上 下
1 / 1

鍵を失くして三十里

しおりを挟む
 途方に暮れていた。僕は家の鍵を失くしてしまった。明日は仕事だというのに、もう寝ないといけないのに。スペアもない。ライトを点けて夜道を探し回るためのiPhoneの電源は、もう残り僅か。充電器を借りるお金すらない。どうすればいいんだ。途方に暮れる以外に何ができるというのだ。

「あの、すいません、どうかしました?」
「え? 僕ですか?」
「いや、なんというかその……物憂げにというか……」

 物憂げに見えた? 何故?

「放っておいたら明日この辺に変死体が転がってそうで怖くて。よかったら事情聞かせてもらえません?」

 僕は正直に話した。彼女は、食べきれなくて持ち帰ったというカレーを食べに来て、充電していけばいいというようなことを言う。

 どうせマルチか宗教だろう。騙されたふりをして、ついていけばいい。充電くらいさせてもらってもバチなんか当たりはしない。そもそもこの世に神も仏も存在しない。存在するとしたらせいぜいピンクの見えざるユニコーンくらいだ。何ならやり逃げすればいい。

 そう考えて、彼女には名前も名乗らずついていく。

「古いアパートなんで、静かにしてくださいね。それさえ守ってもらえれば、別に私もバカじゃないんでコンドームくらいはありますから」

 何を言い出すのだこのひとは。この世に神は存在しなかったが、女神は存在した。

「ギガホとかじゃなければWi-Fiもお貸ししますし」

 そう言って、女神様はPCにイヤフォンを繋いで、どう見てもエロゲとしか思えないゲームを始めた。僕のことには特に構ってこなかった。


 ***

「充電満タンになってますよ」という声で起こされた僕は、冷めきったナンとカレーを半ば無理矢理押し付けられ、「また来ます」と言い残して、家の鍵を探しに出た。

 女神様に声をかけてもらった場所に戻り、今日の行動をもう一度考えようと思った。

 ……僕が失くしたと思っていた鍵は、ひとまず腹ごしらえだと思って食べようとしたカレーの袋の中に、「上着のフードの中にありましたよ」という走り書きと、discordタグと書かれた、よくわからない文字列が並んでいる紙とともに存在した。

 どうやら、女神どころか神も仏も存在しそうな街だな――引っ越してきたばかりで不安だった僕は、二度と訪れることのできない聖地を避けて生活しようと思った。
しおりを挟む

この作品の感想を投稿する


処理中です...