三ノ壺橋

キラ

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 恋人を失った美穂子のショックは大きかった。
 皆に心配をかけないように人前では明るく振る舞ってはいたが、正直、神戸に戻った彼女は、伸二への想いから抜け出し、気持ちを整理するのに大変だった。

 時が解決すると言うけれど、自分の心から伸二を思う気持ちが冷めていくのを感じるのだが、何かの時には伸二を思い出す。

 思えば21歳の時伸二に恋をして、今まで、伸二以外他の男性を、男として見たことが無かった。
 一途に愛していたのだった。
 まだ愛しさはあった。
 
 夜、一人になると自然と涙が出た。
 どうしようもない事は自分が一番よくわかっているのに、涙は止まらない。
 しかし、いくら想っても仕方のない相手だと自分に言い聞かせなくてはならない。
 葛藤は続いていた。

 3ヶ月ほどして、以前世話好きのおばさんから来ていた見合い話を一つしてみることにした。
 思えば美穂子も26歳。
 いつまでも一人でいるわけにいかない。
 父はずっと家にいても良いと。酒が入る度に話すが、そういうわけにもいかない事はよくわかっている。
 美穂子がその気を示せば、見合いの話は多い。
 次から次へ保険の外交員のおばさんは写真をもつてきた。
 消防士、公務員、自営業ー。どれもパッとしなかったがとりあえず一回は会ってみることにした。
 伸二への想いを完全に断ち切りたかった。
 誰を紹介されても結婚する気にはならなかったが、美穂子の心の傷は少し癒された。
 だから、断る場合は、先方に誤解の希望を与えぬよう、会ったその日のうちに、断りの旨を紹介者に伝えた。
 毎回心の奥では伸二と比べていた。
 いつの間にか、見合いは5勝0敗になっていた。

 9月14日のことである。
 美穂子の母の友人、浮田春子が突然訪ねてきた。
 自分の息子が34歳になるのだけれども、やっと結婚する気になったらしい。
 誰か知り合いを紹介してもらえないかしらー。
 という。
 つまり美穂子の友人にそれらしい娘がいないものか当てにして来たらしい。
 じきに9月の連休だし、何かとチャンスも多い。
 美穂子は親しい友人の1人である千恵美を紹介した。
 彼女は現在全く彼氏がいないという訳では無かったが、
「ま、練習程度の気持ちでどう、私もついて行ってあげるから」
 ーそう電話で言うと千恵美も、良い意味で今の彼に行動の心を起こさせるかもしれないという希望を抱いて納得した。
 見合いの相手は、浮田博。
 大阪の会計事務所に勤める税理士である。
 
 働きながら独学で税理士の資格を取ろうと努力したため婚期が遅れたのだと彼の母は話していた。
 美穂子は千恵美に、
「8つほど歳は開いているけれど、本能的に嫌いという感じじゃなかったら、良い話かもしれないね。少し付き合ってみるのもいいわよ。」

 連休の土曜日、千恵美を連れて待ち合わせの寿司屋に向かった。
 博は1人で来ていて、本を読んでいた。
 美穂子は一目で、あっ、見合いの相手はこの人だとわかったが、美穂子が声をかける前に博の方が気づき、気を利かせて、
「あのう、秋月さん、、、?」
と話しかけて来た。


 今まで何度か見合いの経験がある美穂子は、第一印象を重視していた。
 美穂子が見る限り、浮田に悪い印象はなかった。
 博は、2人の女性を退屈させぬよう気遣いし、さりげない話題を両方にふり、話を途切れさせないよう上手に喋っていたのだが、それでも時折シン、、、となる時がある。
 千恵美はいつになく大人しく、借りてきた猫のようにすまして座っていたので、その時は美穂子が差し障りのない話を切り出した。
 「浮田さん趣味とかあります?」
 「もちろん」
 「読書とか?ですか」
 「あ、もしかしてこれを見て思いました?
 博は傍に置いていた文庫本を見せた。
 美穂子はこっくりとうなづいた。
 「いやぁ、ボクは音楽が趣味で、、、」
 「音楽というとー」
 美穂子はこの年齢だと演歌かしらーという先入観を持ちながら尋ねた。
 「クラシックです」
 聞き間違いかと自分の耳を疑った。
 クラシックなど、高校時代の音楽の時間に聞いて以来縁がない。
 もしかして見合い用の返事かしらと疑った。
 「バッハが好きなんです」
 真面目な顔で博は答えた。
 「バッハ?」
 美穂子は頭の中で中学校の音楽室に飾っていた作曲家の写真を思い浮かべた。
 「左から三番目の写真の、、、あーあのバッハ、、、髪バサバサのうーん」
 変わった人だわ、浮田さんって。
 と思いながら相槌を打っていた。
 2時間ほど過ごして、
「今日は楽しかったです。縁があれば又会いましょう」
 と博は言葉を濁して分かれた。

 見合いの経験が何度かある美穂子は、体の良い断り文句だと思ったが、千恵美は全く気づかず、美穂子にどう返事しようかと帰り際に尋ねるので、
「何か言ってきたら、しばらく付き合ってみたら、、、悪い人だとは思わなかったわよ」
おそらくは何も言ってこないだろうと思いながら美穂子は答えたが、千恵美は上手く行ったと受け止めた様子だった。
 だが、千恵美の本当の心は他にあった。
 今の千恵美には最後の一押しを待っている彼がいた。
 氷が氷点下零度に、なっても、静かなままで、なかなか結晶を作らぬように、男はのんびりとしている。
 もしかしたらこの見合いのことが人づてに彼の耳に入り、行動を起こしてくれるのではと思っていた。
 千恵美の賭けは当たった。
 11月には彼との話が決まった。
 千恵美は見合いをした浮田の事を少し気にしていたが、
「ほっといたらいいんじゃない、あれから何も言ってこないんだから」
 美穂子はそう答えた。
 見合いの日の別れ際、博の方から次に会う約束をしなかったは、きっと断る口実を見つけにくかったから、自然消滅を狙ったのだろうと受け取っていたので、大して博のことは気にかけていなかった。
 「一番良い断り方だわ」
 美穂子はそう思っていた。
 
 千恵美の結婚式は年明けの2月に決まった。
 
 美穂子の中で伸二のことは、忘れたわけではなかったが、胸の痛みは消えなかったが、少しずつ思い出に変わろうとしていた。
 
 朝晩の冷え込みはあったが、昼間は汗ばむ日が続いていたある日の朝、浮田博の母春子が手土産を持参して美穂子の母を訪ねてきた。
 自転車で来たらしく、汗を拭きながら
「もうすぐ12月だというのに、暑いわねー」
 と言った。
 雰囲気からして軽い用事ではなさそうだと、康子は思ったが、心当たりは全くなかった。
 「本当に、今日はいつになく暑い日だわ。11月にこんなだと今年の冬は暖冬かしらねー。
 それはそうと息子さん、お嫁さん決まった?あの時お見合いした娘さん、他の人と話が決まっちゃって、2月に結婚式よ」
 お茶を入れながら美穂子の母は、世間話的に間をつなぎながら千恵美との話は無理よ。とやんわりと先制したのだ。
 
「実は、、、その件なんだけど。うちの博、美穂子ちゃんを貰いたいって言ってきて、、、美穂子ちゃんって付き合っている彼いるのかしら?聞いてみてくれる?本人に」
 手土産を風呂敷から出しながら浮田の母は言った。
 何の躊躇も気がねも無くそう言った。
 この人はいつでもそういう人なのだ。
 「美穂子ーうちのー?美穂子ねえ、、、まぁ、聞いて見るけれど、、、」
 康子は悩んだような返事をした。
 
 その夜、夕食が終わり後片付けをしている美穂子の傍らで母が言った。
 「美穂子、秋前に千恵美さんとお見合いした浮田さんよねー。今日、お母さんが見えられて、美穂子をもらえないかしらしらって、あなたどうする?」
 「どうするって、、、?」
 「まぁあなたも年が明けたら27歳、そろそろ潮時じゃないかしらねー」
 「潮時?潮時かぁ、、、潮時ねー。そうかあーそういうのがあるのかーそうかも」
 
 
 
 
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