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第536話 それは彼女の兄にできそうなこと
第536話 それは彼女の兄にできそうなこと
「ゴホッ、ゴホゴホ……」
激しい咳が続き、
合間に姜澄の喉から、時折「オエッ」という音が漏れる。
姜溯は珍しく気まずそうな表情を浮かべ、
兄を見ながら、そっと背中をさすった。
……
この予想外の一件で、
姜溯はすっかり家の紹介どころではなくなってしまった。
しかも、
この家に“小妖”が住み着いていたと知ってからというもの、
彼らは皆、
いっそ全面的に改装したくなる衝動に駆られている。
一方で、
姜栩栩は意外にも気にしておらず、
むしろ、ここに住むことを決めた。
――あの小妖が、どこから来たのか。
それを確かめたかったのだ。
姜溯たちも、同じく気になっている。
「さっきのって、何の妖怪なんだ?
見た目、かなり変だったけど」
モモンガのようで、
それよりも大きく、
耳も大きければ、
尻尾は体より長そうだった。
姜栩栩は、
符紙で包んだ数本の毛に目を落とし、言った。
「たぶん……耳鼠」
耳鼠。
『山海経』に記されている異獣の一種だ。
現世で出くわすとは思っていなかったが、
耳鼠のような“生まれながらの妖獣”は、
後天的に知恵を得た鼠妖とは本質的に異なる。
生まれつき妖力を備え、
普通の動物よりも人前に姿を現すことは少ない。
ましてや――
人の住処に入り込み、居座るなど。
だが、
姜溯が用意した“ジャングル風の部屋”を思い出し、
彼女は、
なぜここを選んだのか、だいたい察した。
問題は――
あの小妖が、戻ってくるかどうか。
姜栩栩の直感では、
戻ってくる。
姜溯たちは「耳鼠」という名は知らなかったが、
妖怪だということだけ分かれば十分だった。
姜栩栩が本気で住むつもりだと知り、
彼らは不安そうな表情を浮かべる。
特に、
あの小妖が再び現れる可能性があると聞いて、
姜湛は思わずスマホに打ち込んだ。
【一人で大丈夫?】
「大丈夫」
仮に問題が起きても、
大きな問題にはならない。
彼女がそう言い切る以上、
止めようがなく、
結局は彼女の判断に任せることになった。
実際、
先ほども彼らがいなければ、
すでに小妖を捕まえていただろう。
姜溯は、
“妖に使われたかもしれないコップ”を思い出し、
思わず口にした。
「姐、ここにある物、しばらく使わないほうがいいよ。
執事に新品を持ってこさせる」
姜栩栩も、
小妖が転げ回ったかもしれないシーツで眠る気はなく、
素直に頷いた。
ほどなくして、
執事が家政チームを率いて到着した。
清掃、消毒、交換。
使う物と処分する物を分け、
新しい家具や生活用品が次々と運び込まれる。
二時間ほどで、
「新居」はすっかり見違えるようになった。
交換された物は、
すべて執事が引き取って処理する。
……
姜家・裏方の作業室。
家政スタッフの一人が、
執事とともに持ち帰った物を整理していた。
未開封の物は残し、
使用された可能性のある物は廃棄対象だ。
「このコップ、セットで見ると結構高そうですけど、
捨てちゃうんですか?」
若いスタッフが感心したように言う。
続けて、
包装の美しいチョコレートの箱を手に取った。
「これ、姜溯様が言ってた海外オーダーのチョコですよね?
これも処分ですか?」
執事は箱を一瞥し、答えた。
「それは問題ありません。
ただ、栩栩小姐はチョコレートを好まれませんし、
家に置いておくと小狐が誤って口にする恐れがあるので、
一緒に持ち帰っただけです。
少爷たちはおそらく食べませんから、
皆さんで分けても構いません」
その言葉に、
スタッフはぱっと顔を明るくした。
姜家で働くと、
こういう“役得”がある。
家の子どもに、
高級チョコレートを味見させてやれる――
そう思いながら、
箱を脇の小さなテーブルに置いた。
皆がそれぞれ作業に追われている中、
しばらくして、姜滢が入ってきた。
視線が小部屋を巡り、
テーブルのチョコレートに止まった瞬間、
目が輝く。
箱を抱え、
そのまま階段を駆け上がっていった。
家におやつがないわけではないが、
彼女には厳しく制限がある。
――これは、部屋に隠して少しずつ食べよう。
だが、
廊下の途中で、父に捕まった。
姜禹民は、
隠しおやつを見つけると眉をひそめる。
「お前は良家の娘だろう。
おやつを隠すなんて、みっともない。
母親がいないからって、誰も見てないと思うな」
そう言って、
反対する姜滢からチョコレートを取り上げ、
そのまま音楽室へ向かった。
音楽をかけ、
何気なく箱を開ける。
中の包装が、
すでに開かれているように見えたが、
特に気にせず、一粒つまんで口に入れた。
――次の瞬間。
「……なんだ、この味?」
眉をひそめつつも、
そのまま飲み込んでしまう。
……
姜家で起きたこの一幕を、
姜栩栩はまだ知らない。
事情を聞きつけた姜淮も、
わざわざ様子を見に来たが、
彼女が“小妖を待つ”つもりだと知ると、
それ以上は何も言わなかった。
安全に気をつけるよう言い残し、
そのまま帰っていく。
そして、
姜淮が去って間もなく。
新居のインターホンが、
再び鳴った。
また家族だろうと考え、
姜栩栩がドアを開けると――
眩い金光が、
一気に視界に飛び込んできた。
「……你怎么也来了?」
思わずそう口にし、
彼女は目の前の褚北鹤を見る。
まさか、
彼女の新居で小妖に遭遇した話を聞きつけたのか。
「姜淮から聞いた。
今日、ここで小妖に遭ったそうだ」
姜栩栩:……
――本当に、兄らしい。
内心ため息をつきつつも、
先ほど姜淮に言ったのと同じ言葉で、
彼をなだめる。
「珍しい妖ではあるけど、
妖力は強くない。
一人で対処できるよ」
「それは分かっている」
褚北鹤は頷き、
疑う様子もなく、こう続けた。
「ただ、念のため伝えに来ただけだ。
この数日、俺はこの建物の上階に住む。
何かあったら、すぐ来い」
あまりにも平然とした口調に、
姜栩栩は思わず目を見開いた。
「……上に住む?」
今朝は、
そんな話は一切なかった。
ということは――
後から決めた。
それも、
ついさっき。
ある可能性が頭をよぎり、
彼女はこめかみを押さえ、少し呆れた声で言う。
「姜淮に言われたんでしょ」
彼女には、それしか思い当たらない。
姜淮の目には、
褚北鹤は“婚約者”。
妹がここでトラブルに巻き込まれるかもしれないと知って、
無理やり付き添わせた――
いかにも、やりそうなことだ。
これまでも何度か、
褚北鹤は“姜淮に頼まれた”という体で、
彼女の様子を見に来ている。
少し気まずくなり、
彼女は言いかけた。
「別に、あなたまで来なくても……
私一人で――」
「彼に言われたわけじゃない」
最後まで言わせず、
褚北鹤が静かに遮る。
黒い瞳が、
深く、真っ直ぐに彼女を捉える。
そこには、
わずかな無奈と、
確かな意思があった。
「俺が、自分で決めた」
――彼女のために。
その言葉は、
そう告げているようだった。
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