大人になる約束

三木

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 夜更かしをさせたと思っていたので、翌朝良が早々に起き出して朝食を作ってくれたことに、裕司は多少なりとも驚いた。
 シフトが入っているので昼過ぎには家を出ると言いながら、使ったまな板を手際よく洗って片付けているのを見て、彼の手が水仕事をするそれになっているのはただ外見上の変化ではないのだ、と実感された。
「俺、出る前にあんたの昼ご飯作っとこうか?」
「いいのか?」
「うん、何でもいい?」
 何でもいいよ、と答えながら、本当は彼にはもう作りたいものがあるのだろう、と思っていた。彼が牧の店でさせてもらえることは、掃除や洗い物や簡単な下ごしらえ程度のことだと知っている。まだまかないを作ることもないはずだったが、最近良は以前に比べて手の込んだものを出してくれることが増えた。しかも、明らかな失敗作が食卓にのぼることはなくなって、失敗自体をしていないのかこっそり隠滅されているのかは裕司にはわからなかった。わざわざ知る必要もないと思っている。
 彼はやりたくてやっているのだし、台所に立っているときの彼ははた目にも楽しそうだった。そういう、楽しいと感じられる時間を彼が自分で作れるようになったことが裕司は嬉しい。
 たまに、牧に教えてもらったのだと嬉しそうに言いながら皿を出してくるときは、いくらか嫉妬する気持ちが湧かないではなかったが、そんな自分の気持ちも他愛ないと思った。
 ともあれ良が炊事をしてくれる日は、裕司は最低限の家事を片付ければ仕事に専念することができた。良の勉強時間が確保できているのか心配になることがないではなかったが、良が大丈夫だと言っているのだから大丈夫なのだろう。座学に関しては裕司よりも良の方が明らかに優秀で、実際彼が勉強をするからと断りを入れてきたときは、トイレに立つ以外に中断しているところを見たことがなかった。
 もう彼の中では当面の決着がついているのだろうから蒸し返すのは野暮だと思いつつ、彼がごく普通の家庭で生活できていたならば、進学校でそれなりの成績を残した上で妥協することなく進学できていたのだろうと思われて、それはどうしても惜しまれた。彼が進学すると仮定して、自分の貯蓄と相談したこともある。
 裕司の人生設計の中に子どもを持つという選択肢はなかったから、世の親達の教育費の悩みというものはさぞ大きかろうと思ったものだが、当人である良は裕司を本当に悩ませてくれる気配はなかった。
 良の意思を尊重すべきだと思いながら、彼の持つ能力が活かされないことが残念で、その機会を奪った彼の元保護者達への怒りはまだしばらく鎮火しないだろう。結局自分の大人げなどというのは見かけだけの代物で、良の穏やかさを見習おうにも、持って生まれたものが違うのだという気がしてならなかった。
「裕司さーん」
 仕事部屋をノックされて、気付くとすでに午を過ぎていた。いつの間にか集中していたようだと思いながら部屋を出ると、すでに良は夏物の薄い上着に袖を通していた。
「俺そろそろ出るけど、お昼、フライパンの中のやつ食べてね。温めてもいいし、そのままでも美味しいよ」
 室内には、香ばしく食欲をそそる香りが漂っていた。魚だろうか、と考えながら、それを良と一緒に食べることはできないのだと思うと残念だった。
「冷蔵庫に切ったオレンジあるから、食べていいよ。残ってたら俺が片付けるから」
 いたれりつくせりだな、と思っていると、いつの間にか良がすぐ目の前に立っていて、裕司は瞬いた。何だ、と訊くより先に、良の両腕が回されて、抱き締められる。
「良?」
 とっさに抱き返すという発想が出なくて、それなのに頭は彼から焼いたバターのいい香りがする、などと考えていた。
「今日もまた遅くなるけど、待っててね。寄り道しないで帰ってくるから」
 ようやく良の腰を抱き返しながら、耳に優しい声で言われて、裕司はまだ戸惑っていた。彼が家を出る前にこんな振る舞いをしたことはこれまでになかったのに。
「……そんな急がなくても、遅くなったって構わねえって言ったろ。どうした?」
 本人に訊く以外に仕方ない、と思ってそう言うと、良はごく平静な目で裕司を見て言った。
「俺がいないと寂しいって言ったじゃん、あんた」
 それは確かに言った、と考えてから、一拍後に顔が熱くなった。自分は今良に気を遣われて、慰められているのだと唐突に理解してしまったからだ。
「いや…………寂しいっつってもな……」
 とても目を合わせていられなくて、裕司はぼそぼそと言ったが、良は変わらない調子でこう言った。
「俺も本当言ったら、ご飯食べるときはいつもあんたと一緒がいいなって思ってたんだけど、何かかっこ悪いなって思って言わなかったんだ……でも思ったことは言った方がいいね。ごめんね」
 ちゅ、と頬に口づけられて、裕司は言葉を失った。
 あまりいい男になってくれるな、と言いたくなったのは、出ていく良を見送っていくらも経ってからだった。

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