有栖川茶房

タカツキユウト

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五十四杯目『店主不在につき』

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 五月も末近く。
 有栖川茶房に向かっていた有紗は、遠目に見て店のシルエットが違うことに気がついた。
 ヨーロッパのカフェに良くありそうな日よけが窓の所から小さく突き出している。こんなものは今まで付いていなかった筈だ。近くに寄ってみればレンガと漆喰の壁が石造りに変わっている。ドアも大きめの飾り窓が付いていて、いつもの一枚板ではなくなっている。
 ――何事……。
 店の変貌については今更驚くこともないのだが、どうしても初見は身構えてしまう。
 ドアノブを押すと、店内から溢れ出る濃いコーヒーの香りにまず出迎えられた。
 いつもの指定席には忠臣が、カウンターの中には弥生がいる。
 席はいつも通りだったが、ソファ席のテーブルの上方にシェードの付いたランプが下がっていた。
「今日は何カフェ?」
 指定席に鞄を置きながら弥生に尋ねると、彼は得意そうな顔をして腰に手を当てやや仰け反ると、
「今日はな、念願のイタリアンカフェだぜ!」
「でもそれだと、紅茶っていうよりコーヒーなんじゃ?」
「だから買ったんだよ、これ! じゃーん!」
 弥生の背後から現れたのは、立派なエスプレッソマシン。そんなものを置く隙間が元々あったかどうかは今となってはわからない。窮屈そうに据え置かれたマシンは、ぴかぴかでどう見ても新品だ。
「弥生くんが買ったの?」
「経費でな。桂が茶葉の仕入れに行ってるから偶には俺が好きにさせて貰おうかなって思って」
 いつも桂がやっていた改造を弥生がやったのかどうかは訊かないでおく。
「勝手なコトして桂さんに怒られない?」
「帰ってくる前に戻しときゃ大丈夫だよ」
「でも、そのエスプレッソマシン、どうするの?」
「店の定番にする」
「それだとどっちにしろバレるような気がするんだけどな……」
「コーヒー党が喜ぶからいいんだよ!」
「紅茶のお店の筈なんだけど、ここ……」
「アリスまで堅いこと言うなよ。ほら、ジャックだって喜んでるしさ」
 そう言われて忠臣を見れば、小さなカップでエスプレッソを楚々として飲んでいる。ドヤ顔にも見えるその表情は、新時代の到来を謳歌しているようにさえ見えた。
 ――忠臣さん、嬉しそう……。
 ひとまずメニューを確かめようとメニュー立てを見ると、いつものメニューは無くラミネートされたペラが一枚ささっていた。
 コーヒー関連の飲み物と、最低限のフードだけが載っている。しかも内容はコーヒーに特化したものになっている。弥生の趣味が前面に押し出された形だ。
「アリスはエスプレッソ飲める?」
「忠臣さんみたいには飲めないなぁ」
「じゃあ、アメリカーノにするか?」
「アメリカーノって?」
「簡単に言えばエスプレッソのお湯割り」
「それなら飲めそう! 飲み物はそれで」
 フードの欄を見ると、コーヒーゼリー、プリン、アフォガートがある。日替わりのケーキもあるようだが、いつもなら食べられないものを食べてみたい。
「デザートはアフォガートでお願い!」
「よしきた」
 弥生が嬉々としてエスプレッソマシンを動かし始める。
 タンピングした粉を装置に付け、スイッチを入れると派手な音がしてマシンが蒸気を上げた。エスプレッソが抽出され始めた途端、肺腑の奥まで染み入るような濃い香りが辺りに立ちこめ始める。それが心地良くてつい深呼吸をしてしまう。
「あ。有紗、いらっしゃい」
 マシンの音で気がつかなかったが、笑太が二階から下りてきていた。
「お、笑太、いいところに。アフォガート用のアイス、持ってきて」
「はーい」
 階段を下りてきたその足で、笑太は厨房へと入っていった。
 間もなく、ガラスの器にバニラアイスを入れて笑太が戻ってきた。それが弥生に手渡されると、淹れたてのエスプレッソがそこへ注がれた。
「はい。アフォガートと……アメリカーノ」
「ありがとう! 頂きます!」
 渡されたおしゃれなスプーンで、バニラアイスをエスプレッソと混ぜるようにしてすくい取る。口に入れると甘苦い味が舌の上で溶け出した。二つの温度の違いもまた面白い。
 アメリカーノは思ったよりもすっきりとした飲み口で、重たさはそれ程なかった。
「はぁぁ。コーヒー尽くし。美味しい」
「こういうカフェも偶にはいいよな」
 ニヤニヤしている弥生は、味を占めた表情だ。機会さえあればまたカフェを開くことだろう。
「弥生。エスプレッソをおかわり」
「うい。なんか今日、ジャック静かじゃね?」
「何処かのうるさい店主に文句一つ言われずにコーヒーを堪能できるんだ。こんな機会はそうそう無いぞ」
「はー。浸ってるわけだ」
「非常に居心地がいい」
「そりゃ結構」
 再びエスプレッソマシンが駆動音を上げる。漂う香りに、忠臣も息を深く吸っているのを見た。
 大きな深呼吸の後、忠臣はおもむろにスマホを取り出すと、素早い指の動きで何かを打ち込み始めた。
「何打ってんの?」
 仕事の用事でスマホを操作しているかもしれないのに、弥生は無遠慮に尋ねた。忠臣は即答はせず、用事を片付けてスマホを仕舞うと、
「環と妃さんにSNSでイタリアンカフェになってることを通知してみた」
「お、営業ありがとな」
「折角のエスプレッソマシンを数日でお蔵入りさせるのは惜しいからな。それくらいなら皆に楽しんで貰った方がいいだろう?」
「お蔵入りになんてさせねぇよ」
「桂がなんて言うか見物だな」
 そんな会話を聞いて、有紗は自分のスマホをそっと取り出した。そわそわしながら、スマホを握り締め、
「忠臣さん……。ID、交換しませんか?」
 そう持ちかけた。
「いいですよ」
「やったー!」
「ついでだ。弥生も交換したらどうだ?」
「お、おう」
 弥生もいそいそとスマホを取り出す。その後ろで、笑太が少し寂しそうに佇んでいた。
「笑太くんも交換しよう?」
「俺、スマホ持ってないから」
「あ……。そう、なんだ」
「気にしないで」
 そうは言うものの、眉がハの字だ。明らかにしょんぼりしている。
 彼を置いてけぼりにせざるを得ず、三人でIDを交換することになった。
「妃さんが知りたがると思いますが、そうなったら教えてもいいですか?」
「大丈夫です! 皆さんに教えちゃっていいですよ」
「では、うちの兄以外には伝えましょうか」
「龍臣さんにも伝えていいですよ……?」
「あんなヤンキーに絡まれても面倒なだけでしょう」
 ――本当にお兄さんには当たり強いなぁ。
 龍臣と接した時間は僅かだが、嫌な思いをしたことがないので避ける理由もない。兄弟という関係上色々な思いがあるのだろうということにして、その辺りはスルーすることにした。
「俺もスマホ、持とうかなぁ……」
 蚊帳の外にされていた笑太が羨望を持って呟いた。彼が今まで持たなかった理由は知らないが、
「もし買ったらID交換しようね?」
「うん」
 それだけで嬉しそうに頷いたので、ひとまず安心した。
 二杯目のエスプレッソを受け取っている忠臣の手の中で、スマホが激しく振動していた。一口飲んでから漸くスマホを弄り始めるまで、通知がひっきりなしに届いているようだった。
「エスプレッソならクオーリでも飲めるのに、何でか環が荒ぶってる」
「意外。妃の方が騒ぎそうなのに」
「家にエスプレッソマシンあるからな」
「環だって持ってそうだけど」
「これから来るって言ってる」
「お。マジ?」
 ――環さん来るならそれまで居ようかな。
 アフォガートを平らげながら時計を見る。どのみちこの後は用事が無いので、長居する分には問題ない。
「そういえば、桂さんはスマホ、持ってないの?」
「あいつはそういうの全然駄目だから。テレビの録画もままならねーの」
「不便、だね」
「一応ガラケーは持たせてるけどな。それも面倒がって中々連絡寄越さねぇし」
「買い出しとか大丈夫なの? 海外でしょ? 一応」
「そこは大丈夫。宝と玲がついてるから。航空券の手配もやって貰ってるみたいだし。あと、莫迦やって買いすぎないように見張っててくれてる」
「同行っていうより、お目付役って感じだね」
「だな」
 有紗と弥生につられて忠臣と笑太も笑い声を上げた。四人で輪になって笑っていると、ドアベルが鳴る音がした。現れたのは少し前に話題になったばかりの環だった。
「早っ! どっからか湧き出たのかよ」
「丁度近くに居ただけだ」
 それにしても早い。忠臣でさえ驚いている様子だ。そんな彼らの様子を他所に、涼しい顔で入ってきた環は、涼しい顔のままいつものカウンター席に腰を下ろした。ちら、と有紗の手元を見ると、
「アフォガートか。いいな。それとエスプレッソをくれ」
「はいよ」
 再びマシンが駆動する。充満するコーヒーの香りに、やはり深呼吸してしまうのだった。
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