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第六章

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 慈愛の持った観測者のカードは、淡い反応を示している。

 繁華街から細いリンクが伸びる。古賀から続く少女の歩みを追跡する。弱い弱い<縁脈>だ。

 とは言え、辿るべき相手は分かっていた。古賀に発生した<綻澱>の大本が若い女性であるのなら、その相手は依里だとしか考えられない。古賀が色々な女子生徒をとっかえひっかえしていたという可能性は考えられなくもないが、そこまで派手なことをやっていたら、流石に見逃されることはないだろう。それに<縁脈>は、繁華街から依里の家の方角に伸びていた。

 幾度か消えそうになりながらも、なんとか手繰り寄せ、あとは方向だけを頼りにした勘を使って、リンクを追跡する。観測者のカードの反応は、どんどん強くなっていった。

 印刷する時にほんの少し眺めた程度の、依里の家の地図。記憶を信じるなら、そろそろ近くには来ているはずだ。

 ――ほら。

 見上げた公園の植樹は、小さな面積のくせにうっそうとした影を落としている。公園内には誰もいない。重い重い空気に満ちていた。同時に、強弱の振動を繰り返す慈愛の名刺の反応を感じた。この界隈であれを持っているのは、千尋と美香奈しかいない。

 慈愛は観測者のカードを四枚取り出し、宙に投げた。上から園内を観測し、同時に自分は周縁を一周する。

 強い<縁脈>が伸びていた。公園からはるか高台の方向に向かっている。

 そちらを辿るか、それとも公園の中に介入するか。

 少し悩んでから、慈愛は観測者のカードをフルスイングで投げた。カードは空中で方向を変え、高台に向かって飛んでいった。監視役だけでも、手は打っておきたい。

 改めて公園の入り口に立つ。

 車止めを越えて一歩踏み込む。更に一歩。――公園の外に出る。同じだ。

 ここもまた、これまでの事件現場と同じように空間が歪んでいて、外の世界から切り離された構造になっている。

 裏を返せば、ここが目的地であることに、間違いない。

 統率者のカードを額にかざし、空いた手で介入者のカードを公園の境界線に割り込ませる。

 一瞬だけ角と羽の姿を見せて、すぐに境界構造の中に足を踏み入れた。

 中の様子は、慈愛の想像を越えていた。

 暴走したかのような<縁脈>の密度と、そこを伝わる<綻澱>の汚染。以前にも同じ光景を見たことがある。これは想定の範囲内だ。しかし、中央で巨大な樹木のような形状で具現化している<縁脈>と、その中に取り込まれた依里。そこから離れて、相対した千尋と美香奈がいる。

 美香奈は苦しそうに腹部を押さえていた。

 慈愛は羽を広げて大きく跳躍し、一気に美香奈の元に跳んだ。

「美香奈ちゃん、大丈夫っ!」

「せ、先生……慈愛先生……早く、早く、力を、力を下さいっ!」

 慈愛に掴みかかる勢いの美香奈を押し戻し、慈愛は継承者のカードを美香奈の額に当てる。

「我が学びの子供たる沢渡美香奈。八咫烏と成りて<縁脈>を断て!」

 カードを引くと、吸い上げられるようにして額から光の角が生えてくる。同時に背中にはカラスの黒い翼、右手には大きな刃が。

 八咫烏の身体になれば、回復力を含めた身体能力は著しく向上する。美香奈が負傷したのであれば、それも回復するはずだと慈愛は見込んでいた。

 美香奈が顔を上げる。充血した目、恍惚とした表情。大きく息を吐いた。ヒュウという大きな音。武道における息吹と同じだ。

 腹部に滲んだ<綻澱>が、黒さを増す。

 美香奈はゆっくりと上空に浮かんだ。しかし彼女が向き合った相手は、予想に反していた。

 美香奈は大樹を背後に、慈愛達を正面に見据え、刃を構えた。

「美香奈ちゃん……。どういうこと……」

 慈愛は状況を理解できずにいる。

 よく見れば、美香奈の背後の大樹から、いくつもの<縁脈>が美香奈へと繋がっている。

 大樹が身震いした。それに合わせるように、美香奈も身体を震わせる。依里がかすれた声でつぶやいた。

「先生……先輩は汚れてしまったのです。私と、一緒。私と同じ、汚れた人間なんです。汚れちゃったんですよ!」

 慈愛はカードを構え、背後の千尋に聞く。

「どうなってるの」

「あのっ、天城さんと公園で話していたら、古賀先生は悪くないんだって話になって。そうしたら、天城さんの周りの<縁脈>があんな形になって」

「ちょっと待って、千尋くんはそれを、視たの傍点?」

「え? はい。それで美香奈が助けに来てくれて、<綻澱>の塊とか追い払おうとしてくれたんだけど、世界がひっくり返ってしまって」

「ひっくり返る?」

「はい。前の時もそうでした。公園全体が、全部表と裏がひっくり返ったみたいな感じになったんです」

「千尋くんは、それを感じた傍点のね?」

「感じ……としか言えないんですけど」

「そう」

 慈愛はカードを構える。さて、どこから介入していくべきか。

「姫末先生、理解して頂けましたか?」

 依里の声はどこまでも平坦だ。

「なんとなくね」

 美香奈は<縁脈>に拘束され、大樹の前、依里の目線と同じ高さに浮いたままだ。拘束から逃れようとしてなのか、手足を細かく震わせている。

「先生も古賀先生を殺した犯人なんですよね」

「殺してはいないわ」

「でも古賀先生はいなくなったのでしょう? だったらみんなも同じように消えてなくなればいいんだわ。私と同じように汚れて壊れて、消えてしまえばいい!」

 ヒュンッ。

 大樹の枝が伸び、美香奈の四肢に突き刺さる。それは手足を破壊するのではなく、細い針のように皮膚を貫く。大樹の幹が揺れると、それに合わせて美香奈の手足も引き寄せられた。まさにそう――マリオネットである。

 依里の操り人形と化した美香奈が、刃を振りかざした。上段から一気に袈裟切り。刃の軌跡が<綻澱>となり、慈愛に向けて撃ち込まれた。

 慈愛は前方にカードを展開、防御の陣を敷く。同時に千尋の襟首を掴んで、後退した。

「先生、美香奈を助けないと」

「分かっているわよっ」

 介入者のカードを二枚、投擲。左右上空から侵攻させる。が、大樹の枝が両者をなぎ払う。

 戦局が見えない。剛の力を持つ美香奈が敵側に操られている状態では、攻めに出る訳にもいかない。

 千尋を引っ張って植え込みに退避する。

「しばらく隠れていてね」

「慈愛先生は?」

「ちょっと、上にね」

 カードを前方に布陣し、防壁を作る。尖兵として介入者のカードを宙に投げる。同時に認知階層を駆け上った。

 公園という空間の構造を俯瞰し、解析する。閉空間と外部とを唯一繋げているのが、一本の強力な<縁脈>だ。だがそちらは保留。今は園内だ。

 外部からの<縁脈>は、大樹の幹の中心を貫いて、依里へと伸びている。依里に充満しているのは高密度の<綻澱>だ。これは間違いない。依里の身体からは幾筋もの<縁脈>が大樹の内部を走り、その枝は依里の意思のままに動く。

 更に一つの<縁脈>が、美香奈の体内――腹部だ――に伸びている。そこにもまた、<綻澱>の淀みがある。これは依里から注がれたものではない。美香奈の体内に存在した<綻澱>が活性化し、依里の<綻澱>と接続されたのだ。

 どうして気付かなかったのかと、慈愛は自分を責める。

 無意味なことか。

 となると美香奈から<綻澱>を切り離すのが先だ。

 策を練る間にも、大樹の枝が慈愛の本体への攻撃を繰り返す。頭の片隅を使ってカードを移動し、適確に弾き飛ばす。

 同時に低位置からカードを侵攻させ、大樹の根本の<縁脈>の切断を試みるが、一進一退。

 大樹の枝は一旦退却し、すべてのカードへの同時攻撃を行った。

 十数本の枝が、同時に迫る。

 慈愛は思考力の総てを防御に回す。枝を一本、二本と回避、さらに続けてはね除ける。

「先生! 危ないっ!」

 千尋の声が慈愛の認知階層を引き戻す。美香奈が身体ごと、慈愛に飛びかかって来ていた。

 認知階層を現実に。カードを抜く。壁を――間に合わない!

 ブゥンという音と共に、美香奈の刃が振り下ろされる。

「先生っ!」

 慈愛の前に千尋が飛び出した。

 美香奈の刃が千尋の背中に突き刺さる。

 美香奈が、退いた。



 汚れた、と認めた時点で、自分は支配されてしまっていたのかもしれない。

 美香奈は自分の下腹部に巣食らう<綻澱>が、身体の鼓動とシンクロしてしまっていることを感じていた。

 汚れたい、汚されたい。千尋に、汚されたい。

 欲望がないかと問われれば、明確な否定はできない。そこに付け込まれたのかもしれない。

 身体への侵入を許し、心への侵入を許し、結果――自分は汚れてしまった。

 <綻澱>が身体から溢れてくる。

 手足は最早、美香奈の意思どおりにはならず、不如意に動かされるがままになっている。身体と心が、切り離された感覚。どこか遠くのほうで、自分の手足が<綻澱>を投げ続ける感触。でもまるで、他人の行動みたいだ。

 何度となく刃を振るい、一際大きな指令が送られて来た。

「汚れを排除しようとする者を切り捨てなさい」

 シンプルな命令に、シンプルな回答。了解したと。

 美香奈は――正確には大樹の枝に操られた美香奈の身体は、刃を上段に構え、羽を広げて一気に慈愛に接近した。

 慈愛の反応は鈍い。意識がどこかに飛んでいるよう。しかし関係ない。

 刃を一気に振り下ろす。

 しかしその先には、千尋の背中があった。

 ザグッ!

 肉の裂ける音、骨にぶつかる感触がして、刃は千尋の背中を大きく切り裂く。

 ――千尋? どうして?

 身体から遠く離れた意識が、疑問を投げる。

 意識から遠く離れた身体が、後退する。

 徐々に接近する身体と意識が、徐々に現実を認識し始める。

 ――千尋を、傷つけた。

 自らの手で、大切な人を傷つけた事実を、ようやく理解する。

「わ、わたし……わたし……」

 自分が、自分の手が、どんどん汚れていく。

「先輩は汚れてしまったのですよ。さあ、戻ってきてください」

 自分の心までもが汚れていく。

 自分の……自分の……。

 違う、こんなのは私が望んだことじゃあない。千尋を傷つけることなんか、望んでいない。私じゃない。私がやったんじゃない。

 悪いのはこいつが。私の中で脈打つ、こいつだ。

 私の心を乱し、汚し、操った、<綻澱>の源のせいだ。

 ――こんなのもの、消えてなくなれ!

 美香奈は自分の下腹部に刃を突き立て――横に引いた。自分の身体の構造が切断されるのを感じる。

 出ていけ! 出ていけ! 出ていけ!

 傷口を手首でえぐり、中で脈打つ塊を、引き抜いた。

 出ていけッ!



 美香奈の刃は<縁脈>を切断するためのものであり、物理的攻撃力がどの程度あるのか、千尋には本当のところは分からなかった。しかし今背中を襲っている激痛は、明らかに肉体を切り裂かれた痛みだった。

 どうして自分は逃げなかったのだろうと、千尋は疑問に思う。

 自分がいたら慈愛の足手まといになるからとか、逃げる口実はいくらでもあったはずだ。それなのに逃げもせず、慈愛をかばって負傷した。

 いや、違うな。多分自分は、逃げる勇気すらなかったんだ。

 嫌だ、と思う。何もかもが、嫌だと思う。

 汚れることを求め、<綻澱>に侵され、<綻澱>の源となった依里のことを。

 異形の姿となり、力を持って<縁脈>を断ち切る八咫鴉のことを。

 醜いものを嫌悪し、忌避しようとする自分の姿を。

 膝をついて、土を掴む。周囲の<縁脈>が指に絡む。

 何もかもリセットして、綺麗にしてやりなおせればいいのに。

「……くん! ……千尋くん!」

 慈愛の声に顔を上げた。

「千尋くん。大丈夫? 痛む?」

「はい、少し……いえ、結構きついです」

「聞いて。あなたを助ける方法が一つだけあるの。それは、あなたを八咫鴉にすることよ」

「僕が?」

「そうよ。あなたにも八咫鴉の力が眠っているの。だからそれを解放すれば、あなたを助けることができる」

「僕……が?」

「良く思い出して! あなたは<縁脈>を視たでしょう? それに世界が反転するのも――ううん、それはもしかしたら、あなたが原因なのかもしれない。それに現に今、そうやって<縁脈>を掴んでいるじゃない」

 千尋が指に絡み付いた<縁脈>をあわてて振り払う。

「だから選んで。八咫鴉になるかどうかを、あなたの意思で判断して」

 自分が八咫鴉? あの醜い姿になるのか?

 自分が嫌悪した、あの醜い八咫鴉になるというのか?

 千尋は答えに詰まる。無言のまま、時計の針が進む。

 八咫鴉になって<縁脈>の構造に介入しろということなのか。

 幾人もの人の言葉が頭に浮かび上がる。

 構造を知れば世の中のことが分かるようになると、慈愛は言った。

 構造の中に踏み出さなければ、構造は理解できないと、果帆子が言った。

 すべての物語には構造があると、ゼミのテキストに書いてあった。

 構造を視て、構造に介入することは、人の心に、人の社会に介入することだ。それが八咫鴉の力。他人との関係性に距離を置き、そこに深く立ち入ろうとしなかった自分に、そんな資格があるのだろうか。

 構造を断ち切り、構造を消し去り、構造を造り替え、構造を作り出すことなど。

「でも、先生。僕なんか、僕みたいな迷ってばかりで逃げてばかりな人間が、八咫鴉になっていいんでしょうか」

「千尋くん、そんなに自分のことを過小評価しないで」

「違うんです。違うんですよ、先生。聞いてください」

 自分と他人との関係性に踏み込まなくなったのはいつの頃からか。――そんなことは分かっている。あの時だ。

「中学二年の夏休みなんです。あの人が、大切なあの人――姉さんが、血に染まってしまったんです。それを僕はただ見ていただけだったんです。僕があの人を拒絶したから。僕が拒んだから、姉さんは手首を切ったんです。そうなんだ。そうして流れた血は、僕の手を汚して、それから僕は手を洗うようになったんだ。そして他の人との関係に、距離をおくようになったんだ」

「千尋くん、落ち着いて」

「そんな僕が、他人の構造に介入だなんて!」

「千尋くん。あなたのことは分かったわ。あなたが恐れていることも、分かった。だけど、そういうあなただからこそ、構造を一段高いレベルから見て、把握し、介入できるんじゃないかしら? あなただからできる、構造との関わりかたもあるんじゃないかしら?」

 ――自分だから、できること?

 千尋の中に新しい可能性が浮かぶ。

 美香奈すら嫌悪してしまった自分を、もしも許してもらえるのなら。

 戦うことも逃げることも避けようとした自分の臆病さを、もしも許してもらえるなら。

 自分が出来ることが、あるんじゃないだろうか。

 選ばれた特別な人間だなんて思わない。そんなことは考えない自分だからこそ、八咫鴉として出来ることがあるんじゃないだろうか。

 千尋は慈愛の目を見る。

「先生……」

「千尋くん。決めるのは、あなた自身よ。だけれど、どちらの答えを選んでも、私は全力であなたを助けるわ」

「――やります」

「いいのね」

「はい」

 慈愛が継承者のカードを取り出し、千尋の額にかざした。

「百瀬千尋を我が学びの子供とし、八咫鴉として覚醒させしことを記す!」

 カードに引っ張られるように、千尋の額から細い光の角が伸びる。同時に、背中には羽が広がる。――黒色、いや違う!

 千尋の翼は、銀色の翼であった。

 カラスの羽は、角度によっては銀色に見えることがある。しかし千尋の翼は、どこをどう見ても、銀色の美しい翼だ。

 千尋の左手には、手ぬぐいが握られていた。いつも手を洗う時に使っている手ぬぐいだ。数秒見つめてから、その端を口で噛みきり、引き裂いた。

「先生、僕は――」

 右手を伸ばして手の平を広げ、再度閉じると、巨大な針が握られていた。

「断ち切るのではなく――」

 ほつれた手ぬぐいから、糸が引き出される。千尋は針の根本に糸を通し、ふりかぶって美香奈に向かって撃ち出した。

「繋ぎ直すことが、したいです!」

 針は美香奈の身体の周囲を周回し、縦横に走り、腹部の傷を縫い合わせた。力が抜けた美香奈が落下する。その手から、<綻澱>の塊が離れて大樹に引かれていった。

 慈愛が空中で美香奈を抱き止め、千尋の隣に降り立った。

「美香奈、聞こえる?」

「ち……ひろ……?」

「美香奈はもう、汚れてなんか、ないよ」

 それに僕だって八咫鴉なんだし、と続ける。

 美香奈は慈愛の手を離れ、自分の足で立った。

「美香奈ちゃん、動ける?」

「平気です。もう、平気」

 依里が細い笑い声を響かせる。

「三人になっても意味ないですよ。ああ、古賀先生……古賀先生の欠片が……」

 美香奈から奪った<綻澱>の塊を、いとおしそうに胸に抱く。

「千尋くん、美香奈ちゃん、ほんの少しでいいから協力して」

「はい」

「わかりました」

 慈愛が後退した。同時にその存在が、上位の高いところに移動するのが分かる。

 頭上――としか表現できない――から慈愛の声が二人に伝わる。

「防御は私に任せて、美香奈ちゃんは正面突破を」

「はい」

「無駄ですっ!」

 大樹の枝の数十本が、三人の頭上から迫る。

 慈愛のカードが鎖となって連なり、しなやかに枝をなぎ払った。点から線、そして面への攻撃。

 枝が退却するその隙に、美香奈が正面から大樹に接近する。

 一閃!

 大樹の根元に刃を入れる。依里が悲鳴を上げた。

「美香奈ちゃん、上へ」

「はい!」

 翼を広げ、一気に大樹の上部、依里の頭上の位置に。再度刃を振るう。

 枝が<綻澱>の弾丸を吐き出す。が、千尋が投げた針が、すべてに命中し、撃ち落とす。

 美香奈は逆袈裟に刃を撃ち込む。大樹が揺れた。

 自由落下に任せて地面に着地、起き上がる勢いで身体を回転させながら、再度根元に刃を突き刺し、そのまま力任せに断ち切った。

「千尋くん、前に」

「はい!」

 千尋が大きくジャンプし、大針を投げる。同時に美香奈も跳躍し、傾いた大樹の幹を、片っ端から削ぎ落した。

 <縁脈>が崩壊する。

 千尋の針は依里の周囲を飛び回る。依里を傷つけないように、それでいて大樹の破片は払い落とすように。

 手ぬぐいから次々に生まれてくる糸は、太くて力強い。

 螺線を描いて空を舞い、しかし絡まることなく<縁脈>に触れていく。

 光の帯。純白の契り。

 変化を約束する、確かな結合。

 千尋の針が依里を巡り、その身の回りの<縁脈>を再構成した。

 依里の周囲の人間関係が歪んだものであり、そのことによって依里と世界との接点すらも歪んでしまったのなら、千尋はそれを修復してあげたいと思う。

 本当ならこんな乱暴な方法ではなく、時間をかけて助けてあげる必要があるのだろう。でも八咫鴉が出来ること、<縁脈>の介入で出来ることは、きっとこのくらいしかないのだ。

 だから千尋は、切断されて行場の無くなった依里の周囲の構造を、徹底的に改編し繋ぎ直した。古賀との関係も断ち切った。天城依里という人間を変えることはできないが、世界との関係を変えてあげることはできる。

 千尋は丁寧に丁寧に、<縁脈>を繋ぎ合わせる。

 依里が叫んだ。

「何、これ……怖い……変わっていくみたいな……」

「天城さんは、そのままの世界とのつながりを続けていたいの?」

「……そうじゃない。私はもっと違う形で……」

「拒否すればいいんだよ。穢れに飲み込まれないで。心から、拒否するんだ!」

「イヤ……私はこれ以上汚れるのは、嫌よ!」

 言葉を境に、依里と<綻澱>との<縁脈>は、完全に途切れた。

 どこにも繋がっていない<綻澱>の集まりと化した大樹は、存在しているという認識そのものを喪失し、灰が風に吹かれるように崩れて消えていく。

 後に残されたのは、何ごともなかったかのような姿の、依里だった。

 世界が再び反転し、もとの公園の景色が戻った。

 最後に残っていた一本の<縁脈>が、高台に向かって撤退していく。あまりにも素早い撤退に、千尋と美香奈はその痕跡すら気付かなかった。

 慈愛だけが追跡を一瞬試みたが、投げた観測者のカードは、途中で失速し目標を見失った。

 最後に残っていた一本の<縁脈>が、地面の中に向かって撤退していく。あまりにも素早い撤退に、千尋と美香奈はその痕跡すら気付かなかった。

 慈愛だけが追跡を一瞬試みたが、投げた観測者のカードは、地表にぶつかって失速した。

 そのことだけが、慈愛の気掛かりだった。

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