば、当然悪いものもある。真理も普段であれば気にしないのだが。

――あれは良くない――
 
 真理がそう直感し、工藤を止めようとした。が、工藤は何やら自分で納得してしまい、作業着を着た霊樹の方へと走り出していく。

「ちょっと!待ちなさい!」
「真理、いいよほっときなよ」
 
 追いかけようとする真理を兄の仁代伊緒じんだいいおが止める。

「あいつはを物扱いしてるんだよ!何するか分からないじゃん!」
「……だからって真理が行かなくてもいいでしょ。あいつ、何かおかしいだろ。あいつ1人だけ、ずっと笑ってるんだぞ」
「……でもほっといたら!」

 伊緒も何かがおかしいと感じていたようで真理に警告をする。
 しかし、真理も何かしなければと拳を握りしめる。

「俺が見てこよう。何かあっても俺なら大丈夫だろ」

 その状況を見ていた最上級生で空手部主将の西風舘ならいだてが声を上げる。

「先輩……すみません、お願いしてもいいですか?」
「あぁ、様子を見てくる。何かあったら助けて貰えると助かるかな」

 真理が西風舘に頭を下げる。西風舘は任せとけと軽く手を挙げて答え、もしもの時に助力をお願いしてくる。

「西風舘先輩なら問題ないと思いますが、その時は任せて下さい!」
「はは、やっぱり空手部に来ればよかったのに」
「それはできません!」

 真理も元々武術をやっており、西風舘の事も光から聞いていたため、その実力も耳にしている。
 西風舘もまた有望な後輩として真理に目を付けていたが、真理が光を追いかけて剣道部に行ってしまったため、同じ部活に所属することはなかった。
 工藤の元に向かう西風舘を見守りながら、伊緒が真理に問う。

「西風舘先輩って強いの?」
「……伊緒そんなことも知らないの?全国レベルだよ」
「まじか」

 ◇◇◇

 一足先に欅の木の根元までやってきた工藤は、霊樹の根元に散らばる作業服のポケットを漁っていた。

「お、財布発見。一応貰っておくか」

 関係のない財布をくすねて、自身のズボンのポケットに仕舞っていく。

「なんだよ、スマホは持ってないのかよ。使えねぇな」

 そう言いながら投げ捨てた作業着の胸ポケットには折り畳み式の携帯電話機が入っていたのだが、工藤には電話として認識されなかったようである。
 その代わりに紙たばことライターを見つけて自身の胸ポケットに忍ばせる。

「へへ、一度吸ってみたかったんだよな……おっ!」

 工藤は別の作業員のズボンからスマホを見つけ、操作する。しかし顔認証となっており、ロック解除をすることができない。
 本来であれば非常通報はすることができるのだが、そんなことはお構いなしにスマホを放り投げる。

「木になった顔じゃどうせロック解除できないだろ。役立たねぇな、くそっ!」

 人であったものに対する、うやまうう気持ちは微塵みじんもなく。霊樹と化した作業員の足元でその身を屈めながら、己の役に立たない事だけに腹を立てている。
 どす黒い感情が工藤の心を満たしていく。

 ――ぁ゛ぁ゛……楽しい……何て、何て……自由なんだ……この世界は……俺の……俺の為の……もっと……もっと……もっと欲しい……全部、俺のだ――
 
 満たされる心。
 思考が塗りつぶされていく。いや、
 心地よく沈む思考の海にその身を預け、人間の最も原初な感情に触れる。
 
「おい!何をやってる!」

 その光景を目にした西風舘が、工藤を一喝する。工藤の手が止まり、そして立ち上がる。
 ゆっくりと西風舘の方へと向き直る。

「何ですか先輩。手伝ってくれるんですか?」

 その顔は歪み、瞳は濁り、口元はいやらしく吊り上がる。
 先程まで見ていた工藤とは最早別物の様な表情に、西風舘もただ事ではない”何か”が起きていると直感し、足を止める。
 
「こいつらさぁ、役立たねぇんだよ。だからさ。ぶっ壊してぇんだよ!」

 工藤が拳を強く握り、そのまますぐ後ろの霊樹に残された叩きつける。

 ――ドゴオオオオオオォォォォォ――

 おおよそ人が樹木を殴って出していい音ではない轟音が、周囲の空気を震わす。

「――っ、何が」

 思わず両手で防御の姿勢を取ってしまう西風舘。
 その両手の隙間から見えたのは、狂ったようにわらう工藤。

「ははっ、ふは!ふはははは!ふははははははははははははははははははは!何だこれ!何なんだよ!おもしれぇ!何が起きてんだ!ふはっ!ふはははは!痛くねぇし!どっかから力が湧いてきやがる!さいっこうじゃねぇか!いひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃ!」

 狂いわらいながら霊樹を殴り続ける工藤。その拳は紅い光で覆われ、霊樹に浮かぶ顔をメキメキと削り取る。やがて幹の半ばまで抉り取ると、霊樹は音を立てながら伸ばした枝葉を地面へと叩きつける。
 周囲に土煙と大量の翠色の霊子の光を撒き散らしながら折れた霊樹の幹の中から、1つの翠色の光がふわりと抜け出してきた。
 サラサラと翠色の燐光を散らしながら、空へと溶けていった。

「――おい!何てことを!」

 西風舘も想定外の出来事に目を奪われ動けずにいたが、自らの役目を思い出して声を上げる。

「――いいんですかぁ?俺にそんなこと言って?ふひっ!殺しますよ?」

 ゾワリと体が硬直するのが分かった。西風舘も全国の猛者と闘ってきた武芸者だ。それ故に、相手の力量はそれなりに分かるつもりでいた。
 だが目の前のは、今まで自分が培ってきた強さの基準で測ってはならないものだと、本能が告げている。
 西風舘は身体を半身にし、ゆっくりジリジリと工藤へ近付いていく。
 左手は軽く手刀の形で前に、右手は軽く握り後ろに引く基本的な構えを取る。それでいて何時でも反応できるように足はあまり地面から離さないようにすり足で近付いていく。

「うは!怖い怖い!全国大会行くような奴がそんな本気になっていいんかよ。俺みたいな一般人に拳向けたら凶器なんだろ?じゃあ俺も凶器持っていいよな?いひゃ!イヒャヒャヒャヒャ!」

 両手を上げて降参しながらも、楽しくて仕方がないと言った表情の工藤。

「あ゛ぁ゛……みんなメチャクチャにしてぇ……、グチャグチャに切り刻んでみてぇなぁ!!イヒッ、イヒ、イヒヒヒヒヒ」

 両手を掲げ、天を仰ぐ工藤。無防備で隙だらけだが、余りの異質さに西風舘も飛び込むことができない。
 工藤の掲げた右手にが集まりだす。
 それに呼応して辺りを漂っていた翠色の霊子の光が渦となり、段々と工藤の右手に収束していく。

「ぁぁ……何だこれ……さいっこうに気持ちいいは……自分の……俺の気持ちに……身を任せる……もっとだ!もっと寄越せ!」
「西風舘先輩!あれは――!」
「先輩!逃げて!」

 事態を遠巻きに見守っていた伊緒と真理が何かを感じ取り、西風舘に対して逃げろと叫ぶ。
 真理は西風舘を助けるために走り出す。
 伊緒も一歩踏み出そうとするが躊躇ためらって止まってしまう。

「真理ちゃん!ダメ!」
「ああ!そっちに行っては危ないですよ!」

 躬羽玲みはねれいと安部が、走り出した真理を止めようと声を上げるが、真理は止まらない。

「真理!よせ!」
 
 伊緒は真理を止めようと、足を真理達の方へと向けている。だがその後の一歩が踏み出せずにいた。
 足が竦みすく動けない伊緒、焼き付いたあの日の光景が脳裏をぎる。
 
 遠ざかる背中。
 掴めない手。
 目に染みる夕日。
 泣きじゃくる少女。
 地面に倒れる親友。
 血に染まった手。

「くっそ!!くそくそくそ!!!!あ゛あ゛ぁーーーーー!!!!!」

 伊緒が声を張り上げる。普段からやる気を見せず、面倒くさがり、目立つことを嫌い、人の影に隠れようとする伊緒が吠える。
 それは慟哭どうこく
 走り出す真理を追いかける事ができない、伊緒の心の悲鳴。

「伊緒くん!大丈夫!私は!ここに居るから!!」
 
 伊緒の手を取り、握りしめる玲。
 玲は激しい動悸で脂汗の浮かんだ手をしかと握りしめ、伊緒が落ち着くまで静かに待つ。
 
「――玲……ごめん」
「大丈夫だよ、落ち着いた?」
「ああ、もう大丈夫だ……真理は……」

 落ち着きを取り戻した伊緒は顔をあげ、真理が走っていった方を見る。
 真理の先に居る工藤の右手に更に光が収縮し、紅と翠が混じり合って眩い閃光を放っていた。

「っく、目が……」

 思わず視界を塞ぐ西風舘。
 徐々に光は収まり、光の中心に居た工藤の姿が見えてくる。
 掲げた両手の内、右手には1本のナイフが握られていた。
 刃体は片刃で反りは無く刃渡り20センチメートル程、目を引くのは翠色に紅黒い班模様の浮かんだ刃体である。
 つばは無く、持ち手は翠色の光沢を放っている。見た目は大型のサバイバルナイフのそれだが、余りに禍々しい雰囲気を醸し出している。
 
「ぁぁぁ、ぃぃ……何ていいんだ…………今すぐにでも肉を切りたい……」

 不気味にそう言い放ち、ナイフを逆手に持ってすぐ後ろの欅の木に思いっきり突き立てる。

 ――ザクッ!!――

 ナイフの刃が根元まで、ズルリとめり込む。

 ――ザクッザクッザクッザクッザクッ!!――

 まるで豆腐に包丁を突き立てる様に、欅の木にナイフが刺さっていく。
 本来であれば欅の木はかなり硬い部類の木であり、樹皮はともかく、木部もくぶはそう容易くナイフが突き刺さるものではない。
 それを工藤は易々とやっている。
 工藤の力が異常に強くなっているのか、それともその手に握られた異質のナイフが、それを可能にしているのか。

「いぃぃぃぃぃぃぃ!!気持ちいいいいいいいぃぃぃぃぃ!!」

 工藤の絶叫と共に、突き刺さったナイフから紅黒い光が零れ落ちる。
 それは何度も刺さった欅の木の幹の傷口からも漏れ出ており、零れ落ちた光は地面に落ちて蒸発するように消えてい行き、どす黒いシミを残す。
 欅の木の傷口も紅黒く変色し、やがて腐食が侵攻して傷口を広げていく。
 ボトリボトリと崩れた木片が地面へと落ちていく。
 
「イイネイイネ!何だかわかんねぇけどカッコいいじゃんこれ!」

 突如、手の内に現れたナイフを繁々しげしげと眺めながら、興奮を隠せない工藤。
 
「何だあのナイフは……何処から出した……それに、木が腐ってる」

 西風舘はそんな工藤の様子を、構えを解かずに注意深く観察する。
 飛び込んで一撃を入れ、形勢を優位に持ち込もうとしていたが、あのナイフの出現でその難易度がガラリと変わる。
 徒手対徒手であれば西風舘も工藤に負ける気はなかったが、対武器を想定した場合、無傷で工藤を制圧するのは難しいだろう。
 特に、あの毒の様な効果は人体にどの様な影響があるか分からない。恐らく工藤自身も分かっていないだろうから、確認のしようもないが。

「あれぇ?先輩こねぇの?じゃあ俺からやってもいいよなっ!!」

 ナイフを右手で逆手に持ったまま、西風舘に向かって走り出す工藤。
 その1歩は、一般人のものとは比べ物にならない程の加速で距離を詰めてくる。

「!!」

 試合での実戦経験はあるものの、ルール無用のは経験した事がない西風舘は咄嗟の事で身体が強張る。
 右手を振り上げ、大降りに西風舘目掛けてナイフを振り下ろす工藤。

「死ねぇぇぇぇぇぇぇ!!!!!!!!!!」
「っく!!」

 身体を無理矢理左に捌き、左手で振り下ろされる工藤の右手を捌く。
 すんでの所でナイフを躱し、頭で考えるより先に右手の拳が工藤の右脇腹に突き刺さる。
 何百何千と繰り返してきた基本動作。
 条件反射となって西風舘の身体に刷り込まれた一撃。
 常人であれば、肋骨の骨折ば免れない程の威力で打ち込まれた正拳突き。

 ――ドゴッ!!――

 凡そ肉体を殴った音ではない。
 もっと硬質な何かを思いっきり殴った様な音。
 直後に拳から脳へと突き抜ける痛みの信号。
 西風舘の顔が苦痛に歪む。
 異変を感じ、西風舘は後方へと大きく下がる。
 寸前まで西風舘がいた場所を工藤の握ったナイフが横薙ぎに空を切る。
 
「イヒッ!」

 工藤はニヤニヤと嗤いながら、だらりと両手を下げ、わざと隙だらけの状態を見せる。
 
「全っ然!痛くねー!先輩の拳、大丈夫ぅ?ウヒッ!」

 工藤は西風舘を挑発しながら自身の身体が何ともないことを確かめる。
 
(何なんだあの身体は……骨の堅さじゃない……まるでタイヤを巻いた丸太を殴ったみたいな感触だ……)

 ビキビキと痛む右手を軽く握っては開いて痺れを解いていく。
 
「ナイフを捨てろ!今はこんな事をしている場合ではないだろ!」

 手の痺れを取る為、西風舘は工藤に話しかけ時間を稼ぐことにする。
 
「ウヒッ!ウヒヒヒ!時間稼ぎするなんて情けないなぁ、先輩。早くやろぉぜぇ、俺は人を殺したくて、うずうずしてんだ!あぁ……早くメチャクチャにしてぇ……」

 恍惚の表情を浮かべ、ナイフを左手の指でなぞる工藤。

「何とでも言ってくれて結構、ただ殴りかかるだけじゃ強くは慣れないんでね」
(とは言ったものの、有効打を与えてナイフを取り上げないと……一撃も貰えない、”準の当て”で凌いでチャンスを伺う、それに……)
 
 後方から人が走ってくる音が聞こえる。恐らくは彼女だろうと当たりをつける。助力を期待する、それも後輩の女子に期待するという行為に西風舘も普段なら忌避する気持ちもあっただろうが、現状を鑑みるとそんなことは言ってられない。

「西風舘先輩!」

 追いついた真理が西風舘に声を掛ける。

 「仁代さん、あのナイフには絶対に当たらないで下さい。

「フヒッ!仁代!来てくれたんだ!一緒に先輩を殺そうぜぇ、そんでグチャグチャにするんだぁ……イヒイヒヒヒヒヒヒヒヒヒ!」
「誰がそんな事するか!大人しくナイフを放しなさい!」

 工藤は真理を見て喜びを爆発させる。そして一緒に西風舘を殺そうと提案してくる。
 到底受け入れられない言葉に真理は拒否するが、工藤はそんな事はどこ吹く風とばかりにニヤニヤと笑みを浮かべる。

「イヒッ!仁代ぃ怒るなよぉ、あぁ……そうか、仁代なんて呼んでるから怒ってるのかぁ、何だよ早く言ってくれれば良いのに、真理ぃ早くこっちに来いよぉ、フヒッ!」
「――誰があんたの所になんかっ!」
「照れるなよぉ、可愛いなぁ、イヒャ!」

 ネットリと絡みつく視線に真理の肌がゾワゾワと粟立つ。それでも仕掛けてこない工藤を見て、真理はスッと西風舘の隣に寄り小声で話しかける。

「……先輩、私が仕掛けて隙を作ります。追撃して貰えますか」
「流石にそれは無謀だろ、あのナイフに傷を付けられれば、どうなるか分からないぞ」
「多分、あいつは私に傷を付けようとしないと……言い切れないけど、少なくとも躊躇うはずです」
「それくいなら、在り得るか……いや、でも流石に危険すぎる、やはり俺が囮になろう」
 
 真理の提案に納得しかけるが、やはり、危険を冒せないと自分を囮とすることを提案する西風舘。
 
「躱すだけなら私の方が素早く動けます、でも……私じゃあいつを止める力が足りません」

 現実問題として、体格で劣る真理に西風舘の一撃を受けても全く揺るがなかった工藤を制圧するだけの力が足りない。
 攻撃を躱す事だけに集中して動けば、真理は自分の方が素早く動けると考えていた。
 西風舘は思考を巡らせ、現状の最適解を求めようとしていた。

◇◇◇

 ほんの少し前、走り出した真理とそれを止めようとする伊緒と真理の声に、それまで黙っていた2年の東風谷こちや声を上げる。
 
「先生!みんなを止めて下さい!このままじゃ……みんなが……みんなが……」
「えっ……いや……私には……そんな事は……」
「先生!!」
「う゛っ……わ、わかりました……」

 東風谷が今にも泣きそうな表情で安倍に訴る。安倍は職務と自己防衛の心に揺り動かされながらも、東風谷の言葉で安倍の重い足は、欅の木の下で争う3人の方へと向かい始めた。
 
「きっ、君達!やめっ、やめなさい!」

 フウフウと肩で息をしながら、丸い体を弾ませる様に走ってくる安部が3人に対して静止を求める。
 
「何だよぉ先生ぇ……今いい所なんだけど?あっ!もしかして先生もやりたいの!?イヒッ!いいね!一緒にやろうぜ!!」
「ひぃぃ!!やっ、やめなさい!そんな気持ち悪もの早く捨てて!こっちに来るんだ!」

 紅黒い班模様の浮かんだナイフをひらひらと揺らしながら、工藤が安部を誘う。
 しかし、その姿を見て”気持ち悪もの”と嫌悪感を示す安部。
 それは常人ならば普通の反応なのだろう。怪しい翠色の光を放つ霊樹と、黒く変色し腐れ落ちていく欅の木を背に、薄ら笑い、恍惚とした目で禍々しいナイフを眺める人間を見て、不気味に思わない人間がどれほどいようか。
 
 スっと工藤の目に確かな意思が宿る。
 両手はだらりと垂れ下がり、顔は俯きながら目は安部を捉える。
 
 ?」
「ひぃぃ!いっ、いいからっ、そのナイフを捨てるんだ!」

 怒気を孕んだ工藤の言葉に阿部が後退りながらなを職務を全うしようとする。
 ジャリッ、ジャリッと安倍に向かって歩き出す工藤。

「おい!何をする気だ!やめろ!お前の相手は俺だろ!」

 西風舘が工藤に向かって叫ぶが、最早工藤の耳には届いていないようだ。

「なっ、何をする気だ!よしなさい!落ち着いて止まりなさい!」
「なぁ、先生よぉ。前の世界はつまんなかっただろ?この世界はさぁ、最高だよなぁ?そうだよな!」

 後退りする安倍をゆっくりと追いかける工藤。それを止めようとして飛び出そうとする真理と西風舘。

 ――ドクンッ――

 腹の底を打つ様な振動。いやと言った方がいい音。
 思わず全員の動きが止まり、音の響いた方へと顔を向ける。だがそこにあるのは霊樹と化した作業員達と幹にうろが開き、今にも伐採される寸前だった欅の木。
 工藤のナイフで幹を刺され、傷口は紅黒く変色しボロボロと崩れている。
 鼓動はその欅の木から発せられていた。

 ――ドクンッ――

 更なる鼓動、それとともに欅の木の枝葉がギシギシと音をたてうねり始める。
 更に幹は捻れ、樹皮がポロポロとこぼれ落ちる。

 ――キエエエエェェェェェェェェェェ――

 甲高い悲鳴の様な音が鳴り響く。
 そして欅の木の枝葉に紅と翠色の光が纏わりつき、鳴り響く音に共鳴し、枝葉を鳴動させていく。

 新たな力が芽吹く。
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