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第三章 不在

40 真知子の戦い

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 誰かに求められる事は嬉しい事だ。真知子はその時、その事実に初めて気がついた。

 母である真知子。妻である真知子。そうではなく、一人の能力を持った興津真知子として扱われる。そうしてやっと「人間」になれた気がした。家で飼われる愛玩動物みたいな人生ではなく、人間として社会を二本足で立って歩く。その権利を与えられた事が、真知子は単純に嬉しかった。
 人間として、認められた気がした。
 だから喜んで講師を引き受けた。

 さて、帯金邸で絵の講師をするようになり、真知子には驚いた事がいくつかある。
 
 まず一つめ。
 世の中にはとんでもないお金持ちがいるのだということ。
 帯金家が大地主である事は知っていた。だが、興津家の前に五軒並んだご近所さんの家々も、お世話になっている内科医院の敷地も、県議の家も、小学校の先生の家も、最近できた大型スーパーマーケットの土地でさえも、すべてが帯金家の物だとは知らなかった。地主という人たちのけた違いな経済力に、真知子は驚愕した。

 そして二つめ。
 真知子が講師を務める相手が、二十歳過ぎの男だったということ。
 たかが町内会のポスターから舞い込んだ講師の依頼だ。だから真知子は、せいぜい小学校低学年くらいの子供の相手をするのだと思っていた。それがまさか、相手は立派な成人男性である。
 帯金ひろしという名のその生徒は、黒くねっとりした髪を肩まで伸ばしているような、少々不潔な男であった。
 頭のてっぺんにはフケが目立ち、近づけば風呂に入っているのかどうかも怪しいくらいの刺激臭がする。それなのに衣服だけは上等なスーツを着ているものだから、そのアンバランスさがとても気味悪かった。
 地主の息子として家業を手伝っているという話だったが、実際はどうだろう。ふらふらとしているばかりで、真知子にはただ遊び歩いているだけのように見えた。
 それらを踏まえて、真知子はこの七つ、八つ年下の生徒である博に対し、ひどく苦手意識を抱いていた。

 さらに三つめ。
 これが一番の衝撃なのだが、帯金家の人間は寄ってたかって、真知子を博の嫁にしようとしていた。
 真知子は既婚である。
 もちろんそれは帯金一族、家政婦も含めた全員が知っている事実だ。
 だがしかし、誰の策略かは知らないが、みんなして博と真知子を良い雰囲気にしようとするのである。二人はお似合いだの、帯金家へ嫁げば苦労はしないだの、寄ってたかって真知子をその気にさせようとする。

 当然、そんなおぞましい事など断固拒否で、あまりの酷さに、真知子は講師をも辞めようと思った。
 だが、定時になれば帯金の人間が真知子の家まで大きな高級外車で迎えに来るし、こっそり逃げようものなら、在宅していた啓次郎の母につかまり、帯金家に引き渡された。
 啓次郎の母からすれば、嫁いびりの一環だったのかもしれない。嫌がる真知子を帯金家に引き渡す瞬間が楽しかったのかもしれない。
 それを知ってか知らずか、帯金の人間は啓次郎の母に対し、お菓子や果物、時には現金まで手渡して、自らの味方につけていた。この好待遇に啓次郎の母もご機嫌で、嬉々として真知子を差し出したのである。

 講師。
 やっと見つけた真知子の生きがいは、いつしかただ苦痛を生み出すだけのものになっていた。

「なあパパさん、あなたの母親をなんとか出来ないか。帯金家に売られている気分になる」

 真知子はある時、布団の中で啓次郎に訴えた。
 真知子を売り飛ばすような態度の啓次郎の母をとめてほしかった。あんな気持ち悪い生徒の講師を辞めたかった。真知子は恥を承知で言った。
 啓次郎は真知子を抱きしめ、首筋にほおずりしながら「んん?」と気のない返事をする。

「どうした。働きたいと言ったのはママさんだろう」
「それはそうだが、もう耐えられないのだ。あの人たち、気味が悪い。帯金家も、あなたの母もだ」

 真知子が言うと、啓次郎はそれを鼻で笑う。

「働くというのはそういうものだよ、ママさん。嫌な事があっても我慢しなければならない。それが出来てこそ立派な社会人だ。女性には難しいだろうがね」

 これだから女は、という啓次郎の心の声が聞こえた気がした。馬鹿にされている。
 女だから。

 啓次郎は悪い人ではない。悪いのは社会だ。嫌な事は我慢して当然。それが出来なければ認めない。そんな社会が一番悪い。その価値観をみんなに植え付ける、社会が悪い。
 それだけではない。
 女に生まれた真知子も悪い。
 既婚者だというのに言い寄る帯金家も悪い。
 身内だというのに、敵でしかない啓次郎の母も悪い。

 なにもかもが悪い。自分を取り巻くものすべてが悪い。

 啓次郎が真知子の身体をまさぐる。
 女の仕事はこれだと言われている気がした。
 男と肩を並べ、働こうとする事自体が間違っている。
 女は男の機嫌をとり、喜ばせ、家族の面倒をみていればいい。
 それが女だ。

 ぐるぐるぐるぐる考える。

 この時には真知子はもう、講師を辞める気などなくなっていた。
 意地でも続けてやる。見返してやる。自分は立派な社会人なのだと見せつけてやりたい。
 誰に?
 自分に。そして啓次郎に。
 真知子はそう心に誓い、女体をむさぼる啓次郎を引き離すように寝返りをうった。


 そして、講師を始めて数か月がたった頃。
 その日も真知子は嫌々ながら、博の絵の講師を務めていた。
 普段はだいたい夕刻の二時間ほどで終わるのに、この日は違った。
 博の両親が真知子を夕食に誘ったのだ。来年の春にどこかの物件にギャラリーを誘致するそうで、そこに博の絵を特別展示したいという。

「真知子先生。特別展示の打合せと、できれば課外授業として夕食後もすこし指導していただける? もちろん報酬は弾むから」

 札束を手にした帯金博の母にそう言われて、真知子はそれを承諾した。
 お金に困っていたわけではない。が、報酬を弾むと言われて心が動いてしまった。
 見くびられたくなかったのだ。家族に。社会に。
 金を稼ぐことこそが社会人の証明。人間としての価値だ。

 隣に座る博が気持ち悪くにやりと笑う姿は、見て見ぬふりをした。
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