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心の引き出し
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ラナンキュラスほど恋の情念を秘めた花は他に無い。
ケシのような薄い花びらがふさふさと重なり合って大輪をつくり、それを支える茎は可愛そうなほどに細い。
特に真紅の花は燃え上がる恋の炎にも劣らぬ激しさを感じ、もしも人間の女に変身出来たなら、恋の為に発狂することも、死ぬことも厭わぬような覚悟を感じる。
4月7日、60歳の誕生日の今日、浮田美穂子は花屋の前でこの花が目に止まった。
美穂子はこの花のオーラを、若かりし時全身で人を好きになった自分の情熱と同じに思い、とりわけ愛していた。
鉢植えではあるが丹精込めて育て、毎年家のベランダでその花を咲かせている。
しかし、ベランダの鉢植えの開花は遅く、美穂子は毎年花屋でラナンキュラスの花を買い求めていた。
今年もいつもの年と同じように真紅の花を3本買った。
帰宅した美穂子の元に奇しくも1通の手紙が届いた。
差出人は女性の名前になっているが、その名字と住所は美穂子の胸にドキリとさせるものがあった。
手紙は無造作にテーブルの上に置いたが、その存在感は大きく、何をしていても美穂子の目線から離れない。
美穂子は、買った花3本を前もって生けていたチューリップの花瓶に差し込むと、テーブルの前に座り直して封を解いた。
綺麗な便箋に細い女文字で書かれた手紙は、突然の非礼を詫びる文から始まり、挨拶文などが続いていた。読み進める中美穂子は、手紙の中に昔愛した人の名前を目にし、忘れていた胸の高鳴りを感じた。
「...入院していた高橋伸二の容態が...」
美穂子は手紙から目を離すと窓の外を眺めた。
窓の向こうには大和盆地が広がる。
見慣れた風景だが今の美穂子の目には違って見えた。
「今更...今頃になって何故...」
美穂子の心は揺れていた。
心の奥に堅く閉まっていたはずの、美穂子の若かりし頃の苦い思い出の引き出しが、ゆっくりと引き出された。
いつの時にも気にかけていた男性の今を知らずには居られず、手紙の続きに目が移っていた。
丁度60歳になる美穂子だったが、気持ちは40年近く若返っていた。
おそらく彼の奥さんの手によって書かれたに違いないと思いながらも、その手紙を美穂子は読まずにはいられなかった。
長々と挨拶文で書き始められた手紙の次の文章は、
「伸二が一時危篤状態に入りました。持ち直しましたがそれ以来、遠くを見るような眼差しが絶えません。
寂しそうにはるか彼方を見ている姿を傍で見ていることは出来ず、尋ねて見るのですがなにも申しません。
ただ、自分の残すところの命に限りがあると知り、生きているうちにし残したことがあることに気づいたのではないかと、、、出来れば一度会ってやってもらえないでしょうか?一度だけで良いのです。」
想像していた通りの文面であった。そして最後に、
「私は伸二の亡くなった兄の妻です」
と書き添えてあった。
「奥さんじゃなかった」
そう知ったとたん、なぜだか少しほっとした気がした。
しかし美穂子も大阪で自分の人生を過ごしてきた。
見合い結婚をし、子供も産み育て今は孫も2人いる。
「もう終わったこと、何もかも昔のこと。今更会った所でー」
そう思いながらも、
「死を直前にしたあの人に会わないままでよいのだろうか、私は後々後悔しないだろうか、伸二の義理の姉も会わせたいと願って寄こしたこの手紙、それを無視してもよいのだろうか」
もう一度会いたいと願う、はるか昔に閉まってしまった心の奥底にある美穂子の気持ち。
会うことは出来ないと思う今の自分。
どちらも美穂子自身に変わりは無い。
「今更会ったところで、私自身が彼に対しての愛情は無いのだから会ってみるのも構わない」
と思う自分、
「今でも私はあの時と変わらず彼を愛している」
そう思う自分。
何度も自分自身への葛藤が続いた。
美穂子は世間的にいう常識とモラルの狭間で、会うべきか会わざるべきかと心が揺れ動いていた。
悩んでいるうちに、目の前にあるラナンキュラスの花以外全てのものが次々と現実性を失い、心は40年前へと滑り落ちていった。
秋月美穂子、21歳。
神戸市内にある歯科衛生士学校を卒業して、歯科衛生士として勤め始めた。
美穂子は、小学校、中学校、高校と地元で徒歩通学だったこともあり電車通学に憧れていた。
歯科衛生士の学校を卒業後は、電車で大阪の歯科医院に勤務することが希望だったが、父陽介が、
「近くに勤め先があるのに、わざわざ遠くまで通うことはない」
と反対し譲らなかった為、念願の電車通勤は叶わなかった。
しかし家の近くの歯科医院に勤める交換条件として車を買ってもらった。
春から新しく開業した、自宅から車で10分ほどのところにある歯科医院には、車で通勤している。
美穂子の父は植木職人で、何人かの職人を使っていた。
根っからの職人気質で、とにかく酒を飲むことが多かった。
単に酒好きなのだと美穂子は思っていたが、仕事始めに酒を飲み、仕事終いに又
飲む。庭仕事の注文が入ったと言っては飲み、仕事の途中でまた飲む。
そんなだから、毎日家は宴会である。
客は仕事仲間だけでなく、ちょっと用事で来た人も、回覧板を持ってきた隣のおじさんも、一杯、二杯と付き合わされ、そうしていくうちに、本腰を据えて飲む客となるのであった。
美穂子の母康子も、父陽介とは当時にしては珍しい恋愛結婚「出来ちゃった婚」で結ばれた気性の激しい女性であった。
旦那の大盤振る舞いも大して意に介せず、むしろ頼もしくさえ思っていた。
美穂子はその両親が結ばれるきっかけになった子で、もちろん長女である。
下には少し歳の離れた弟が1人いた。
この春垂水南陽高校二年生になった良(りょう)である。
今年度、良の学校の担任が、高橋伸二という若い化学の先生に替わった。
美穂子より5歳年上の26歳。
独身であることなどを良が話していた。
ケシのような薄い花びらがふさふさと重なり合って大輪をつくり、それを支える茎は可愛そうなほどに細い。
特に真紅の花は燃え上がる恋の炎にも劣らぬ激しさを感じ、もしも人間の女に変身出来たなら、恋の為に発狂することも、死ぬことも厭わぬような覚悟を感じる。
4月7日、60歳の誕生日の今日、浮田美穂子は花屋の前でこの花が目に止まった。
美穂子はこの花のオーラを、若かりし時全身で人を好きになった自分の情熱と同じに思い、とりわけ愛していた。
鉢植えではあるが丹精込めて育て、毎年家のベランダでその花を咲かせている。
しかし、ベランダの鉢植えの開花は遅く、美穂子は毎年花屋でラナンキュラスの花を買い求めていた。
今年もいつもの年と同じように真紅の花を3本買った。
帰宅した美穂子の元に奇しくも1通の手紙が届いた。
差出人は女性の名前になっているが、その名字と住所は美穂子の胸にドキリとさせるものがあった。
手紙は無造作にテーブルの上に置いたが、その存在感は大きく、何をしていても美穂子の目線から離れない。
美穂子は、買った花3本を前もって生けていたチューリップの花瓶に差し込むと、テーブルの前に座り直して封を解いた。
綺麗な便箋に細い女文字で書かれた手紙は、突然の非礼を詫びる文から始まり、挨拶文などが続いていた。読み進める中美穂子は、手紙の中に昔愛した人の名前を目にし、忘れていた胸の高鳴りを感じた。
「...入院していた高橋伸二の容態が...」
美穂子は手紙から目を離すと窓の外を眺めた。
窓の向こうには大和盆地が広がる。
見慣れた風景だが今の美穂子の目には違って見えた。
「今更...今頃になって何故...」
美穂子の心は揺れていた。
心の奥に堅く閉まっていたはずの、美穂子の若かりし頃の苦い思い出の引き出しが、ゆっくりと引き出された。
いつの時にも気にかけていた男性の今を知らずには居られず、手紙の続きに目が移っていた。
丁度60歳になる美穂子だったが、気持ちは40年近く若返っていた。
おそらく彼の奥さんの手によって書かれたに違いないと思いながらも、その手紙を美穂子は読まずにはいられなかった。
長々と挨拶文で書き始められた手紙の次の文章は、
「伸二が一時危篤状態に入りました。持ち直しましたがそれ以来、遠くを見るような眼差しが絶えません。
寂しそうにはるか彼方を見ている姿を傍で見ていることは出来ず、尋ねて見るのですがなにも申しません。
ただ、自分の残すところの命に限りがあると知り、生きているうちにし残したことがあることに気づいたのではないかと、、、出来れば一度会ってやってもらえないでしょうか?一度だけで良いのです。」
想像していた通りの文面であった。そして最後に、
「私は伸二の亡くなった兄の妻です」
と書き添えてあった。
「奥さんじゃなかった」
そう知ったとたん、なぜだか少しほっとした気がした。
しかし美穂子も大阪で自分の人生を過ごしてきた。
見合い結婚をし、子供も産み育て今は孫も2人いる。
「もう終わったこと、何もかも昔のこと。今更会った所でー」
そう思いながらも、
「死を直前にしたあの人に会わないままでよいのだろうか、私は後々後悔しないだろうか、伸二の義理の姉も会わせたいと願って寄こしたこの手紙、それを無視してもよいのだろうか」
もう一度会いたいと願う、はるか昔に閉まってしまった心の奥底にある美穂子の気持ち。
会うことは出来ないと思う今の自分。
どちらも美穂子自身に変わりは無い。
「今更会ったところで、私自身が彼に対しての愛情は無いのだから会ってみるのも構わない」
と思う自分、
「今でも私はあの時と変わらず彼を愛している」
そう思う自分。
何度も自分自身への葛藤が続いた。
美穂子は世間的にいう常識とモラルの狭間で、会うべきか会わざるべきかと心が揺れ動いていた。
悩んでいるうちに、目の前にあるラナンキュラスの花以外全てのものが次々と現実性を失い、心は40年前へと滑り落ちていった。
秋月美穂子、21歳。
神戸市内にある歯科衛生士学校を卒業して、歯科衛生士として勤め始めた。
美穂子は、小学校、中学校、高校と地元で徒歩通学だったこともあり電車通学に憧れていた。
歯科衛生士の学校を卒業後は、電車で大阪の歯科医院に勤務することが希望だったが、父陽介が、
「近くに勤め先があるのに、わざわざ遠くまで通うことはない」
と反対し譲らなかった為、念願の電車通勤は叶わなかった。
しかし家の近くの歯科医院に勤める交換条件として車を買ってもらった。
春から新しく開業した、自宅から車で10分ほどのところにある歯科医院には、車で通勤している。
美穂子の父は植木職人で、何人かの職人を使っていた。
根っからの職人気質で、とにかく酒を飲むことが多かった。
単に酒好きなのだと美穂子は思っていたが、仕事始めに酒を飲み、仕事終いに又
飲む。庭仕事の注文が入ったと言っては飲み、仕事の途中でまた飲む。
そんなだから、毎日家は宴会である。
客は仕事仲間だけでなく、ちょっと用事で来た人も、回覧板を持ってきた隣のおじさんも、一杯、二杯と付き合わされ、そうしていくうちに、本腰を据えて飲む客となるのであった。
美穂子の母康子も、父陽介とは当時にしては珍しい恋愛結婚「出来ちゃった婚」で結ばれた気性の激しい女性であった。
旦那の大盤振る舞いも大して意に介せず、むしろ頼もしくさえ思っていた。
美穂子はその両親が結ばれるきっかけになった子で、もちろん長女である。
下には少し歳の離れた弟が1人いた。
この春垂水南陽高校二年生になった良(りょう)である。
今年度、良の学校の担任が、高橋伸二という若い化学の先生に替わった。
美穂子より5歳年上の26歳。
独身であることなどを良が話していた。
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