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四十三杯目『ストレイ・ドラゴン』
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シナモンの利いたチャイを大事に飲んでいたとき、その人はやってきた。
背が高くがっちりした体格。真冬だというのに薄そうなジャケットを羽織っただけ。目つきは鋭く茶色い短髪。そして、何処かで見たことのある面影を持っている。
「龍臣……」
弥生が呟くのを聞いて、その人の名を知った。
――この人が龍臣さん。
忠臣とも正臣とも違う雰囲気を纏った人だ。悪意の無い粗野さを持っていて、それは瑛よりも強い。およそこの喫茶店に似合わない気配だ。
「よっ、宇佐木。桂も猫も元気そうだな」
「一年ぶりに現れて呼び方がらっと変わるってどういうことだよおまえ」
「そうかぁ?」
一年前の龍臣を知らない有紗にとって何がおかしいのかわからない。わかることといえば、三兄弟で共通しているのは少し目つきの悪いその目元だけということくらいだ。
龍臣は忠臣の指定席に腰掛けると、
「とにかく来てやったんだから早くなんか出せよ」
「注文も受けてないのに何出せばいいんだよ」
「出てきてから注文するもんだろ?」
「はぁ? 何言ってんのおまえ」
弥生の疑問は尤もだ。出てきてから注文しては順番がまるで逆だ。
「宇佐木くん。コーヒーでも出してあげたら? あべこべになってるだけなんだよ」
「あべこべになってるだけって……。頭の構造疑うよ、普通」
桂がコーヒーを勧めるのも驚いたが、それ以上に彼の目にはこの状況は当然のことのように映っているらしい。
渋々コーヒーを淹れ始める弥生を前に、忠臣は笑顔で頬杖をついている。その口元が少し歪な気がして気になった。笑っているというより、作っているという方が正しい形をしている。
妙だ。
具体的に何が、ということは断言できないものの、違和感は確かにある。
理由の一つが、有紗に興味をまるで示さないということ。今までのトランプの役割を負った人物なら、何かしら勘づいて絡んできたというのに、龍臣の場合それがない。それ以上に、有紗に気付いている様子すらない。
――変なの。
少し冷えたのか、トイレに行きたくなった。席を立ち、店の奥のトイレへ向かう。
入ったときは気付かなかったが、用を足して手を洗っていると、大きな姿見が手洗い場で幅を利かせていた。
何度かトイレを利用したことがあるけれど、こんな鏡は初めて見た。
――なんだろう。
縁取りはシンプルで、上部だけ少し飾りが付いている。埃一つ積もってないのに、鏡の中は何処か濁って歪んで見えた。
興味本位で、洗って拭いたばかりで少し突っ張った指先を鏡に当てた。
「うそっ……」
ずっ、と指先が沈んだ。驚いて反射的に引っ込めたが、指先に特段の異常は無い。鏡にも傷一つついていない。
もう一度指を当ててみると、やはり指先が鏡の中に沈んでいく。今度はもっと進んでみる。手の平、手首、吸い込まれるようにどんどん鏡の中に呑まれていく。
気付くと、鏡に背を向けて立っていた。
これは鏡の中なのか。それともその場で一周して逆を向いただけなのか。どちらかわからないのでひとまずトイレの外に出ることにした。
有栖川茶房の店内に戻ると一見いつも通りだ。しかし、異変はすぐに気がついた。
弥生が張り付いたような笑顔をして笑っている。しかもそれは口元だけで、目は死んだように動いていない。そんな状態の彼が、
「いらっしゃい、アリス」
そう言うのだから怖い。彼はこんな風には笑わない。どちらかと言えば無愛想な方だが、笑えばそれなりに可愛いのだ。そして、何も言っていないのに紅茶がすっと差し出された。
「私、何も注文してない……」
「おかしなコト言うなぁ。出てきてから注文するもんだろ?」
――さっき龍臣さんが言ったことを、今度は弥生くんが言ってる。
ティーカップを持つと冷えていて、口を付けると冷たかった。
「冷たい……!」
「当然だろ? 淹れたての紅茶は冷えてなくちゃ」
有紗は思わずティーカップを置くと、気味の悪い表情の弥生から目を逸らした。
桂はぱっと見いつも通りだが、揺れてはおらず静止している。真っ直ぐに背筋を伸ばして、いつものゆるっとした様子は見当たらない。龍臣はというと、やや憔悴したような顔でカウンター席にて項垂れていた。
「アンタがアリス?」
今度はしっかりとこちらを向いて龍臣が目線を合わせてきた。
「迷い込んだんだったら早く出な。こんなあべこべの世界、居たら頭がおかしくなる」
「龍臣さんは? 向こうにいる龍臣さん、あべこべでした。本当は居るべき場所が逆なんじゃないんですか?」
「逆かもしれねぇけど、戻れねぇんだよ」
「お手洗いに大きな姿見がありました。そこから帰れるかもしれませんよ」
「姿見……」
思い当たることでもあるのか、龍臣は一旦口を閉ざして首を捻っている。
ここがいるべきではない世界なら何を迷う必要があるのか、と有紗は思う。立ち上がって鏡に入れば元に戻れる。原理や理屈はともかく、単純な話の筈だ。
「ねぇ、アリスちゃん」
おもむろに桂が話しかけてきた。
「アリスちゃんはこっちに〝入って〟来たの? 〝帰って〟来たの? 入ってきたなら入らなきゃ。帰ってきたなら帰らなきゃ」
難しいことを桂は言う。
要は同じではないのかと思いつつ、龍臣が元に戻れない理由はここにあるのかもしれないとも思った。
彼は〝入って〟来たのに〝帰ろう〟とした。故に戻れない。
だから有紗も〝帰ろう〟としてはいけない。〝入って〟来たのだから、〝入〟らなければ。
「鏡は真逆だけど、逆故に逆にしちゃいけないこともあるんだよ。あと、鏡は気まぐれだから。映すものを変えないうちに、早く自分の居場所に行くといいよ」
いつになく桂がまともだ。まっすぐにこちらを見据えて、笑みは柔らかく優しい。
これもまたあべこべの結果なのか。それとも、桂は影響されていないのか。
どちらにしろ、ヒントはありがたい。
有紗は立ち上がり、龍臣の手を取った。ここは長居すべき場所ではない。彼が言うようにおかしくなってしまう。
「龍臣さん、行きましょう。向こうの世界に〝入り〟ましょう」
「そう……だな」
疲れた様子の龍臣は、ゆっくりと席を立つ。有紗が手を引くと、引きずられるように付いてきた。
「桂さん、ありがとうございます」
「またね」
手を振る桂に見送られ、二人はトイレにある姿見の前に立った。
「龍臣さん、いいですか。〝帰る〟んじゃなくて〝入る〟んですよ」
「そう念じとけばいいのか?」
「多分そうです。意識の問題だと思うので」
「入る入る入る……」
龍臣はゆっくりと手を伸ばし、鏡に触れる。有紗がこちらに来たときと同様、彼の手も鏡の中にずっ、と沈んだ。
「その調子です。向こうでまた、会いましょうね」
「無事に着ければ、な」
どんどん鏡の中に消えていく龍臣は、いつの間にか消えて無くなってしまっていた。
「行っちゃった……」
次は自分の番。入るんだ。向こうの世界へ〝入る〟んだ。そう言い聞かせて、手を伸ばす。ここで鏡が堅く跳ね返してきたらどうしようかという恐怖も僅かに芽生えた。
いけない。邪念は捨てなければ。来たときと同じ心境でなければ、きっと鏡は映す世界を変えてしまう。
触れた。
そして押し込んだ。
指が沈む。手が呑まれる。
やはり気がつくと手を伸ばした体制で鏡に背を向けて立っていた。
――元の世界、かな。
そう思った後で、一つ問題に気がついた。あべこべの龍臣は一体どうすればいいのだろう。言って聞かせて動く可能性は低い。龍臣が二人という状態になっていたらどうしよう。一抹の不安を抱えながら、トイレの外に出た。
まず弥生の顔を見る。特に何も無いときのやや仏頂面の弥生だ。あの貼り付けたような奇妙な笑顔はそこには無い。
龍臣はと言うと有紗が席を立ったときと同じ場所に座って、大きな溜息を吐きながら机に突っ伏していた。
「アリス、遅かったけど腹でも痛いのか?」
いつも通りの弥生が話しかけてきた。
「ううん。お友達からメール来てて返信してたの」
「そっか、よかった」
ふっと笑う。そう、彼はこんな風に優しく無邪気に笑うのだ。
戻ってこられた。その安堵から、有紗も思わず息を吐く。席に戻り、少しぬるくなってしまったチャイを一口飲んだ。
「はぁぁあ。よかったぁ。戻れたぁぁあ」
急に声を発した龍臣は、むくりと起き上がると勢いをつけて有紗の方を向いた。
「ほんっとありがとな。あのイカレた世界から出してくれて」
「あべこべの龍臣さんは入れ替えに戻っていったみたいですね。よかった」
頷き合っている二人の向かいで、解せぬ顔の弥生が口を曲げていた。
「何の話?」
「龍臣さんが元に戻って良かったねっていう話」
「元に戻ったのか?」
訝しそうにする弥生の前で、龍臣はぬるくなり始めていそうなコーヒーを一息に煽ると、
「ウサギ! おかわり」
「うわっ、ホントだ。元の呼び方に戻ってる」
「おう、ぶーすけ。ぶーすけ。おら、ぶーすけ」
そう言いながら、龍臣はてっさを手招いている。てっさはというと酷い顔をして、
「ぶンな!」
嫌がっていた。
「まだ〝猫〟って呼んだ方がいいのに、なんでそこまで元に戻るんだよ」
「だってあいつぶーすけだろ。ほら、ぶーすけ。わしわししてやる」
「ぶンなァ!」
てっさは全力で嫌がって店の隅に行ってしまった。
――なんか鏡の中にいるときとテンション違うなぁ。
間違いなくこちらの龍臣が素なのだろう。どれくらいの期間あの中にいたのかわからない。それでも正気を保っていたのは幸いだった。自分だったら一日保つか怪しいところだ。
そして、戻ってこられた自分、おめでとう。
昼下がりの冒険は中々にスリリングだった。
ただ一つ残念なのは、熱々だったチャイが冷めてしまったこと。時間の経過はこちらと鏡の中とで共通なのだ。こればかりは仕方がない。
これを取り戻す方法は一つだけ。
有紗は残りのチャイを一気の飲み干すと、
「チャイのおかわりください」
カップを差し出した。
*
閉店後、桂はトイレの鏡の前に立っていた。縁を持ち、よいしょ、と持ち上げる。
「鏡は元に戻しておかないとね~」
また迷い込んだら大変だ。
そして、巧くいって良かった。一歩間違えればアリスまで向こう側の住人になってしまう危険性も承知していた。
それでも賭けをしたのはそれなりに勝機があったから。
「なんたってお話の主役だからね~」
店の裏の物置。そこへ鏡をそっと仕舞った。
背が高くがっちりした体格。真冬だというのに薄そうなジャケットを羽織っただけ。目つきは鋭く茶色い短髪。そして、何処かで見たことのある面影を持っている。
「龍臣……」
弥生が呟くのを聞いて、その人の名を知った。
――この人が龍臣さん。
忠臣とも正臣とも違う雰囲気を纏った人だ。悪意の無い粗野さを持っていて、それは瑛よりも強い。およそこの喫茶店に似合わない気配だ。
「よっ、宇佐木。桂も猫も元気そうだな」
「一年ぶりに現れて呼び方がらっと変わるってどういうことだよおまえ」
「そうかぁ?」
一年前の龍臣を知らない有紗にとって何がおかしいのかわからない。わかることといえば、三兄弟で共通しているのは少し目つきの悪いその目元だけということくらいだ。
龍臣は忠臣の指定席に腰掛けると、
「とにかく来てやったんだから早くなんか出せよ」
「注文も受けてないのに何出せばいいんだよ」
「出てきてから注文するもんだろ?」
「はぁ? 何言ってんのおまえ」
弥生の疑問は尤もだ。出てきてから注文しては順番がまるで逆だ。
「宇佐木くん。コーヒーでも出してあげたら? あべこべになってるだけなんだよ」
「あべこべになってるだけって……。頭の構造疑うよ、普通」
桂がコーヒーを勧めるのも驚いたが、それ以上に彼の目にはこの状況は当然のことのように映っているらしい。
渋々コーヒーを淹れ始める弥生を前に、忠臣は笑顔で頬杖をついている。その口元が少し歪な気がして気になった。笑っているというより、作っているという方が正しい形をしている。
妙だ。
具体的に何が、ということは断言できないものの、違和感は確かにある。
理由の一つが、有紗に興味をまるで示さないということ。今までのトランプの役割を負った人物なら、何かしら勘づいて絡んできたというのに、龍臣の場合それがない。それ以上に、有紗に気付いている様子すらない。
――変なの。
少し冷えたのか、トイレに行きたくなった。席を立ち、店の奥のトイレへ向かう。
入ったときは気付かなかったが、用を足して手を洗っていると、大きな姿見が手洗い場で幅を利かせていた。
何度かトイレを利用したことがあるけれど、こんな鏡は初めて見た。
――なんだろう。
縁取りはシンプルで、上部だけ少し飾りが付いている。埃一つ積もってないのに、鏡の中は何処か濁って歪んで見えた。
興味本位で、洗って拭いたばかりで少し突っ張った指先を鏡に当てた。
「うそっ……」
ずっ、と指先が沈んだ。驚いて反射的に引っ込めたが、指先に特段の異常は無い。鏡にも傷一つついていない。
もう一度指を当ててみると、やはり指先が鏡の中に沈んでいく。今度はもっと進んでみる。手の平、手首、吸い込まれるようにどんどん鏡の中に呑まれていく。
気付くと、鏡に背を向けて立っていた。
これは鏡の中なのか。それともその場で一周して逆を向いただけなのか。どちらかわからないのでひとまずトイレの外に出ることにした。
有栖川茶房の店内に戻ると一見いつも通りだ。しかし、異変はすぐに気がついた。
弥生が張り付いたような笑顔をして笑っている。しかもそれは口元だけで、目は死んだように動いていない。そんな状態の彼が、
「いらっしゃい、アリス」
そう言うのだから怖い。彼はこんな風には笑わない。どちらかと言えば無愛想な方だが、笑えばそれなりに可愛いのだ。そして、何も言っていないのに紅茶がすっと差し出された。
「私、何も注文してない……」
「おかしなコト言うなぁ。出てきてから注文するもんだろ?」
――さっき龍臣さんが言ったことを、今度は弥生くんが言ってる。
ティーカップを持つと冷えていて、口を付けると冷たかった。
「冷たい……!」
「当然だろ? 淹れたての紅茶は冷えてなくちゃ」
有紗は思わずティーカップを置くと、気味の悪い表情の弥生から目を逸らした。
桂はぱっと見いつも通りだが、揺れてはおらず静止している。真っ直ぐに背筋を伸ばして、いつものゆるっとした様子は見当たらない。龍臣はというと、やや憔悴したような顔でカウンター席にて項垂れていた。
「アンタがアリス?」
今度はしっかりとこちらを向いて龍臣が目線を合わせてきた。
「迷い込んだんだったら早く出な。こんなあべこべの世界、居たら頭がおかしくなる」
「龍臣さんは? 向こうにいる龍臣さん、あべこべでした。本当は居るべき場所が逆なんじゃないんですか?」
「逆かもしれねぇけど、戻れねぇんだよ」
「お手洗いに大きな姿見がありました。そこから帰れるかもしれませんよ」
「姿見……」
思い当たることでもあるのか、龍臣は一旦口を閉ざして首を捻っている。
ここがいるべきではない世界なら何を迷う必要があるのか、と有紗は思う。立ち上がって鏡に入れば元に戻れる。原理や理屈はともかく、単純な話の筈だ。
「ねぇ、アリスちゃん」
おもむろに桂が話しかけてきた。
「アリスちゃんはこっちに〝入って〟来たの? 〝帰って〟来たの? 入ってきたなら入らなきゃ。帰ってきたなら帰らなきゃ」
難しいことを桂は言う。
要は同じではないのかと思いつつ、龍臣が元に戻れない理由はここにあるのかもしれないとも思った。
彼は〝入って〟来たのに〝帰ろう〟とした。故に戻れない。
だから有紗も〝帰ろう〟としてはいけない。〝入って〟来たのだから、〝入〟らなければ。
「鏡は真逆だけど、逆故に逆にしちゃいけないこともあるんだよ。あと、鏡は気まぐれだから。映すものを変えないうちに、早く自分の居場所に行くといいよ」
いつになく桂がまともだ。まっすぐにこちらを見据えて、笑みは柔らかく優しい。
これもまたあべこべの結果なのか。それとも、桂は影響されていないのか。
どちらにしろ、ヒントはありがたい。
有紗は立ち上がり、龍臣の手を取った。ここは長居すべき場所ではない。彼が言うようにおかしくなってしまう。
「龍臣さん、行きましょう。向こうの世界に〝入り〟ましょう」
「そう……だな」
疲れた様子の龍臣は、ゆっくりと席を立つ。有紗が手を引くと、引きずられるように付いてきた。
「桂さん、ありがとうございます」
「またね」
手を振る桂に見送られ、二人はトイレにある姿見の前に立った。
「龍臣さん、いいですか。〝帰る〟んじゃなくて〝入る〟んですよ」
「そう念じとけばいいのか?」
「多分そうです。意識の問題だと思うので」
「入る入る入る……」
龍臣はゆっくりと手を伸ばし、鏡に触れる。有紗がこちらに来たときと同様、彼の手も鏡の中にずっ、と沈んだ。
「その調子です。向こうでまた、会いましょうね」
「無事に着ければ、な」
どんどん鏡の中に消えていく龍臣は、いつの間にか消えて無くなってしまっていた。
「行っちゃった……」
次は自分の番。入るんだ。向こうの世界へ〝入る〟んだ。そう言い聞かせて、手を伸ばす。ここで鏡が堅く跳ね返してきたらどうしようかという恐怖も僅かに芽生えた。
いけない。邪念は捨てなければ。来たときと同じ心境でなければ、きっと鏡は映す世界を変えてしまう。
触れた。
そして押し込んだ。
指が沈む。手が呑まれる。
やはり気がつくと手を伸ばした体制で鏡に背を向けて立っていた。
――元の世界、かな。
そう思った後で、一つ問題に気がついた。あべこべの龍臣は一体どうすればいいのだろう。言って聞かせて動く可能性は低い。龍臣が二人という状態になっていたらどうしよう。一抹の不安を抱えながら、トイレの外に出た。
まず弥生の顔を見る。特に何も無いときのやや仏頂面の弥生だ。あの貼り付けたような奇妙な笑顔はそこには無い。
龍臣はと言うと有紗が席を立ったときと同じ場所に座って、大きな溜息を吐きながら机に突っ伏していた。
「アリス、遅かったけど腹でも痛いのか?」
いつも通りの弥生が話しかけてきた。
「ううん。お友達からメール来てて返信してたの」
「そっか、よかった」
ふっと笑う。そう、彼はこんな風に優しく無邪気に笑うのだ。
戻ってこられた。その安堵から、有紗も思わず息を吐く。席に戻り、少しぬるくなってしまったチャイを一口飲んだ。
「はぁぁあ。よかったぁ。戻れたぁぁあ」
急に声を発した龍臣は、むくりと起き上がると勢いをつけて有紗の方を向いた。
「ほんっとありがとな。あのイカレた世界から出してくれて」
「あべこべの龍臣さんは入れ替えに戻っていったみたいですね。よかった」
頷き合っている二人の向かいで、解せぬ顔の弥生が口を曲げていた。
「何の話?」
「龍臣さんが元に戻って良かったねっていう話」
「元に戻ったのか?」
訝しそうにする弥生の前で、龍臣はぬるくなり始めていそうなコーヒーを一息に煽ると、
「ウサギ! おかわり」
「うわっ、ホントだ。元の呼び方に戻ってる」
「おう、ぶーすけ。ぶーすけ。おら、ぶーすけ」
そう言いながら、龍臣はてっさを手招いている。てっさはというと酷い顔をして、
「ぶンな!」
嫌がっていた。
「まだ〝猫〟って呼んだ方がいいのに、なんでそこまで元に戻るんだよ」
「だってあいつぶーすけだろ。ほら、ぶーすけ。わしわししてやる」
「ぶンなァ!」
てっさは全力で嫌がって店の隅に行ってしまった。
――なんか鏡の中にいるときとテンション違うなぁ。
間違いなくこちらの龍臣が素なのだろう。どれくらいの期間あの中にいたのかわからない。それでも正気を保っていたのは幸いだった。自分だったら一日保つか怪しいところだ。
そして、戻ってこられた自分、おめでとう。
昼下がりの冒険は中々にスリリングだった。
ただ一つ残念なのは、熱々だったチャイが冷めてしまったこと。時間の経過はこちらと鏡の中とで共通なのだ。こればかりは仕方がない。
これを取り戻す方法は一つだけ。
有紗は残りのチャイを一気の飲み干すと、
「チャイのおかわりください」
カップを差し出した。
*
閉店後、桂はトイレの鏡の前に立っていた。縁を持ち、よいしょ、と持ち上げる。
「鏡は元に戻しておかないとね~」
また迷い込んだら大変だ。
そして、巧くいって良かった。一歩間違えればアリスまで向こう側の住人になってしまう危険性も承知していた。
それでも賭けをしたのはそれなりに勝機があったから。
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