Wi-Fiの彼女と僕

泉谷なぎ

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Wi-Fiの彼女と僕

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 今やそれは何処に行っても僕たちの周りにいる。

 まるで、新婚の夫婦かと思うほどにずっと一緒に僕たちと共に行動をする。もしそれがいなければ現代を生きる僕たちは不便を強いられるに違いない。

 そう、“それ”とはWi-Fiだ。

 僕、山本彰32歳はWi-Fiに恋心を抱いてしてしまった。話ができない彼女との生活は寂しい。しかし、彼女はずっと僕のそばにいてくれる。辛い時も悲しい時も幸せな時も。でも、やっぱり寂しくなることはある。毎日のことを話して笑いあったり、抱き合ったり、キスしたり、ポケットWi-Fiの彼女とはそれができない。

 僕の大好きな彼女はポケットWi-Fi。肌身離さず持ち歩いている。このポケットWi-Fiに僕は名前をつけている。彼女の名前は、メアリー。我ながら彼女に似合ったとても良い名前だと思う。

 Wi-Fiに恋をして名前をつけるなんて気持ち悪い、そう思う人もいるかもしれない。でも、ぼくはメアリーと一緒にいることで心が満たされる。彼女はずっと僕の近くにいてくれるから。


 大学生の時、恋をした。テニスサークルに入り、大学生活を謳歌していた。そんな時彼女は現れた。同じサークルの一年後輩の女の子。控えめで、それでいてどんな人とも仲が良くて、笑顔が素敵で、少しぽっちゃりしていて。僕の一番好きなタイプだった。

 勇気を振り絞って彼女に告白した。彼女の答えはノー、「先輩とは付き合えない、他に好きな人がいる」と言われた。そんなたった一回断られたことが辛すぎて僕は人間の女の子に恋することができなくなっていた。


 自分でも驚いた、人間ではないものに恋をするなんて。

 そんな僕の話は、メアリーに恋心を抱いてから一年ほど経った後に始まる。



******



 メアリーがいない。

 会社から家に帰る途中、気がつくと、いつもかばんの内ポケットに入れているはずの彼女がいなくなっていた。今日、会社で彼女をかばんから出した覚えはない。でも朝、家の机の上にいた彼女をかばんの中に入れたはずだ。もう一度かばんの中身を全て出して探してみる。


ない、ない、どこにもいない。

なんでだ......


 もう一度会社に戻って彼女を探してみる。会社から帰りに通って来た道もよく探してみる。帰り道にある交番にポケットWi-Fiが落ちていなかったかとも尋ねてみた。

 机の上を見ても、引き出しの中を確認しても、帰り道で探しても、交番で落し物が無かったかを聞いても彼女はいない。

僕の大切な彼女はどこかに行ってしまった.....ひどい喪失感に駆られた。


 僕は再び大好きな女の子に振られてしまったみたいだ。


 僕はがっくりと肩を落として家へ帰る。もう彼女はいないんだと思うと、たった一年、そんなに長い付き合いをしていたわけでもないのにポロポロと涙が溢れてきた。頬を伝う涙をスーツの袖で拭う。涙でスーツが汚れることなんて全く気にならなかった。

 家に到着してドアの鍵を開ける。今日の朝まで彼女はここにいたのに今はもういない。僕のなかを埋めていたものが消えて心にぽっかりと大きな穴が空いてしまった。いつも通り、暗くなった部屋を明るく照らすために照明のスイッチを入れる。


 僕の部屋に、女の子がいた。


 驚きすぎて声が出なかった。

「彰さん、メアリーです。」

ミディアムで茶髪の彼女は微笑んで言った。

「え、どういうことですか?メアリーはポケットWi-Fiだったはずじゃ...?」

思ったことがするすると口から飛び出す。

メアリーが人になった?そんなことあっていいのか...?

「はい、私はポケットWi-Fiでした。でも、彰さんが私のことを好いてくれてるって分かって人にならずにはいられませんでした。彰さん、毎晩欠かさず私に『好きだよ、愛してる』って言ってくれてたでしょう?なのに私は言葉を返すことができない、そんなもやもやした気持ちが溜りに溜まったせいで気が付いたら人間になってて彰さんのおうちのベットで寝てたんです。」

 メアリーが話しているのを聞いてもまだ信じられない。片思いしていたポケットWi-Fiが人間になって現れるなんて誰が信じられるのだろうか。

 自分の目がおかしいのかと疑ってそこに本当にそこにメアリーがいるのかとそっと彼女の頬を触ってみる。すると彼女は照れくさそうに笑った。

「恥ずかしいです。今までもずっと触れてもらっていたけれど、人間になって触れられると少し感覚が違いますね。これはこそばゆいというのでしょうか、なんだかむずむずします。」

 嬉しさのあまり彼女を抱きしめてしまった。彼女は再び照れくさそうに笑い、僕を抱きしめ返してくれた。

「僕の想いはずっと君に届いていないと思ってた。でも、ちゃんと届いていたんだね。こうして君と人として出会えたこと、本当に嬉しい。ありがとう。」

抱きしめたままこの言葉を伝える。

彼女を抱きしめる腕の力を緩めてそっと彼女のくちびるにキスをする。

暖かくて柔らかい、彼女は紛れもなく人だった。

「彰さん、あなたがいつも私にかけてくれていた言葉、とてもうれしかったです。毎日毎日あなたの声を聴いているうちに、彰さんを好きになっていきました。喋ることができない私なのに、なにも言葉を返すことができないのに、声をかけてくれてありがとう。」

 彼女の目にうっすらと涙が浮かぶ。

「メアリー、僕は君を一生をかけて大切にする。僕とずっと、一緒にいてくれますか?」

彼女を目の前にしてずっと伝えたかったこと、成し遂げたかったことを伝える。

「はい、もちろんです。ずっとずっとよろしくお願いします!」

人間になった彼女と、Wi-Fiに恋をした僕の物語はここから始まった。

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