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第三章 不在

50 俺たちはどう生きるか

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 伽羅奢が倉庫内のモップ掛けをしていると、彼女を嫌う女子生徒二人が伽羅奢のあとをつけるように倉庫に入っていった。
 二人はニヤニヤ笑いながら、バスケットボールの入った大きなケージを伽羅奢に向かって思いきり滑らせる。ぶつけてビビらせようとでも思ったのだろう。

 愛音が体育倉庫に入った時には、今にもケージが伽羅奢にぶつかる所だった。
 ――危ない!
 愛音はとっさに伽羅奢を突き飛ばす。

 突き飛ばされた伽羅奢は無事だった。
 突き飛ばした愛音は、怪我を負った。
 置いてあった別のケージと、勢いよく滑ってきたケージに指をはさまれたのだ。

 だから今、愛音は右手の小指と薬指が無い。

 この事件をきっかけに、みんな少しずつ変わっていった事は言うまでもない。
 加害生徒は自分たちが起こした事件の重さにショックを受け、学校に来なくなった。伽羅奢をいじめていた他の生徒たちも、嫌な事から目を背けるように、伽羅奢をいじめる様な事はしなくなった。

 ――何もない。加害者も、被害者もいない。そうでしょう?

 同調圧力でお互いを守る。不慮の事故はあったが、いじめは存在しなかった。そういう事になったのだ。
 そんな結末を迎えても、やっぱり伽羅奢は気にしない。一致団結した学校の中で、伽羅奢の心は一人だけ違う世界にいた。

 もちろん愛音は複雑だ。
 障害を負った事は純粋に最悪な出来事で、一時、自暴自棄にもなった。
 けれど、どうにもならない。嘆こうが悔やもうが、失った指は返ってこない。
 それでも、これで伽羅奢を救えたのなら悪くない。そう思うしかなかった。

 ――でも、そうなのか?

 伽羅奢を「救った」。はたしてそうだろうか。本当に伽羅奢は救われたのか?
 伽羅奢は孤立していた事も、いじめられていた事も、さして気にしていなかった。確かに、物理的な怪我からは救ったかもしれない。けれど、それだけだ。そもそもこれまで愛音が伽羅奢に対してしてきた事が、正しい事だったのかはわからない。

 もやもやする。

 加害者たちの将来も滅茶苦茶になった。
 自業自得とはいえ、伽羅奢に対しそこまで攻撃的になっていたのは何故だ? 愛音が、ウザいほど伽羅奢をかばい続けたからじゃないのか。伽羅奢を無理矢理みんなの輪に押し込んでいたからじゃないのか。

 もやもやする。

 愛音の元には、加害生徒が両親と共に謝罪に来た。でも、それだけじゃない。伽羅奢の両親までもが愛音の元へやってきて、愛音に土下座したのだ。「伽羅奢のためにごめんなさい」と、伽羅奢の親は愛音の指を見て泣く。伽羅奢は何も悪くないのに、伽羅奢の親までもが責任を感じている。

 もやもやする。

 存在しないはずの指がなぜか痛い。
 失った指の先を見つめ、愛音は自分に言い聞かせる。

『俺は間違ってない』
『伽羅奢を救えたなら良いだろう』
『伽羅奢が喜んでくれるなら良いだろう』
『伽羅奢の未来が幸せになるのなら良いだろう』

 そうなのか? と、沸き上がる疑問には目をつむる。
 自分がやってきたことは正しかったんだ。そう言い聞かせないと、自分を保てない。

 ――俺は間違ってない。そうだよな?

 苦悩する愛音を見て、伽羅奢は正直に自分の気持ちを言う。

「愛音、キミは馬鹿か?」

 ストレートにそう言われて、愛音は脱力してしまった。なんだそれ。指を失った代償が「馬鹿」だなんて、やるせない。
 それでも伽羅奢は続ける。

「私は友人など、学校生活など、どうでも良いと言ったはずなのだよ。私にとってそれらは大事ではない。私には必要ないのだ」

 その言葉ひとつひとつが愛音の体をグサグサと刺した。

「それは偽善だ、愛音。私の望みはそれではない。私の望みは、――自由」

 そう言われてしまっては何も言い返せなかった。そうか、間違っていたのか。そう思いながら自分自身に問う。――じゃあ、どうすれば良かったんだ?

 答えは未だにわからない。
 ただ、ひとつだけ言える事がある。愛音は自分の考えを伽羅奢に押し付けるべきではなかった。
 だから愛音は、伽羅奢と社会を繋ぐ事を諦めた。
 愛音の望みはあくまで愛音の望みだ。伽羅奢の望みでは無い。

 *

 俺はダイニングテーブルの向かいに座る伽羅奢を見つめている。
 彼女はたぶん、こうして俺が迎えに来ている事を偽善だと思っているだろう。

 帯金から助けて、一般的な社会に戻し、結果、俺が自己満足する。俺がやろうとしている事はそれだ。
 でも伽羅奢は、その過程で俺が何かを失う事を恐れている。求めてもいない事を俺が勝手に実行して、勝手に傷つく事が、伽羅奢は嫌なのだ。

「帰ってくれ、愛音」
「でも」

 でも、なんだ?
 そこに続く言葉はどれも俺の自己満足な言葉ばかりで、伽羅奢にとっては偽善的なものばかりだ。
 伽羅奢を救いたい。そう思っているのは、俺。一緒に帰りたいのは俺の願いであって、伽羅奢の願いではない。
 じゃあ、伽羅奢の願いってなんなんだ? 俺はどうしたら良いんだよ。
 なんて、そんな事を考えるのも偽善か?

「わかんないよ」

 そうだ。俺は何もわからない。伽羅奢の望みも、自分がどうしたら良いのかも。俺の頭に浮かぶものはすべて偽善に思えるし、自分勝手に思える。

「いいのだよ、愛音。キミが気にする事ではない。すべて私の問題なのだ。キミは私を立派な社会の一員にしたいようだが、私はそれを望んでいない。それだけだ。私と社会は違い過ぎるのでね」

 伽羅奢の言葉がチクリと俺の胸を刺す。「違う」。そう言われることが、俺は寂しい。
 伽羅奢はそんな俺の気持ちなんて知りもしないで続ける。

「私の居場所はどこにもない。社会に出る事が苦痛なのだ。――だったら、ここに居ればすべてが丸く収まるだろう?」
「丸く……?」

 本当にそうなのか?
 伽羅奢は本当にここに居る事を望んでいるだろうか。いや、そんなわけがない。だって、コンテナハウスに入ってきた俺を見て「遅い」と言っていたじゃないか。帯金の仕打ちを極悪非道だと言っていたじゃないか。
 本心はそれだろ? 伽羅奢はここに残る事を望んでいない。だったら俺は、そんな伽羅奢の本心を無視したくなんかない。帰らないという選択で丸く収まるはずがない。

「ねえ伽羅奢。伽羅奢の望みって、何?」
「私の、望み?」

 そうだ。それは本来、一番最初に尋ねるべき事だったのだ。
 中学校の時、小学校の時、伽羅奢はどう思っていた? みんなの輪に入りたかったのか、そっとしておいてほしかったのか。伽羅奢がどんな生活を送りたかったのか、俺は知らない。どうやって自分をとりまく世界と関わりたかったのか、知らずに俺は勝手な事ばかりしてきた。
 だったら聞けよ、俺!

「伽羅奢はこれから先、どうやって生きていきたい?」
「……は?」
「死ぬまでの人生、どう生きたい?」
「私は」

 伽羅奢が視線を落とす。考えている。彼女が。自分の意思を精査して、伝えようとしてくれている。そうだ。聞けば教えてくれるんだよ。聞けば良かったんだよ!
 しばらく黙っていた伽羅奢が顔を上げる。

「私は、他人に干渉されたくないのだ」

 伽羅奢が力強い目つきで俺を見つめながら言った。

「私は、自分の人生を大事にしたい。他人に合わせたくない。望んでもいない事をしたくない。必要のない忖度《そんたく》をしたくない。自分の望む行動をしたい。社会に合わせて自分を殺したくない。私は、私らしくありたい」
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