雨とコーヒーと、酒と本

nagiyoooo

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第二章

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 彼に引っ張られるがままにたどり着いたのは、とある喫茶店だった。人通りの多い道から外れ、高い建物の間にひっそりと、今にも落ちてきそうな看板を構えている。裏路地のような場所に位置するものだから日光が入らず、暗くひんやりする場所だった。ドアは暗くてよく見えないが焦げ茶色で、ドアノブは金色で触るとヒヤッとした。中は想像より広く、丸いテーブルが三つ置いてありそれを囲むようにして椅子が何脚かおかれている。そして一番奥にはカウンター席があり、テーブルをはさんだ向こう側には黒いベストを着た渋いおじさん、いや、お爺さんがいた。毛髪が白く、鼻の下にも白いひげを生やしている。私たちはカウンター席に腰を下ろし、置かれていたメニューを見た。アメリカン、エスプレッソ、モカなど知らない名前ばかり書いてあったので、村上君と同じのでいいよと言った。彼はしばらく悩んで、「アメリカン二つ」と短く注文した。注文を受けたお爺さんは、テーブルの下からおそらく豆と思われるものを取り出し、ゴリゴリ何かし始めた。お爺さんの立っている後ろの棚には、外国語で書かれた瓶が何十本も綺麗に並べられている。
「ここ、夜はバーになるんだよ」
 村上君はそう言って、メニューを裏返した。裏にはこれまた見慣れない名前がたくさん書いていた。田舎者の私にはよくわからなかった。お爺さんが粉を機械に入れたところで、ほんのり苦く落ち着きのある匂いが漂ってきた。村上君は鼻の穴を大きくし、目をつぶって匂いを嗅いでいる。
「俺、コーヒーは匂いが一番好きなんだ。だってそうだろ? 見た目はドブみたいに黒々しいし味は苦い。匂いがよくなかったら飲まないね、こんなもの」
 私は彼の言葉に返事はしなかった。仮にもそのコーヒーを売っている人の前で言う事じゃないし、第一私は味も好きだった。しかしお爺さんはそんな言葉を聞きかながらも、変わらず優しそうな笑みを保っている。ほんの数分でコーヒーが出された。磨かれたカップに私の顔が反射し、白い湯気がゆらゆら揺れている。私はゆっくりそのコーヒーを、味わって飲んだ。
「ほかにはどんな講義をとってるの?」
 村上君はカップを鼻の位置で保ったまま、私にそう聞いた。
「経済史とか経営学とか会計学とか」
 特に嘘をつくこともなかったので、正直に答えた。彼は深呼吸をするように匂いを嗅ぎ、
「外国語は何をとってるの?」と聞いた。
「フランス語」と私が言うと、「それはいいね」と答えてコーヒーをじゅるっとすすった。
 私がコーヒーを飲んでいる間、彼は私に話し続けた。趣味は何だとか休みの日は何をしているんだとかアルバイトはしているのかとか、親の仕事は何だとか、恋人はいるのかとか。そういった質問をしてはコーヒーの匂いを嗅いでいた。私は飲み終わるころ、彼のカップにはまだ半分ほどコーヒーが残っていた。彼は、
「ここが潮時か」などと訳の分からないことを言って、コーヒーを残したまま二人分の代金を払って店を出た。私はごちそうさまと言った。
 外はいつの間にか夕日に染まっていて、街は帰宅するサラリーマンや学生であふれていた。私たちはその波に乗って駅の方に向かった。
「なんだか木村さんからは皆と違うものを感じるよ。雰囲気というか居心地というか。もちろんいい意味でね。他の一年生はちゃらちゃらしていてお祭りみたいな髪をしてるじゃないか。あれでも数か月前は受験生で真面目に勉強していたんだぜ。信じられないだろ。だからああいう、浮かれて調子に乗っていたり周りに流されて自分もやっている奴は嫌いだ。それに比べて木村さんは落ち着きがあるし、大人って感じがするよ」
「ありがとう」と私は言った。それは本心で言った。私も彼と同意見だった。都会に来てからずっと感じていたことでもあった。街の人たちは流れるように歩いて電車に乗り、流行という言葉にいやに敏感で、群れから外れたものをとことん嫌う。どこへ行っても人の目があって耳がある。こんな住みにくい場所はないと思った。
「じゃあ俺こっちだから」
 村上君はそう言って私と反対の道に向かった。
「良かったらまた今度どこか行かないか?」と彼は言った。
 別段断る理由もなく、しいて言えばコーヒーに関する価値観が違うくらいだったので、アルバイトがない日だったらいいよと言った。彼は、
「ならまた来週、講義の後に君を誘うよ」といった。私はうんと頷いて、彼と別れた。
 夕焼けの中、ふらふらとアパートに向かって歩いていた。短いスカートを穿いてぴょんぴょん飛び跳ねる女子高生や、悪魔に魂を売ったような顔をしたサラリーマン。ラーメン屋から漏れてくる油やスープの香り。家から聞こえてくるただいまの声。ふと、彼らは何のために生きているんだろうと思った。まさか会社で社畜になるために生きているわけではないだろうし、大して役に立たない数学の定理や文法を覚えるために生きているわけでもないだろう。アパートにつく100歩前まで、そんなことを考えていた。ただいま、おかえり。その言葉を聞くために生きているのかもしれない。目の前を通る親子三人を見てそんな思考がよぎった。私はアパートにつき、うまく刺さらない鍵を何とか差し込み、部屋に入った。
 なら私は、何のために生きているんだろう。
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