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第二章 代返の謎

16 取引

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「断る」

 玄関を開けた伽羅奢がらしゃの第一声はそれだ。なんの躊躇もない、非情な一言。

「伽羅奢、冷たい」
「うるさい」

 起き抜けの伽羅奢はテロンテロンのシャツとショートパンツ姿で、今日も気だるそうに玄関のドアにもたれかかって立っている。このだらしない格好も、寝起きで不機嫌な美少女のダメダメな雰囲気にとてもよく似合う。それを見た俺がついヘラッと口元を緩めると、伽羅奢はより一層嫌そうな顔をした。

「あのなあ、愛音。キミを助ける事で私になんのメリットがある? 何も無い。それで私が動くと思うのかね?」
「えー? メリットならあるでしょ」

 と俺は適当な事を言って、頭をフル回転させる。

「そうだなぁ、例えば……」

 縄張り争い中の猫みたいな目で俺を睨みつける伽羅奢を無視して、俺は玄関のドアを無理矢理こじ開けた。ゴミの日に出しそびれたのだろうパンパンのゴミ袋をよけ、散らかった部屋にずかずかと踏み込んでいく。

「伽羅奢、毎日暇でしょ? そんな暇な時間に、なんとタダで大学の講義を受ける事が出来る! しかも一コマ数万円の授業だ! わお、魅力的!」

 床に落ちていた弁当の空き箱を足でチョチョイッとどかし、俺はそこに座った。講義が一コマ数万円になってしまう人はごく一部だけど、一応間違ってはいない。

「キミは馬鹿か? 私が暇なわけあるか。私は毎日、超絶多忙なのだよ」
「多忙って、ゲームだよね」
「そうだ。毎日毎日やらねばならぬミッションが沢山ある。……なんだその顔は」
「いや、別に」

 他人はそれを暇と言う。

「あ、そうそう。それにね、伽羅奢。大学に行ったら新しい友達だって出来る! 絶対に楽しい!」

 座った俺の手元に、空のペットボトルが数個飛んできた。ゴミを蹴飛ばした伽羅奢も自ら作った空間にあぐらをかいて座り、俺に批判的な目を向けている。ハーフパンツの隙間からパンツが見えそうだけど、伽羅奢はまったく気にしていない。そのまま、フンと鼻を鳴らした。

「キミはやっぱり馬鹿だな。良いかね、愛音。私は学力が無いわけでも、金が無いわけでもない。必要が無いから進学しなかったのだ。授業なんてなんの魅力もない」

 伽羅奢がサラサラの黒髪を無造作にかきあげる。はあ、とため息を吐く姿は、自堕落でやさぐれた雰囲気を感じさせた。

「同様に、友人も必要無いから作らない。わかるかね? 愛音の話は私にとって何もメリットにはならないのだよ。帰りたまえ」

 ふいっと顔を背けた伽羅奢は、いつものようにスマホゲームを起動する。
 ああそう。そうですか。
 今現在、彼女が生きていくのに必要なものはこのゲームだけ。不労所得はあって、学習意欲はない。交友関係もいらない。人が「人」として社会で生きていく上で必要なものを、伽羅奢は何も必要としていない。ゲームさえあれば良いのだ。
 俺はそんな伽羅奢を見つめ、とっておきの呪文を唱えた。

「大学のL号館の外にある噴水ってさ、そのゲーム内だと『ジム』なんだよね」

 その言葉に伽羅奢がチラリと俺を見る。
 ジム。それは、伽羅奢が熱中しているスマホゲームに出てくる「場所」の事だ。その場所に実際に足を運ぶと、ゲーム内でアイテムを貰えたり、特別な敵と戦う事ができる。引きこもりがちな伽羅奢でさえ、わざわざ出向く程の重要な場所なのである。

「授業に参加するとさ、九十分間ずっとジムの前を陣取れるよ。冷房完備で椅子と机あり。しかもタダ」
「……ほう」

 伽羅奢が座ったまま全身を俺の方に向けた。わかりやすい奴。

「ねえ伽羅奢。レポート書くのを手伝ってくれたらさ、お礼にマルチバトル協力しても良いよ。ついでにその時、俺の友達十人くらい誘ってあげる。どう?」
「ほう、ほう」

 俺の提案に伽羅奢は口元に手を添え、目を細めながら思案する。

「なるほどな。伝説レイドもクリア出来る人数か。フッ。さすがだ、愛音。無駄に顔が広いだけの事はある。いいだろう、協力しよう」
「『無駄に』は余計だよ! 伽羅奢のそういうとこ、美少女じゃなかったら許されないからねホント」
「すまないね、美少女なもので」

 伽羅奢は余裕ぶって笑う。本当、そういうとこだぞ。

「じゃあさ、伽羅奢。テスト前までの残り二週間、週三日講義に出席してね。もちろん毎回みんなでマルチバトル出来るように調整するから」

 週三日、という単語に伽羅奢は一瞬嫌そうな顔をした。引きこもっていた伽羅奢が週に三日も定時で出かけるなんて、難しいか。けれど、逆に考えてみてはどうだろう。人付き合いを好まない伽羅奢にとって、週に三日もマルチバトルが出来るというのは、逆に好条件でもあるはず。
 ゲームと生活を天秤にかけた伽羅奢が頷いた。

「わかった」
「良かったぁ! じゃあ伽羅奢、さっそくで悪いんだけど、今日も午後から講義があるから行くよ!」
「……は? 愛音、キミはまさかこの私に今から出掛けろと言っているのか? まだ十時前だぞ。正気か?」
「あのね伽羅奢、十時って普通の人は普通に出歩いてる時間なんだよ」

 伽羅奢は何か言いたそうに口を開いたけれど、すぐに閉じた。
 伽羅奢が鋭い目つきで俺を睨む。

「支度する。出ていけ」
「え、やだよ。部屋で待たせてよ。外、暑いじゃん」
「では理解力のない愛音のために、この私が懇切丁寧に説明してやろう。可愛い可愛い美少女が、今からシャワーを浴びて着替えをすると言っているのだ。覗き、痴漢等、犯罪者扱いされたくなければ、さっさとこの部屋から出ていけ」
「あー……、なるほど。了解っす」

 玄関を出る。すぐさま背後で鍵がかかる音がした。
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